ハワーズ・エンドのレビュー・感想・評価
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【84.0】ハワーズ・エンド 映画レビュー
ジェームズ・アイヴォリー監督による1992年の映画『ハワーズ・エンド』は、英国の「ヘリテージ・フィルム(文芸映画)」というジャンルを決定づけた重要な作品である一方、文学を映画へ翻訳する過程における限界と課題を露呈させた一作でもある。E.M.フォースターの同名小説を原作とする本作は、英国階級社会の断層を描き出すことには成功しているが、映画全史における相対的な評価としては、構成の冗長性と視点の分散により、映像芸術としての「純度」や「求心力」において、完成された領域には達していないと言わざるを得ない。
作品の完成度について深く考察する。本作の最大の特徴であり、同時に映画としての弱点ともなり得ているのが、原作小説の持つ多層的なプロットを、整理しきれずにそのまま映像化してしまった点にある。物語は、理性を重んじるシュレーゲル家、実利を重んじるウィルコックス家、そして貧困にあえぐバスト家という三つの視点を行き来するが、その構成はあまりに拡散的である。映画というメディアが本来得意とする、時間の大胆な省略や、視覚的なモンタージュによる心理の凝縮といった技法が十分に機能しておらず、結果として物語の進行は停滞し、全体的に間延びした印象を与える。
後の時代に洗練されていく同ジャンルの作品群が、テーマを一点に絞り込み、無駄を削ぎ落としたソリッドな構成美を獲得していった歴史的経緯と比較すれば、本作はまだ「文学の呪縛」から抜け出しきれていない。台詞による説明過多や、エピソードの羅列に近い展開は、観客に対して劇的なカタルシスを与えるよりも、大河小説を読み進めるような忍耐を強いる側面がある。ゆえに、本作は「時代の空気を封じ込めた豪華なアーカイブ」としては一級品であるが、映画としての構造的完成度においては、焦点が定まりきらない散漫さを抱えた作品と評価せざるを得ない。
監督・演出・編集について、ジェームズ・アイヴォリーの手法は、格調高さこそあるものの、本作に関してはあまりに説明的である。彼は俳優の微細な演技や美しい美術をじっくりと見せることに重きを置きすぎたため、シーンごとのカット尻が長く、テンポが重い。特に中盤以降、複数のプロットが並行して進む場面では、編集のリズムが物語のサスペンスを削いでしまっており、現代的な視座で見れば明らかに刈り込み不足である。演出においても、登場人物の心理的な葛藤を映像的な「動き」や「光」だけで語り切る強度が不足しており、どうしても台詞や状況説明に頼るきらいがある。これは、アイヴォリーがまだ「小説の忠実な再現」こそが正義であるという古典的な価値観に留まっていた証左であり、演出家としての鋭利な作家性が開花しきる前の、過渡期の迷いを感じさせる。
ヘンリー・ウィルコックスを演じたアンソニー・ホプキンス(クレジット順)は、本作において、当時の大英帝国を支えた実業家の典型としての頑迷さと、人間的な限界を体現している。彼が演じるヘンリーは、感情や理想を軽視し、所有と拡大のみを信条とする家父長であり、その態度は現代の観客からすれば滑稽ですらある。ホプキンスは、自身の過ちを認められない男の愚かさを、威圧的な口調や視線の強さで表現しつつ、その奥底にある「変化への恐怖」や「老い」を微細に滲ませた。しかし、脚本の構造上、彼の内面変化のプロセスが断片的にしか描かれないため、ホプキンスの重厚な演技をもってしても、キャラクターとしての深みが十分に掘り下げられたとは言い難い部分が残る。それでもなお、彼が存在するだけで画面に緊張感が生まれるのは、彼の役者としての力量によるものである。
