終電車のレビュー・感想・評価
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題材はよいのだが…
題からして旅や移動が関係してくるものと思っていたが、まったく違っていた(笑)
題材がおもしろい。占領下のフランス。この時代についてフランス人は特別な思い入れや自負心があるのだろうな。興味深かった。フランスのイメージもアップ。
が、気を張って頑張っていたマリオンが、ベルナールにコロリと落ちた、それは興醒め。落ちないと映画にしてしまっては鑑賞者にウケない?それとも、とつぜん落ちるその落差が面白いのかもしれない(特に男性には)? しかし私には、作品が急に安っぽくなったように感じられた。ねぇ、ここまできたら初志貫徹しようよ!と言いたい。だいたい解放後ベルナールとルカにマリオンが挟まれて、いったい3人はこれからどうなるのよ?
それからカトリーヌ・ドヌーヴは、おっとりしたお嬢さま路線や、いいところの奥様役のほうが好きだ。表情があまり変わらない人だと私は思うが、その落ち着いた感じは、上品役の方が活かされるような気がする。
マリオンの平手打ち
トリュフォーの晩年(と言うにはあまりにも若すぎる死!)の傑作なのは言うまでもない。「アメリカの夜」の流れを汲む虚構と現実の交錯、脇役に至るまでの登場人物の面白さ、サスペンス仕立ての演出、そして何よりも劇場を仕切る大女優マリオンの美貌と貫禄たるや見事なもので、表情だけで微妙な女心を表現するカトリーヌ・ドヌーヴの演技力。何度見ても見る度に新しい発見がある奥の深い作品だと思う。最近、サブスクの配信で再見したのだが、何度見ても、1ヵ所だけ謎の場面がある。映画の終盤頃、マリオンがベルナールに思い切り平手打ちをするのだが、その理由が今一つ分からない。まさに「女は謎」と言うトリュフォーらしい謎なんだが、どなたかその真意を教えて頂けないだろうか?
観たかった度◎鑑賞後の満足度◎ これはフランソワ・トリュフォーのカトリーヌ・ドヌーヴへのラブレターだ。しっかり者のオカミサンと恋に燃える女とが同居している、それが貴女であり、それで良いんだよ、と…
①故橋本治さんの名著(と勝手に思い込んでおりますが)「虹のオルゴール」に書いてあったほどにはドヌーヴはドスドスとは歩いていなかったけれど、確かにいなくなった夫代わりに劇場の灯を消すまいと八面六臂の活躍。劇の上演を成功させなきゃなんないし、劇場を維持する為にナチ野郎にもいやいや挨拶しないといけないし、新独派の毒舌批評家ともいやいや付き合わなくてはならない。
しかも、逃げた筈の夫は実は劇場の地下に隠れていて安全地帯に逃げようにもフランス国土は徐々にナチスに占領されていき最早逃げ場もない。
長い地下生活に飽いて感情的になる夫をなんとか落ち着かせなければならない。この時のドヌーヴは妻というより母親である。
“こんなに私、頑張ってるのに、あの若造、あの批評家を(ホントは私が殴りたいんだけど)雨の中で殴るなんて、私の劇場を危機にさらす気?“と、もう私、やってられないわ、である。
③しかし、実は彼女は若造に恋している。夫を人の目から隠しているのと同じく、その恋情を隠しているのだが、初日の成功の高揚から終演時の舞台挨拶の際に思わず彼にキスしてしまう。
劇場の地下に隠れながら彼女(にメモを渡すやり方)を通して演出している夫は、頭上で行われている劇(の台詞)を聴きながら、彼女の若造への恋情に気付いていたくだりは流石に巧みな映画作り(演出家ならではの感性が妻の心変わりに気付いてしまう)。
④ラスト、終演の舞台挨拶で恋人と夫との手を取って誇らしげに微笑むドヌーヴのアップで終わらせるところは、まさにトリュフォーのカトリーヌ・ドヌーヴ賛歌だ。
おもしろかった。
偉大なる大女優
フランス映画らしく
ストーリーの時代設定が現代でも1942年であっても
なにかを生業に日々の暮らしに生きる人の姿を描いていて
1980年に作られていながら
映画そのものが1942年に作られたかのような触感を覚える
フランス人特有の洒落た言い回しやウイットもあって楽しめた
そして
何よりもカトリーヌ・ドヌーブという女優の、もはや表現することが
不可能とさえ思えるほどのその容姿、仕草、声色の全てに美しさや
可愛らしさが溢れている
それにベルナールとその身体を合わせたときに洩れてくる
“Oui,oui・・・oui・・・”という喘ぎ声の
艶やかさが
レイモンが “灯りを消しますよ”そう言ったときに応えた
“Oui,oui!”の軽やかさとの対比が
際立って至高のエロティシズムを表現していた
ドヌーブが出演する作品は、彼女がいなくては決して成り立つことのないものになっていることが
大女優の大女優たる所以なのだろうと思う
カトリーヌ・ドヌーブという女優を見られるだけで幸せになれる
