ハワーズ・エンドのレビュー・感想・評価
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ヘレナ・ボナム・カーター
2025年1月14日
映画 #ハワーズ・エンド (1992年)鑑賞
20世紀初頭のイギリス、理想主義的なシュレーゲル家と現実的な実業家のウィルコックス家の2家族がウィルコックス家の別荘「ハワーズ・エンド」をめぐる人間模様
#エマ・トンプソン と #ヘレナ・ボナム・カーター の共演だけで見る価値あったな
日本企業の脱亜入欧を証明する映画。
アンソニー・ホプキンス、エマ・トンプソン、この映画の演出家と三拍子で考慮すると『日の名残り』からカズオ・イシグロさんの名前が浮かぶのは容易な事。
さて、忖度等と下品な言葉を使うと愛の無いAIに叱られるが、この四分の三拍子で、日本企業がこの映画にお金を出した理由が理解出来る。
イギリスの文化とカズオ・イシグロさんで同じ島国としての共通項を見いだしたいと願ったのだろう。
この映画が興行的には当たっていないと思う。
もし、当たっていれば、10年近く噂の続くノーベル文学賞が日本の無冠のライターに贈られていたのかもしれない。そう言う思いで、日本企業がお金を出したと思われる。
それを忖度と表現すると愛の無いAIに下品と怒られるよ。
とうとう、無冠のライターさんはお隣さんのしかも虐げられた女性に抜かれてしまいましたね。出来レースなんだから気にする事はないけどね。
日本企業の脱亜入欧を証明する映画。夏目漱石がイギリスでノイローゼになったと聞く。同じ島国で、同じ君主国だけれども、アイデンティティもナショナリズムも全く違うと日本人は理解しなけりゃ駄目である。
追記
なんでマーガレット役の俳優さん(僕の勘違いでした)がアカデミー賞を取らなかったんだろう?と不思議に思う。後半の演技なんだろうね。
追追記
英連邦は、インドが今後どうなるかでその運命も決まる。しかも、多くの英国企業がインドの会社にM&Aキャピタルパートナーから本来の合併に移行している。従って、今は順調のヨーロッパ経済もインド等の国によって、次第に日本の様な国になってくると予想する。つまり、日本は資本主義経済の先端を行く先進国なのだ。
なんか意味不明なお話だ。眠気が襲ったが、一回の睡眠で見通した。戻って、再度見たが何に感動してよいのやら。
エマ・トンプソンがマーガレットだったんだ!!なるへそ。
大乱流なゴミひとつ無い流れっぱなしの映画だぜ。
登場人物誰にも共感できず
20世紀初頭の英国社会
1910年に発行された文芸小説の映画化。原作は読んだことがないのだが、今日も見られるような相続騒動を中心に、当時の英国社会の階級毎の人々の気風や暮らし向きの違い、ロマン主義の影響、男性の勝手、女性の地位や姉妹の生き方の違い、生家への愛着など様々なことが描かれていて考えるところの多い話。さらに、実力のある俳優陣、美しい衣装とセットで、映像としても見応えがあった。
私としては…労働者階級のレン君が不憫だった。同じ生粋のロマンチストでも、ヘレンのように生まれが上流(中流貴族?)であれば、生きていけたであろうに。実業富裕層のウイルコックス家の長男の暴力が隠蔽されずにちゃんと裁かれたのにはホッとしたが、それでも親からの財産があり、名前、居所を変えればちゃんとやっていけることが示されていて、レン君がヘレンに言った台詞「君達と違って僕達は一度(社会の)レールを外れたら二度と戻れない」の台詞が効いてくるTT。でも、その長男の嫁に「可愛らしい子」と言わしめた彼の子供が、ゆくゆくはこの美しい家屋敷を継ぐ結末に、作者と制作陣の人道的配慮を感じた。