ルース・ウィルコックスを演じたヴァネッサ・レッドグレイヴは、出演時間は短いが、物語の精神的支柱として不可欠な役割を果たしている。彼女は世俗的な価値観とは無縁の場所で生きる女性を演じ、その透徹した眼差しと静謐な佇まいは、ハワーズ・エンドという土地の霊性そのものである。彼女の演技は、言葉よりも存在感で語るものであり、説明的な台詞が多い本作の中で、数少ない映画的な詩情を感じさせる瞬間を提供している。彼女の不在が物語を牽引するという逆説的な構造が成立しているのは、レッドグレイヴの持つ神秘的なオーラに依るところが大きい。
ヘレン・シュレーゲルを演じたヘレナ・ボナム=カーターは、理性よりも感情に従って生きる情熱的な女性を、若々しいエネルギーで演じた。彼女の演じるヘレンは、その純粋な正義感ゆえに周囲を混乱させ、物語を悲劇へと駆動させるトラブルメーカーである。ボナム=カーターは、当時の彼女が持つ独特の古典的な美貌と、反骨精神を感じさせる演技で、この衝動的なキャラクターに説得力を与えている。ただし、演出の意図か、彼女の感情の起伏が唐突に映る場面もあり、観客の共感を呼びにくい側面もあるが、それは役者の責任というよりは脚本の粗さであろう。
マーガレット・シュレーゲルを演じたエマ・トンプソンは、散漫になりがちな本作を一本の作品として繋ぎ止める、実質的な座長としての役割を見事に果たした。彼女は知性と教養を持ちながら、現実的な対応力と他者への深い寛容さを兼ね備えた女性を演じ、その演技は映画史に残る名演である。トンプソンは、対立する価値観の間に立ち、傷つきながらも「つなぐこと」を諦めない強靭な精神を、大げさな芝居ではなく、日常的な会話の端々や、慈愛に満ちた表情で表現している。特に、夫の過去を受け入れる際の複雑な心理描写は圧巻であり、彼女の微細な表情の変化が、この「間延びした」物語に人間的な温かみとリアリティを付与している。彼女のアカデミー主演女優賞受賞は、作品の評価というよりも、彼女個人のパフォーマンスに対する正当な評価と言える。
レナード・バストを演じたサミュエル・ウェストは、階級社会の底辺で文化的な生活に憧れながらも、冷酷な運命に翻弄される若者を痛切に演じた。彼の存在は、上流階級の知的遊戯がいかに無自覚で残酷なものであるかを告発する機能を担っている。
脚本・ストーリーについて、ルース・プラワー・ジャブヴァーラによる脚色は、原作の要素を詰め込みすぎた結果、焦点が定まらないという弊害を生んでいる。「傘の取り違え」から始まる運命の交錯や、階級間の断絶というテーマは興味深いが、バスト家の悲劇とウィルコックス家の相続問題の結合部において、偶然に頼りすぎた展開が目立ち、物語としての必然性が弱い。これは映画脚本というよりも、演劇あるいは小説のダイジェストを見せられているような感覚に陥らせる要因となっている。
映像・美術衣装の観点では、撮影のトニー・ピアース=ロバーツ、美術のルチアナ・アリギ、衣装のジェニー・ビーヴァンによる仕事は、視覚的な快楽を提供する点においては成功している。エドワード朝の重厚な室内装飾や美しい衣装は、細部に至るまで時代考証が徹底されており、画面の密度は高い。しかし、その美しさが物語の推進力となっているかといえば疑問であり、単なる装飾的な背景に留まっている場面も少なくない。
