渚にてのレビュー・感想・評価
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世界が終わるとしても意外と人は普通に暮らす
アポカリプスものだけど、普通に日常が続いている。しかし、いつそれが終焉を迎えるのかわからない緊張感が漂う。主な舞台となる南半球はまだ無事だが、北半球はどうやら滅んでいるらしい。遠い異国の地が滅んでいるといわれても、ピンとこない。 後半、潜水艦で北半球に向かい、着いたのはサンフランシスコ。街が破壊された様子はないが、人がいない。死ぬときは生まれ故郷で死にたいと乗組員の一人が艦を抜け出す。 コカ・コーラのビンの使い方が本当にすごい。コーラは文明の象徴だろうか。人がいなくなってもモールス信号を送り続ける文明の残滓としてのコーラの空き瓶。 世界が終わる時、何をするか。だれもが一度は夢想したことがあるはず。自分の趣味に没頭するのか、穏やかにいつもの日常を過ごすのか。SFならではの壮大な終活だ。
ワルチングマチルダとトム・ウェイツ♥
『街は壊れていない。人がいないだけだ。』
この原作は核戦争後の世界を描いた話ではあるが、戦争の爪痕と言うよりも、核戦争による放射線の問題に言及した話と記憶している。
キューバ危機は1962年で、この原作や映画は何一つそれについて予見していない。予見と言うよりも、キューバ危機の際にこの映画を利用したと考える。
この映画や原作は朝鮮戦争後(まだ、休戦中)ビキニ環礁を始めとする核実験を批判するものだった。だから、スリーマイル事故、チェルノブイリ事故、福島事故の時に、良し悪しは問題外で、この映画をプロパガンダとして利用されていると感じる。
さて、1964年の事の様だ。つまり、東京オリンピックの年。オリンピックは開催されずに、人類は藻屑と消える。コ●・コ●ラの空き瓶と共に。
さて、オーストラリアが何故最後まで残ったか?オーストラリア大陸には原発が無い。
『ワルチングマチルダ』はオーストラリアの国歌見たいな音楽。トム・ウェイツとこの映画で知っていた。
まだまだ、白豪主義が色濃く残っていた時期のプロパガンダ映画と言えよう。
原作者はイングランド人ゆえ、オーストラリアだけ地球上に残す訳にはいけなかったと考えられる。イギリスとアメリカに忖度したわけだ。そして、オリンピックメルボルン大会(1956)とローマ大会(1960)は開催されても『東京(1964)は無しよ』って聞こえる。どちらにしても出鱈目な話。ここまで出鱈目だと核戦争の恐怖にはならない。
追記
この映画、なんとなく『タイタニック』ぽく無い?
また、火の鳥 未来編 もこの話をリスペクトしている。
放射能汚染の地球にて…
この映画のDVDジャケットが「エヴァ・ガードナーとグレゴリー・ペックの抱擁場面」だったのと、タイトルが『渚にて』だったので、「二人の恋愛ドラマかな…」などと勝手に思ってレンタルして来たが、観てみたら想定外のSF映画。 なんと、第三次世界大戦によって地球上の北半球は放射能汚染されており、南半球のオーストラリアに人々が地球人の最期を覚悟しながら暮らしている…という物語。 潜水艦には、艦長ドワイト(グレゴリー・ペック)や部下パーカー(アンソニー・パーキンス)、そして科学者ジュリアン(フレッド・アステア)などが乗っている。 サンフランシスコの街が無人であるという風景などを潜望鏡で見たりするが、第三次世界大戦が起こる場面は描かれないので、ジワジワ来る圧迫感という感じ。 オーストラリアでドワイト(グレゴリー・ペック)とモイラ(エヴァ・ガードナー)は愛し合うことになるが、地球の最期が迫ってくる…という物語。 フレッド・アステアは、だいぶ高齢なので、踊りはしないが、科学者でありながらスポーツカーで爆走するなど存在感を見せる。 潜水艦の中での会話…「平和を守るために武器を持とうとする。そして、果てしない原子兵器競争が続く…」という言葉から、あのウルトラセブンの『超兵器R1号』でのモロボシダンのセリフを思い出した。 ダンが「侵略者は超兵器に対してもっと強力な兵器を作りますよ」と言えば、「だったら、もっと強力な兵器を作れば良い」と言われたダンが、「それは血を吐きながら続ける哀しいマラソンですよ」と言う名ゼリフ。 本作が作られた1964年の米ソ冷戦下では、本作のように核戦争後の恐怖を感じていたのかと思ってしまう。 なかなか重たいスタンリー・クレイマー監督作品。
核戦争を通して見える反戦への強い意志
随分昔に観た作品であるが、昨今の不穏な世界情勢報道から、本作が真っ先に頭を過った。 本作は核戦争の末路を描いている。 1964年。第3次世界大戦=核戦争で、地球は徐々に死の灰に覆われていく。最後に残った南半球のオーストラリアにも死の灰が迫り、人類は滅亡の時を迎える。 死期が迫った人々は、苛立ちを見せながらも、最期まで、以前と変わらぬ生活をしていく。街は静まり返っている。暴動も騒乱も起きない。本当の絶望の前では活力は生まれない。 また、本作は、何故、核戦争は起きたのか、誰が起こしたのか等のプロセスについては殆ど触れていない。核戦争の末路に焦点を絞り込むことで、普遍的に核戦争の不条理を浮き彫りにしている。そして、静かに切々と反戦への強い意志を伝えている。 我々は、二度の世界大戦を経験している。 三度目は絶対に起こしてならないという反戦への思いを新たにした意義深い作品だった。