また、全てを丸く収める要となる存在がヘレンの姉マーガレット=女性であることをしっかりと描いているのは当時としては画期的だったかも。彼女は旧い女性の生き方にも新しい女性の生き方にも理解があり、一方で情に溺れることはなく聡明かつ寛容で、時代の繋ぎ手として完璧な女性に思えた。
肌感覚ではわからない
登場人物たちが生き生きとしていて、それぞれの
信条での行動は揺るがなく
多少の設定が変わればどこの世界にも起きそうなようにも思える。
ハワーズ・エンドという邸宅をめぐって
階級の異なる二家族が
妙な縁に振り回されつつ理解し合えるのか、
そんな主題。
気持ちとしては好きと思っても結婚となれば
価値観の違いというものはより如実になる。
そこをわかってくれる人に家を受け継いでほしいと
いう気持ちはわからいでもない。
しかし前述したように価値観の違い、だけではなく
イギリスなのでそこには純然たる階級の違いも
存在している。
実業一家は階級的にはそれほど高くはなく、
実利ばかりで教養も足りてないという
認識があるのだろうと思う。
知的階級のマーガレットたちはむしろ
そういったことでの差別はいけないことだと
理想主義として教育されている。からこその
貧乏青年とも恋に落ちる。
行動の基盤がそこにあるんだろうというのは
頭ではわかるのだけれど
そんな階級世界をよくわかっていないので、
イギリスやヨーロッパの人たちがこの作品を観て、
肌感覚で「わかる」ところが
おそらく自分には理解できてないのではないだろうか。
評価高かったから観たけど、良さが分からなかった
【”現実主義と自由博愛主義との狭間で起こった様々な出来事と人間模様をハワーズ・エンド荘は静かに見守っていた・・。美しき、英国の田園風景が、この作品が醸し出す気品を支えて居る作品でもある。】
ー 自由博愛主義のシュレーゲル家の聡明な姉マーガレット(エマ・トンプソン)と、美しくも愛に奔放な妹ヘレン(ヘレナ・ボーナム=カーター:ティム・バートン監督とお付き合いを始まる前だったので、ヘンテコな役ではない。)と現実主義のウィルコックス家の長、ヘンリー(アンソニー・ホプキンス)を始めとした思想、生き方の違う人々の姿を、ウイルコックス家所有のハワーズ・エンド荘は、静かに見守っているようだ。
ハワーズ・エンド荘の周囲の美しい自然と共に・・。ー
・ヘンリーの妻ルースのみが、聡明なマーガレットと病床で交流を深めるシーン。そして、末期の彼女が鉛筆でメモに遺した言葉。だが、ウィルコックス家の人々は、”その言葉”を受け入れられずに、破り捨て暖炉で燃やしてしまう・・。
・ヘンリーと、マーガレットが惹かれ合って、婚約したのはお互いにないモノを持っている事に対する敬意から産まれた愛情であろうと勝手に解釈する。
ー ここは、劇場で観た際にも唐突感があった。今回も完全に払拭出来たわけではない・・。ー
・だが、終盤、情無き、チャールズ・ウィルコックスが、ヘンリーのアドバイスの転職を勧めた”ミス”で困窮したレナード・バストに行った仕打ち。その結果、ルースが遺した言葉通りになりシーン。
ー ”家が人を選ぶ”とは、正にこのことである。ー
<初回、鑑賞時には一部難解に思えた作品であるが、再見すると人の心の機微の変遷や、運命の残酷な悪戯が、上手く描かれていると思った作品。
英国の田園風景を映し出した映像も、大変美しく、この作品の醸し出す気品を支えて居る作品でもある。>
<2019年10月20日 京都シネマにて鑑賞>
<2021年 4月27日 別媒体にて再鑑賞>
美しい郊外の風景、街中の様子など、様々な階級の英国の香りが漂い、ホ...