音楽はリチャード・ロビンスが手掛け、パーシー・グレインジャーの楽曲などを取り入れたスコアは、映画の格調高さを演出している。しかし、映像と同様に音楽もまた饒舌であり、観客の感情を誘導しようとする意図が強く出過ぎているきらいがある。主題歌はないが、劇中の旋律は時代の空気を再現する舞台装置の一部として機能している。
受賞歴については、第65回アカデミー賞において、主演女優賞(エマ・トンプソン)、脚色賞、美術賞の3部門を受賞した。また、作品賞、監督賞、助演女優賞(ヴァネッサ・レッドグレイヴ)、撮影賞、衣装デザイン賞、作曲賞にもノミネートされた。これらの評価は、当時の映画界が「文学的で格調高い歴史劇」を求めていた時代の反映であり、映画史的な視点で見れば、革新性よりも伝統的な様式美が評価された結果と言えるだろう。
総じて『ハワーズ・エンド』は、豪華絢爛な美術と名優たちの演技を堪能できる一級のエンターテインメントではあるが、映画としての構造的強度は低く、冗長さを抱えた大作である。完全無欠の傑作と呼ぶにはあまりに隙が多く、むしろその「緩さ」も含めて愛でるべき、古き良き時代の遺産と位置づけるのが妥当である。
作品[ハワーズ・エンド(原題:Howards End)]
主演
評価対象: アンソニー・ホプキンス、エマ・トンプソン
適用評価点: S10
(乗数3適用: 30点)
助演
評価対象: ヴァネッサ・レッドグレイヴ、ヘレナ・ボナム=カーター、サミュエル・ウェスト
適用評価点: A9
(乗数1適用: 9点)
脚本・ストーリー
評価対象: ルース・プラワー・ジャブヴァーラ
適用評価点: B+7.5
(乗数7適用: 52.5点)
撮影・映像
評価対象: トニー・ピアース=ロバーツ
適用評価点: A9
(乗数1適用: 9点)
美術・衣装
評価対象: ルチアナ・アリギ、ジェニー・ビーヴァン
適用評価点: S10
(乗数1適用: 10点)
音楽
評価対象: リチャード・ロビンス
適用評価点: A9
(乗数1適用: 9点)
編集(減点)
評価対象: アンドリュー・マーカス
適用評価点: -2
監督(最終評価)
評価対象: ジェームズ・アイヴォリー
総合スコア:[84.0]
※小計117.5 × 0.715 = 84.0125... 小数点第2位四捨五入
ヘレナ・ボナム・カーター
登場人物誰にも共感できず
20世紀初頭の英国社会
1910年に発行された文芸小説の映画化。原作は読んだことがないのだが、今日も見られるような相続騒動を中心に、当時の英国社会の階級毎の人々の気風や暮らし向きの違い、ロマン主義の影響、男性の勝手、女性の地位や姉妹の生き方の違い、生家への愛着など様々なことが描かれていて考えるところの多い話。さらに、実力のある俳優陣、美しい衣装とセットで、映像としても見応えがあった。
私としては…労働者階級のレン君が不憫だった。同じ生粋のロマンチストでも、ヘレンのように生まれが上流(中流貴族?)であれば、生きていけたであろうに。実業富裕層のウイルコックス家の長男の暴力が隠蔽されずにちゃんと裁かれたのにはホッとしたが、それでも親からの財産があり、名前、居所を変えればちゃんとやっていけることが示されていて、レン君がヘレンに言った台詞「君達と違って僕達は一度(社会の)レールを外れたら二度と戻れない」の台詞が効いてくるTT。でも、その長男の嫁に「可愛らしい子」と言わしめた彼の子供が、ゆくゆくはこの美しい家屋敷を継ぐ結末に、作者と制作陣の人道的配慮を感じた。
