「有名税としての商業主義的伝記映画」ドアーズ(1991) jin-inuさんの映画レビュー(感想・評価)
有名税としての商業主義的伝記映画
自分たちの曲がテレビのcmソングに使われることを知ったジム・モリソンは大激怒!自分が勝手に行方不明になっていたのは棚に上げ、契約を結んだ残りのメンバーたちを罵倒します。「もうおまえらは仲間でもなんでもねえ!ただのビジネスパートナーだっ!」
商業主義を毛嫌いするジム・モリソンの純粋さと幼稚さがあらわになる象徴的なシーンです。駄々をこねて曲をcmに使わせないほど潔癖主義の彼ですが、そんな彼の人生そのものを商業映画にしてしまおうという目論見が死後20年後に公開された本作です。見事に彼の生涯を矮小化して見せてくれます。体制側との対立の果てに裁判沙汰にまでもつれ込み、そんなアメリカにうんざりしたのか、すべてを捨ててパリに逃げ出したジム・モリソン27歳。でも彼に安らかな眠りは訪れません。墓は落書きで汚された上に、こんな伝記映画まで作られてしまうのですから。
スターであるほど、商業主義やセンセーショナリズムからは逃げられません。多くの有名人たちは死後にそっくりさんが主演する伝記映画が作られます。そこには複雑な権利関係やビジネスが絡んでいます。そのような映画は多くのファンの来場を目当てとした商業映画であり芸術ではありません。そういう欺瞞や枠組みをもっとも嫌った男がジム・モリソンであり「ジム・モリソンの伝記映画」という企画自体がもはや笑えない冗談です。「Touch me」と歌いながら誰にも触れられない高みを目指して行くという矛盾と孤立がジム・モリソンの真骨頂です。誰にも掴まりたくなかった男を伝記映画に閉じ込めること自体、そもそも無理な話です。
本作の中ではバンドvsマスコミ、バンドvs警官たちなどの対立構造が描かれますが、本作自体も、バンド側というよりはマスコミ側、警官たち側の視点に立っているように見えてしまいます。代表的な出来事を年代順にさらーっとなぞった形の映画であり、ドアーズというバンドの音楽や芸術の本質に迫ろうという気概は感じられません。ジム・モリソンの無軌道で堕落した面ばかりが描かれており、その裏に隠された創作の秘密には触れられません。どうやってあんな数々の強烈な曲ができあがったのか、詩を書いて、曲をつけて、みんなでセッションを繰り返して曲を作り上げていく、そんなバンドの裏側の作業はほぼ描かれません。陳腐で取ってつけたような幻想シーン(たとえば守護霊のようなネイティブ・アメリカンが一緒に舞台に立っているなど)もありきたりであり、映像がドアーズの曲のイマジネーションの拡がりを逆に狭めてしまっています。アンディ・ウォーホルとかニコとかの出会いのシーンを描くことに、一体何の意味があるのでしょうか。互いの創作に何らかの影響を及ぼしあったのでしょうか。
自分とバンドが生み出す言葉と歌とパフォーマンスと曲は芸術として唯一無二の価値を持つという自信。そしてそれが熱狂的に迎え入れられるという幸福。彼の生き様は自分に対して常に過激なほど誠実で異様なほど真剣であり、インタビューに答える際もほとんど笑顔を見せたりジョークで誤魔化したりすることはありません。その誠実さと真剣さの裏返しがドラッグとアルコールへの耽溺なのでしょう。だれよりも「真剣に生きる」ことにこだわったロックスターであり、人生の一瞬を過激に生きる密度の濃い生き様は彼に短命をもたらしました。
彼がドアの隙間から眺めた向こう側の景色は誰にも知りようがないし、ましてや映像化などできるはずもありません。本作は公開時にもうすでに古びていましたが、ドアーズの残した音楽は古びることはありません。それは創作者たちの創作に対する態度の問題だと思われます。この映画でいいのは音楽だけでした。