流石イギリス
イギリスのコテージハウス、その500年
題名のハワーズ・エンドは家の名前。イギリスの500年も前のコーテージ・ハウスを舞台にした20世紀初頭の物語。見終わっての感想は、この映画もまた幾つかの建物が主役となり作られていた、ということ。かってカズオ・イシグロの映画「日の名残り」を見終わった時と同じ印象だ。
ハワーズ・エンドは同時代の田園都市を開発したハワードと関係があるのではないか、映画を見終わった後、気になり図書館で調べてみると、池澤夏樹さんが彼の個人編集・世界文学全集の1巻として吉田健一訳「ハワーズ・エンド」を発刊していたことがわかった。やはり名作は「観るより読め」かと思いつつ、池澤さんの解説を読むとこんなことが書かれていた。
イギリス文学には日本文学の花柳小説とは異なる「風俗小説」の伝統がある。・・・・登場人物の個性よりも社会性の方がプロットを駆動する。役者以上に舞台装置の力が大きく、個性の神話としてのロマン主義には傾かない。作者と読者の間に、暗黙のうちに、社会について共有する理解がある。
なるほど、これでわかった、「日の名残り」も「ハワーズ・エンド」も建物が映画の主役と思ったのは、このイギリス文学の伝統にあったのだ。物語の内容については本を読んでからゆっくり考えることにしよう。「眺めのいい部屋」もそうだったし、「二都物語」・・・・。やはり建築空間が気になるなら、イギリス文学は「観るより読め」ということのようだ。
池澤さんの巻末の解説によれば、「ハワーズ・エンド」の家はロンドンから数十キロ離れたハーフォードシャーにいまでも健在、作者であるエドワード・モーガン・フォスターの母の家だったそうだ。
貧家の母アリスは裕福な女性の家に引き取られ、家庭教師の資格を得る。母アリスを引き取ったマリアンには建築家を目指す甥がいた。この甥とアリスの二番目の子が「ハワーズ・エンド」の作者エドワード。最初の子は生まれて間もなく亡くなり、次男のエドワードが生まれるとすぐに夫も結核で死ぬ。甥を失ったマリアンはエドワードとアリスをずっと庇護しようと決め、やがてアリスとエドワードはハーフォードシャーの家に引っ越し、映画にある「古くて小さくてなんとも感じがいい、赤煉瓦の家」に住むこととなる。つまり、「ハワーズ・エンド」の作者エドワードはこの家で幼年期を過ごし、映画監督ジェームズ・アイヴォリーはこの家を舞台として「ハワーズ・エンド」を撮った。
映画でのこの家の所有者は保守的な実業家ヘンリー(演じるのはアンソニー・ポキンス)の妻ルース。やがてルースは遺産として「ハワーズ・エンド」を親友である自由主義的なマーガレットに譲り、さらに「ハワーズ・エンド」はマーガレットの妹ヘレンと知的だが不運な労働者パスト氏の間に生まれた不義の子に引き継がれる。つまりハーフォードシャーの500年前のコーテージ・ハウスは映画や物語の中でも現実と似たような経過を辿り生きつづけていく。
ジャッキーはどうなった?
4Kデジタル・リマスター版が公開。映像はさすがに綺麗だし、上流階級の生活ぶりもよくわかる。ウィルコックスの当主であるヘンリー(アンソニー・ホプキンス)はアフリカ植民地に関わる会社を経営して富豪になった様子がうかがえる。フランスと争ってアフリカの植民地を増やし続けていた大英帝国。帝国主義万歳とか婦人参政権を論じていたりと当時の社会情勢も勉強になる。
ロンドン郊外にあるウィルコックス家所有の別荘ハワーズ・エンド。シュレーゲル家と因縁めいた付き合いにより、長女マーガレット(エマ・トンプソン)が老婦人ルース(バネッサ・レッドグレーブ)の世話をしたことから、「ハワーズエンドはマーガレットに」という遺言を残すまでになったが、他人に譲渡するなんて・・・と、鉛筆書きだったこともあり、ウィルコックス家は遺言書をもみ消してしまう。そのハワーズエンドが両家と低所得者層のバスト夫妻が奇妙に絡み合っていくのです。
レン・バストはある講義でヘレン・シュレーゲルに傘を持って行かれ、ちょっとだけ親しくなるのですが、これがまた1年後に重大な転機を迎える。「勤めている保険会社は年末に倒産するから今のうちに転職した方がいい」などというヘンリーの言葉を信じ、マーガレットとヘレンはレンに忠告するのだが、予想もしない展開となっていく。