また、全てを丸く収める要となる存在がヘレンの姉マーガレット=女性であることをしっかりと描いているのは当時としては画期的だったかも。彼女は旧い女性の生き方にも新しい女性の生き方にも理解があり、一方で情に溺れることはなく聡明かつ寛容で、時代の繋ぎ手として完璧な女性に思えた。
肌感覚ではわからない
登場人物たちが生き生きとしていて、それぞれの
信条での行動は揺るがなく
多少の設定が変わればどこの世界にも起きそうなようにも思える。
ハワーズ・エンドという邸宅をめぐって
階級の異なる二家族が
妙な縁に振り回されつつ理解し合えるのか、
そんな主題。
気持ちとしては好きと思っても結婚となれば
価値観の違いというものはより如実になる。
そこをわかってくれる人に家を受け継いでほしいと
いう気持ちはわからいでもない。
しかし前述したように価値観の違い、だけではなく
イギリスなのでそこには純然たる階級の違いも
存在している。
実業一家は階級的にはそれほど高くはなく、
実利ばかりで教養も足りてないという
認識があるのだろうと思う。
知的階級のマーガレットたちはむしろ
そういったことでの差別はいけないことだと
理想主義として教育されている。からこその
貧乏青年とも恋に落ちる。
行動の基盤がそこにあるんだろうというのは
頭ではわかるのだけれど
そんな階級世界をよくわかっていないので、
イギリスやヨーロッパの人たちがこの作品を観て、
肌感覚で「わかる」ところが
おそらく自分には理解できてないのではないだろうか。
評価高かったから観たけど、良さが分からなかった
【”現実主義と自由博愛主義との狭間で起こった様々な出来事と人間模様をハワーズ・エンド荘は静かに見守っていた・・。美しき、英国の田園風景が、この作品が醸し出す気品を支えて居る作品でもある。】
ー 自由博愛主義のシュレーゲル家の聡明な姉マーガレット(エマ・トンプソン)と、美しくも愛に奔放な妹ヘレン(ヘレナ・ボーナム=カーター:ティム・バートン監督とお付き合いを始まる前だったので、ヘンテコな役ではない。)と現実主義のウィルコックス家の長、ヘンリー(アンソニー・ホプキンス)を始めとした思想、生き方の違う人々の姿を、ウイルコックス家所有のハワーズ・エンド荘は、静かに見守っているようだ。
ハワーズ・エンド荘の周囲の美しい自然と共に・・。ー
・ヘンリーの妻ルースのみが、聡明なマーガレットと病床で交流を深めるシーン。そして、末期の彼女が鉛筆でメモに遺した言葉。だが、ウィルコックス家の人々は、”その言葉”を受け入れられずに、破り捨て暖炉で燃やしてしまう・・。
・ヘンリーと、マーガレットが惹かれ合って、婚約したのはお互いにないモノを持っている事に対する敬意から産まれた愛情であろうと勝手に解釈する。
ー ここは、劇場で観た際にも唐突感があった。今回も完全に払拭出来たわけではない・・。ー
・だが、終盤、情無き、チャールズ・ウィルコックスが、ヘンリーのアドバイスの転職を勧めた”ミス”で困窮したレナード・バストに行った仕打ち。その結果、ルースが遺した言葉通りになりシーン。
ー ”家が人を選ぶ”とは、正にこのことである。ー
<初回、鑑賞時には一部難解に思えた作品であるが、再見すると人の心の機微の変遷や、運命の残酷な悪戯が、上手く描かれていると思った作品。
英国の田園風景を映し出した映像も、大変美しく、この作品の醸し出す気品を支えて居る作品でもある。>
<2019年10月20日 京都シネマにて鑑賞>
<2021年 4月27日 別媒体にて再鑑賞>
美しい郊外の風景、街中の様子など、様々な階級の英国の香りが漂い、ホ...