映画だった
ナチスの恐怖
今のところ個人的にはトリュフォー最高傑作。もはやヌーヴェル・ヴァーグではないけれど
ドヌーヴが好きでなかったので、ずっと食わず嫌いであったが、スチールを見たら、もう傑作の予感しかしなかったので、ついに観た次第。
これはメチャクチャ良かった。
すっかりドヌーヴが好きになってしまった。
おそらく最も美しいドヌーヴが見れる映画。
終わった瞬間は拍手したくなった。
ほぼほぼ夜のシーンに徹底したのが効果的で、撮影は流石のネストール・アルメンドロス。
室内の照明や蝋燭の微妙な光を見事に捉えて、暗く抑圧された占領下の雰囲気が如実に現れていた。
劇場内のセットには、幸運にも占領時代のまま手付かずで放置されていたチョコレート工場が利用されたらしい。なるほどのリアルさだ。
役者達も本当に皆んな素晴らしかった。
しかし、ではあるのだが…
『終電車』というタイトルの割には…
(当時、占領区では、11時以降は、外出禁止で、パリ市民は地下鉄の終電車を逃したら大変だった)
ナチスに占領されているというリアルな緊迫感が、あまりに希薄。おそらくワザと。
そして、かつては「カイエ・デュ・シネマ」の誌上で、当時のフランス映画の巨匠たちを酷評し続け「フランス映画の墓掘り人」とまで言われたヌーヴェル・ヴァーグの旗手の一人にしては、随分と濃厚にフランス映画の伝統的な物語へ回帰した作風となっている。
この変節を成熟という人もいるかもしれないが、あれほど痛烈に他人を批判していた以上、自分に対する無批判は有り得ない。
やはり、その点を踏まえた上での、メタ視点な自己への批評性は必要だったと思う。
また本作のスタイルと思うが、各シークエンスの話が途中で寸断され(伏線回収の類いも特になく)次から次へ展開していくのも、ちょっと物足りなかった。
劇場の乗っ取りを如何に回避したのか?は後半の良い見せ場になったと思うのだが…
トリュフォー、曰く「占領下のパリでひとつの劇場とひとつの劇団がいかにして生き延びたかという物語」であった訳だし。
あと、初日のカーテンコールの直前、ドヌーヴがドパルデューに思わず瞬間的にキスする重要なシーンは、もっと寄りのアップで印象的に撮って欲しかった。
姦通も重要テーマだった割には、こちらの演出が控えめだったのも残念なところ。
とはいえ、クランクインまでは資金面で危機が訪れていた本作、無事完成に漕ぎ着けてくれて本当に良かった。
トリュフォーは本当に幸運な男だったと思う。
地下室の演出家
タイトルなし(ネタバレ)
劇場では、コネを使って検閲を通した戯曲を上映していて、その地下にはユダヤ人の夫を隠している。たくさんの人が見ることのできないはずだった劇を見にくるし、夜中には地下に隠れていた夫は一階まで上がってくることもある。この劇場は基本的には不可視の性質を持ちつつ、時に可視に揺らめく、そんな空間だ。
そういうわけで、この劇場をめぐる物語は、権力だとか欲望だとか名声だとかが張り詰めたようにぎりぎりのバランスだ。すこしでもそのバランスが崩れたならば、夫は見つかって殺されるだろうし、劇場はナチスに奪われてしまうだろう。
女主人は、主人公を演じる男に惹かれていくのだけれど、その恋愛の均衡もどきどきしてしまう。カーテンコールの合間に突然キスをするのだけれど、一瞬間でもタイミングがずれれば、たちまちにスキャンダルだ、
この映画のタイトルは「終電車」、間に合うか間に合わないか、あのぎりぎりのタイミングによって運命を分けられたときに、前者と後者ではまったく違う物語になってしまう、この物語は、あらゆる局面で「終電車」的状況に陥る、なんどでも、主人公たちといっしょにどきどきしながら見たい、
2人の恋の行方がとても気になるのだけれど、戦争後のふたりの姿は恋人関係にある劇中劇のなかでしか見ることができないから、ほんとうのことはわからない。演劇世界と現実世界もまた絶妙なバランス、で保たれているのだ、
ドヌーブ
ナチス占領下のパリで繰り広げられる女性劇場支配人の奮闘記。
表面上、本作は「演劇のバックステージもの」の体裁をとっている。
トリュフォーとしては、映画製作の舞台裏を描いた『アメリカの夜』につづく芸能ものとなる(じつは、もう一本、ミュージック・ホールを舞台にした音楽ものを企画していて、三部作にするつもりだったようだが、この映画を撮った4年後にトリュフォーは亡くなってしまった)。
「ナチス占領下のパリで、演劇の舞台を継続することに奮闘する人々の群像劇」に、「南米に亡命したと見せかけて地下室に今も隠れ住んでいる演出家」をめぐるサスペンスが絡んでくる。
実話というか、当時あった同様の「噂」が元ネタらしいが、なんだか『オペラ座の怪人』を想起させるような設定だ。