奇妙な縁で・・・という大まかなプロットは、そこまで膨らませなきゃならないのか。それに過去の愛人問題、現在の不倫、見事に絡まってはいくものの、最終的には殺人事件で終わり?と、どうしても腑に落ちない。そんなことより、貧富の格差をもっと描いてほしいと感じるし、低所得者層を舐め切った言葉で罵倒するなど、いつかは没落するはずの大富豪も何様?といった感じで嫌悪感でいっぱいになる。
ちょっと古めかしい展開のため、伏線だとか感情線だとかは無視した帝国主義叙事詩みたいな印象も受ける。感情がもっとも現れるはずのヘレンとレンの描写も足りなさすぎ。むしろ内面を抉っていたのは当主ヘンリーの揺れまくる失態だったかもしれません。
Tragecomical Affairs at Haward‘s End(アガサ・クリスティ風に言うと、原作はフォスターだけど)
途中まではComedy(本来の意味での)だと思ったが、最後まで観て何と豊かな映画かという感想に変わった。デビット・リーンの端正さはないが、豊かな映像の中で滋味溢れる物語が紡がれていくところは正統英国映画の伝統が受け継がれている。物語もハワード・エンドという屋敷が受け継がれていく様を骨子としている。「インドへの道」でも描かれている様に、異質なものが出会うことにより、有るものは融合し、有るものは対立する様々な少ドラマが枝葉となる。同じ上流階級でも保守的なヴァネッサ・レッドグレーブと進歩的なエマ・トンプソンとの出会い。でも二人の間には友情が育つ。「インドへの道」でも活写された植民地からの搾取で富を築き上げたブルジョアのアンソニー・ホプキンズとエマとの結婚。庶民ながら詩と宇宙とを愛するレナードと父に輪をかけた俗物のチャールズ(二人は最後まで出会わないが、出会った途端に悲劇が起こる)。庶民のレナードが被害者になり、ブルジョアのチャールズが加害者になることで、皮肉にもハワード・エンドはエマを挟んで、上流階級と庶民との間には生まれたヘレン・ボナム・ガーターの娘へと受け継がれていく。現代に至るもまだ残るという英国の階級意識を肌身に感じないと100%理解出来ない世界だとは思うが、誠に豊穣な映画世界だということは理解できる。正統的英国映画だけあって俳優陣は揃って好演だが、やはりマーガレットを活き活きと造形したエマ・トンプソンがここではピカ一である。
下層階級は同じ人間とは思わない意識
インテリ中流階級の姉妹と庶民のバスト夫妻と上流階級家族が田舎の別荘ハワーズ・エンドを巡って交わっていくが、階級意識の違いが浮かび上がる物語。
1990年代の日本人が憧れるイギリスの生活とは?
ロンドンの伝統的な建築や慎ましく豪華な衣装や屋敷に田園の別荘。
重厚で豪華な内装や家具。優雅なお茶の時間と忠実な執事やメイド達。そんな夢のような描写の数々がこの作品の特徴ではあるが・・
一見優雅に見えるイギリス上流社会に属する人々は、階層違う人間に対する差別心や特権意識が、美しい映像と重厚な美術の中で、静かに描かれる。
それは、下層階級は同じ人間とは思わない意識。
インテリ姉妹は、上流階級の一員なり、ささやかな抵抗をするが、理解はされない、分かり合え無い。
下層に属する庶民のバスト夫妻に、共感して見てしまう自分には、選択のミスにより職を失い路頭に迷う姿は、とても他人事とは思えない。
しかも夫のレナード・バストは、ある仕打ちにより亡くなり、その妻がその後にどうなったか?も描かれない!?
ちなみにバストの妻は、貧しかった少女期に、上流階級のヘンリー氏の愛人をしていたが、それを汚点としている。
本作は1992年英日合作の作品で、日本の資本が入っていたのもバブル期だったからと、アイボリー監督作品の「モーリス」(1987年)の日本でのヒットを受けてだろうと推測している。
1992年当時の日本はバブルが弾けたとはいえ、一億総中流社会で豊かな日本では、感じ難かった階層意識が、今の日本の社会情勢だとこの作品世界に近づいていると、実感出来て暗澹たる気持ちになる。
今回のリバイバル上映でもエンドクレジットに拍手する人もいたので、ともかく映画としては、とても美しい映像と素晴らしい演技陣の上出来な文芸作品です。
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