流石イギリス
イギリスのコテージハウス、その500年
題名のハワーズ・エンドは家の名前。イギリスの500年も前のコーテージ・ハウスを舞台にした20世紀初頭の物語。見終わっての感想は、この映画もまた幾つかの建物が主役となり作られていた、ということ。かってカズオ・イシグロの映画「日の名残り」を見終わった時と同じ印象だ。
ハワーズ・エンドは同時代の田園都市を開発したハワードと関係があるのではないか、映画を見終わった後、気になり図書館で調べてみると、池澤夏樹さんが彼の個人編集・世界文学全集の1巻として吉田健一訳「ハワーズ・エンド」を発刊していたことがわかった。やはり名作は「観るより読め」かと思いつつ、池澤さんの解説を読むとこんなことが書かれていた。
イギリス文学には日本文学の花柳小説とは異なる「風俗小説」の伝統がある。・・・・登場人物の個性よりも社会性の方がプロットを駆動する。役者以上に舞台装置の力が大きく、個性の神話としてのロマン主義には傾かない。作者と読者の間に、暗黙のうちに、社会について共有する理解がある。
なるほど、これでわかった、「日の名残り」も「ハワーズ・エンド」も建物が映画の主役と思ったのは、このイギリス文学の伝統にあったのだ。物語の内容については本を読んでからゆっくり考えることにしよう。「眺めのいい部屋」もそうだったし、「二都物語」・・・・。やはり建築空間が気になるなら、イギリス文学は「観るより読め」ということのようだ。
池澤さんの巻末の解説によれば、「ハワーズ・エンド」の家はロンドンから数十キロ離れたハーフォードシャーにいまでも健在、作者であるエドワード・モーガン・フォスターの母の家だったそうだ。
貧家の母アリスは裕福な女性の家に引き取られ、家庭教師の資格を得る。母アリスを引き取ったマリアンには建築家を目指す甥がいた。この甥とアリスの二番目の子が「ハワーズ・エンド」の作者エドワード。最初の子は生まれて間もなく亡くなり、次男のエドワードが生まれるとすぐに夫も結核で死ぬ。甥を失ったマリアンはエドワードとアリスをずっと庇護しようと決め、やがてアリスとエドワードはハーフォードシャーの家に引っ越し、映画にある「古くて小さくてなんとも感じがいい、赤煉瓦の家」に住むこととなる。つまり、「ハワーズ・エンド」の作者エドワードはこの家で幼年期を過ごし、映画監督ジェームズ・アイヴォリーはこの家を舞台として「ハワーズ・エンド」を撮った。
映画でのこの家の所有者は保守的な実業家ヘンリー(演じるのはアンソニー・ポキンス)の妻ルース。やがてルースは遺産として「ハワーズ・エンド」を親友である自由主義的なマーガレットに譲り、さらに「ハワーズ・エンド」はマーガレットの妹ヘレンと知的だが不運な労働者パスト氏の間に生まれた不義の子に引き継がれる。つまりハーフォードシャーの500年前のコーテージ・ハウスは映画や物語の中でも現実と似たような経過を辿り生きつづけていく。
ジャッキーはどうなった?
4Kデジタル・リマスター版が公開。映像はさすがに綺麗だし、上流階級の生活ぶりもよくわかる。ウィルコックスの当主であるヘンリー(アンソニー・ホプキンス)はアフリカ植民地に関わる会社を経営して富豪になった様子がうかがえる。フランスと争ってアフリカの植民地を増やし続けていた大英帝国。帝国主義万歳とか婦人参政権を論じていたりと当時の社会情勢も勉強になる。
ロンドン郊外にあるウィルコックス家所有の別荘ハワーズ・エンド。シュレーゲル家と因縁めいた付き合いにより、長女マーガレット(エマ・トンプソン)が老婦人ルース(バネッサ・レッドグレーブ)の世話をしたことから、「ハワーズエンドはマーガレットに」という遺言を残すまでになったが、他人に譲渡するなんて・・・と、鉛筆書きだったこともあり、ウィルコックス家は遺言書をもみ消してしまう。そのハワーズエンドが両家と低所得者層のバスト夫妻が奇妙に絡み合っていくのです。
レン・バストはある講義でヘレン・シュレーゲルに傘を持って行かれ、ちょっとだけ親しくなるのですが、これがまた1年後に重大な転機を迎える。「勤めている保険会社は年末に倒産するから今のうちに転職した方がいい」などというヘンリーの言葉を信じ、マーガレットとヘレンはレンに忠告するのだが、予想もしない展開となっていく。