見終わった後は、ニール・ヤングのアルバムを聴こう。
久しぶりに心動かされる映画。 最後の時をフェラーリと駆け抜けるフレッド・アステアをはじめ、ワイン協会のくだりやサンフランシスコで途中退艦した乗組員など脇役の描き方もとても魅力的だ。 直接的な描写はほとんどないにも関わらず、牧歌的にみえるオーストラリアの風景に、着実にその日が近づいてくる演出が恐ろしい。 浮上ではじまり潜航で終わるラストには鳥肌がたった。 途中からノーマン・ベイツにしか見えなくなってくるアンソニー・パーキンスも不穏な空気に一役買っている。
短調 ワルチングマチルダ
オーストラリアは長閑でいいなあ、という画面に入り込んでくる非情な現実。 「誰のせいでこうなった。アインシュタインのせいか。」 「武力で平和が守れると思いあがったのが発端 自分は痛い目にあわずに使おうなんて虫のいい話さ」 誰かの思い付きと誰かの決断の積み重ね。玉突き事故の最初にぶつかった車は悪いけど、車間距離取ってたら単独事故だよねみたいな。そんな諦めが共有されてる感じ。 今は複雑になった分、玉突き事故は防げない不安が。 悲嘆にくれるのはごくプライベートの時間のみ。公には淡々と終末を迎える。今のアメリカが舞台なら略奪と暴力の終末だろうな。ミッドナイトスカイのような世界観だがあれは最後に希望の種は撒いてた。 冷戦真っ盛りの1960年日本公開の映画。次の年にはベルリンの壁ができツアーリボンバが炸裂する。64年には博士の異常な愛情が上映。なんともツライ時代。
60年の時を超えて、21世紀の私達に向けてのメッセージを強く発している
1957年刊行の同名原作はSFの終末物の名作として有名 本作は1959年の公開 キューバ危機が起こり世界が明日核戦争に突入するかも知れない そんな恐怖におののいたのは1962年のこと つまり本作の描く物語はSFの世界ではなくいつそうなってもおかしくない恐怖を具象化した作品であったのだ 全面核戦争の恐怖は1991年のソ連崩壊による冷戦終結によって去った それは1988年にはINF条約という核軍縮条約の締結から始まった それから30年が流れた 本作公開からは60年もの年月が過ぎた 核戦争の恐怖は前世紀のものでもはや過去のものなのだろうか? 本作は過去の題材の作品なのだろうか? とんでもない ロシアと中国はINF条約を無視して新技術の迎撃不能な新型の核ミサイルを開発していることが明らかになっているのが、21世紀の現状なのだ 対抗上米国はそのINF条約を破棄するとのニュースに接したばかりだ そればかりか北朝鮮の核の火遊びはいつ再開されるかも知れないのだ つまり21世紀の核危機は今始まったのだ 全面核戦争の危機は米ソ冷戦時代のレベルに舞いもどっているのだ しかし核戦争の結末は何なのか 社会は、私達の生活はどうなってしまうのか 核で一瞬のうちに灰にならなくともどのような終末が待っているのか 本作の示すところを世界はもう忘れ去ってしまっているのではないか 今こそ本作を見なおさなければならない時にきているのだ 西側世界に育った私達はこのような核戦争の末路を描いた作品を観たり聞いたりして大人になってきた しかし、ロシアや中国の人々はどうだろう 本作のような核戦争の恐怖を描いた作品を観て育って来ているのだろうか? 同じ認識に立っているのだろうか? もし観てもいないし本作の存在すら知らないで大人に成っている人々ならば、この21世紀の核戦争の恐怖を互いに共有することができるのであろうか? 本作の終盤には教会の前の横断幕に大書きされた「まだ間に合う」の文言が写される 神にこの核戦争の誤りを悔い改めるにはまだ間に合うとのものだが、ラストシーンに再度写される それは本作を観る私達に 向けてのものだ 核戦争を食い止める努力はまだ間に合うのだ 米ソ冷戦時代の当時の観客だけに向けてのものではない 60年の時を超えて、21世紀の私達に向けてのメッセージを強く発しているのだ 名優グレゴリー・ペックの名演はじめ、平穏を保つメルボルンが実は水面下で壊れそうのなるのを耐えているのだということを映像と演出で巧みに淡々と描ききったところは映画としても大変に優れている 素晴らしい名作だ
逃れられない運命をみんな同時に背負った時
ものすごく有名だったから観た。たしか、村上春樹のエッセイにも書かれていたから。村上氏のいう通り、たしかに救いようのない映画であった。 SFチックながら、人物の情緒というか、間の取り方や厳選されたセリフの重みがすごい。これが本当の演技というものだ。 高評価で期待値は高かったが、それを裏切らない内容だった。冷戦下で、核戦争に対する差し迫った恐怖心がひしひしと感じられるような作品だった。
核戦争によって人類が滅亡する話。 数カ月後には放射能によって死滅す...