奇妙な縁で・・・という大まかなプロットは、そこまで膨らませなきゃならないのか。それに過去の愛人問題、現在の不倫、見事に絡まってはいくものの、最終的には殺人事件で終わり?と、どうしても腑に落ちない。そんなことより、貧富の格差をもっと描いてほしいと感じるし、低所得者層を舐め切った言葉で罵倒するなど、いつかは没落するはずの大富豪も何様?といった感じで嫌悪感でいっぱいになる。
ちょっと古めかしい展開のため、伏線だとか感情線だとかは無視した帝国主義叙事詩みたいな印象も受ける。感情がもっとも現れるはずのヘレンとレンの描写も足りなさすぎ。むしろ内面を抉っていたのは当主ヘンリーの揺れまくる失態だったかもしれません。
Tragecomical Affairs at Haward‘s End(アガサ・クリスティ風に言うと、原作はフォスターだけど)
途中まではComedy(本来の意味での)だと思ったが、最後まで観て何と豊かな映画かという感想に変わった。デビット・リーンの端正さはないが、豊かな映像の中で滋味溢れる物語が紡がれていくところは正統英国映画の伝統が受け継がれている。物語もハワード・エンドという屋敷が受け継がれていく様を骨子としている。「インドへの道」でも描かれている様に、異質なものが出会うことにより、有るものは融合し、有るものは対立する様々な少ドラマが枝葉となる。同じ上流階級でも保守的なヴァネッサ・レッドグレーブと進歩的なエマ・トンプソンとの出会い。でも二人の間には友情が育つ。「インドへの道」でも活写された植民地からの搾取で富を築き上げたブルジョアのアンソニー・ホプキンズとエマとの結婚。庶民ながら詩と宇宙とを愛するレナードと父に輪をかけた俗物のチャールズ(二人は最後まで出会わないが、出会った途端に悲劇が起こる)。庶民のレナードが被害者になり、ブルジョアのチャールズが加害者になることで、皮肉にもハワード・エンドはエマを挟んで、上流階級と庶民との間には生まれたヘレン・ボナム・ガーターの娘へと受け継がれていく。現代に至るもまだ残るという英国の階級意識を肌身に感じないと100%理解出来ない世界だとは思うが、誠に豊穣な映画世界だということは理解できる。正統的英国映画だけあって俳優陣は揃って好演だが、やはりマーガレットを活き活きと造形したエマ・トンプソンがここではピカ一である。
下層階級は同じ人間とは思わない意識
インテリ中流階級の姉妹と庶民のバスト夫妻と上流階級家族が田舎の別荘ハワーズ・エンドを巡って交わっていくが、階級意識の違いが浮かび上がる物語。
1990年代の日本人が憧れるイギリスの生活とは?
ロンドンの伝統的な建築や慎ましく豪華な衣装や屋敷に田園の別荘。
重厚で豪華な内装や家具。優雅なお茶の時間と忠実な執事やメイド達。そんな夢のような描写の数々がこの作品の特徴ではあるが・・
一見優雅に見えるイギリス上流社会に属する人々は、階層違う人間に対する差別心や特権意識が、美しい映像と重厚な美術の中で、静かに描かれる。
それは、下層階級は同じ人間とは思わない意識。
インテリ姉妹は、上流階級の一員なり、ささやかな抵抗をするが、理解はされない、分かり合え無い。
下層に属する庶民のバスト夫妻に、共感して見てしまう自分には、選択のミスにより職を失い路頭に迷う姿は、とても他人事とは思えない。
しかも夫のレナード・バストは、ある仕打ちにより亡くなり、その妻がその後にどうなったか?も描かれない!?
ちなみにバストの妻は、貧しかった少女期に、上流階級のヘンリー氏の愛人をしていたが、それを汚点としている。
本作は1992年英日合作の作品で、日本の資本が入っていたのもバブル期だったからと、アイボリー監督作品の「モーリス」(1987年)の日本でのヒットを受けてだろうと推測している。
1992年当時の日本はバブルが弾けたとはいえ、一億総中流社会で豊かな日本では、感じ難かった階層意識が、今の日本の社会情勢だとこの作品世界に近づいていると、実感出来て暗澹たる気持ちになる。
今回のリバイバル上映でもエンドクレジットに拍手する人もいたので、ともかく映画としては、とても美しい映像と素晴らしい演技陣の上出来な文芸作品です。
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