核戦争によって人類が滅亡する話。 数カ月後には放射能によって死滅するのがわかっていて、どう向き合っていくのか… パニックではなく、静かにその時を迎えるのがこの映画の演出。 実際もこうなのかな?
自分ならどうする?
若夫婦の幸せそうな朝から始まるお話。
直接的な描写は一切なく、なんの説明もなしに人々の会話からの情報だけで世界の説明をする脚本がうまいです。不気味さや不穏さをたたえながらこちらの興味も持続しました。
「There Is Still Time…Brother」の文字列が今の我々にも訴えているような気がしてなりません。最初は放射能汚染の進行までまだ時間が有ることを人々に表すための横断幕だったわけだけど、誰もいなくなった世界に残されたそれはなんだか我々に向けて言っているような気がしてならなかった。「まだ時間はある…()兄弟たち」の()内に入る言葉を考えなさいって言われてるみたいで。
下手に放射能汚染で生物が云々みたいな話を見せられるより、よっぽど放射能の恐ろしさを端的に表している作品だと思います。これは時代の関係ない、脚本の技でしょう。
幸福の下に潜む絶望の哀しさ。
こんなにも静かに人類滅亡を描いた映画があるだろうか・・・?都市の破壊や、パニックシーンを一切排除し、核兵器による放射能に汚染された地球の最後の日を冷静に描いた。それは、わずかな喪失感と大きな諦め、そしてささやかな焦燥感を交えながら、静かに静かにやってくる。そのあまりの静けさは、悲しくもありそら恐ろしい・・・。
本作は、若い夫婦の平和で幸福な朝の描写から始まる。ハンサムな夫(『サイコ』以前のパーキンス、悲しいほどの美青年!)が、まどろんでいる妻のために朝食を用意しながら、ベビーベッドの赤ん坊にミルクを飲ませている。妻は夫のキスで目覚め、幸福そうに2人は微笑を交わす。胸のうずく幸福感漂うこのシーンが、物語が進むうちに、放射能により地球のほとんどが滅亡し、わずかに汚染から逃れたオーストラリアの地に非難する少ない人類の最後の日々だという衝撃の事実が判ってくる。それなのに人々の暮らしは冒頭の朝の風景のように平和だ。海水浴やパーティーを楽しみ、時にはピクニックやカーレースに興じる。紳士たちはクラブで談笑し、妻たちは子供の世話にいそしむ。しかし、その何気ない日常生活に隠れて人々の心に根付いている絶望・・・。ある者は酒におぼれ、ある者はヒステリックに“生”にしがみつく。どんなに現実逃避してみても、“その日”は刻一刻と迫ってくる。「われわれにはまだ希望がある」のスローガンをかかげ、広場で集会が開かれる中、人々は安楽に死ねる“薬”をもらうため、長い行列をつくるのだ。この整然と並んだ静かな長い列に少なくもショックを受けた。一見穏やかな表情だが、その胸中にはどんな想いが去来しているのか・・・?
いよいよ最後の日、ある者は愛する人と見つめあいながら、ある者は長年勤めた職場でただ一人でと、人々は静かに杯を傾ける・・・。しかし、冷静に“死”を受け入れられない者もいる。当然だ、私とてこの恐ろしい事実を受け入れられはしないだろう。冒頭の幸せそうな夫婦は、“死”を受け入れることのできない妻の苦しみを背負っている。夫は愛する妻と子供のために“薬”を手に入れるが、妻はその薬を子供に飲ますことは“殺人”だと夫をなじる。私には夫と妻、どちらの主張が正しいとは言えない。ほぼ100%あり得ない「助かる道」を信じたい妻の気持ちも痛いほど判るからだ・・・。本作では「死ねる」人間が強く、「生きよう」とする人間が弱い心の持ち主なのだ・・・。この常識の反転が、本作をさらに恐ろしいものにしている。
誰もいなくなった街、「われわれにはまだ希望がある」と書かれた横断幕が、ただ風にゆれている・・・。
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