でも実際には、稽古は思いのほかスムーズに進んで、状況はたいして緊迫しないし、これといった困難もないまま初日はふつうに幕を開け、大喝采を浴びて成功をおさめる。途中、一度だけゲシュタポのガサ入れが入るが、あんだけ地下室で潜伏中の演出家が煙草とか吸っているのに、人の気配にも全く気付かずにそのまま出て行くおまぬけぶり。
どうせならナチス贔屓の評論家をもう少し有能な設定にでもして、「二度目に観に来たときの演出の変更が、どう考えてもルカ・シュタイナーにしかできないやり口だ」と看破して、真の演出家が地下に匿われていることを見破るくらいのサスペンスはあってもよかったのに。せっかく「隠れて演出している」というフックがあるのに、あまり生かされずに終わってしまうのはもったいない。
地下で、シュタイナーがいろいろ勝手に貼ったり書いたりしてるのも、あとでナチに踏み込まれたときに発覚するときの伏線なのかと思って観ていたが、ぜんぜんそんなことはなかった。
結局、なにかありそうに見えて、サスペンス/スリラー/ミステリー映画としてはほとんど機能していないのが実情だ。
とはいえ、トリュフォーの真の眼目は、実のところ、そちらにはない。
いや、一見、戦時サスペンスみたいにこの映画が見えるのは、むしろ「まやかし」であり「めくらまし」だといっていいのかも。
この映画の面白さは、「本当にやろうとしていること」から観客の目を逸らして、たくみに隠蔽するそのやり口にこそある。
彼がここで本当にやろうとしているのは、演出家ルカ・シュタイナー(ハインツ・ベンネント)と、その妻にして女優で現支配人のマリオン(カトリーヌ・ドヌーヴ)、相手役を務める若き新人俳優ベルナール(ジェラール・ドパルデュー)の三人をめぐる、水面下の心理的な駆け引きと恋愛模様なのだ。
秘めたる想いは、観客に対しても秘められる。
だから、作中の某人物が気づいて指摘するまで、観客もまた気づかない。
でもいったん気づいてしまうと、あちこちに伏線が張られていたことに気づかされる。
「戦時下サスペンス」としてはゆるめの作りだが、
「愛のサスペンス」としては、なかなかどうして手の込んだ、凝った作りの映画だったりするのだ。
なんで、無視していたのか。
なんで、あんなに激怒したのか。
なんで、彼が●●ときいて、ひっぱたいたのか。
なんで、あの人物だけが、そのことに気づくことができたのか。
言われてみると、首肯できることばかりだ。
ラストのネタもいかにも演劇的。
ていうか、トリュフォー/ドパルデューのコンビということで、昔観た『隣の女』のイメージが強すぎて、あの映画のラストの印象に心が引っ張られていたんだろうなあ……今回、珍しくぜんぜんオチを予期できておらず、ものの見事にひっかかってしまった(笑)。
まあよくよく考えれば、直前に半分おふざけみたいな後日談をやったあとで、そこまで酷い話をやるわけがないんだけどね。
個人的には、ドヌーヴが37にしてはちょっと、とうがたっているというかばばくさい感じがするが、こういうのがお好きという方もいらっしゃるだろう。
ドパルデューは、ちょうど脂の乗り切っていた頃で、一挙手一投足がもうすばらしい(『1900年』の時よりは肥ってて、『シラノ・ド・ベルジュラック』や『グリーン・カード』の時よりは痩せているw)。今の彼がプーチンと懇意だろうが、飛行機のフライト中にビンに放尿しようがしまいが、そんなことはどうでもいい。天才とは、こういう役者のことを言うんだろうなと。
あと、どうでもいい話だが、最近読んだ、ナチス・ドイツ時代のニュルンベルクを舞台にしたミステリーで、ちょうど「高価なストッキングを買えない女性たちが、脚に色を塗ったり、裏の線を描きこんだりして、はいているふりをしていた」って話が出てきたところだったので、おお、まさにこれのことかと思いました。こういうのって不思議に被るよね。
38歳のドヌーヴ
38歳のドヌーヴ
美貌に見とれているうちに芝居が終わっていた。
トリュフォー の
「終電車」= Le Dernier Métro
いい題だ。
ぎりぎりに駆け込む終電車には人生が詰まっている。
ドイツ軍の侵攻で、フランス国土は分断されている。
生活物資も困窮する中で、ユダヤ人狩りのホロコーストをすり抜けながら劇場を切り盛りするマリオン(=ドヌーヴ)。
大勢の登場人物たちが、その実生活と劇中劇を重ねながら占領下を生きているという設定の群像劇だ。
ラブロマンスなのか、戦争映画なのか、はたまたサスペンスや文芸作品なのか?
中軸となるテーマも主演者もあいまいで、統一感がなくて、どこか散漫としているのだが、
監督としてはそこが狙い目であったようなのだ。
あの時代の庶民の生き様と、強いられた暮しのプリズムを舞台の上に再現させる取り組みだ。
地下室に隠したもうひとつの人生、
掛け持ちオーディションでいつも次なるステージを狙う女優、
女好きだがレジスタンスでもある男優、
闇市場の泥棒女、演劇に魅せられたドイツ兵、生地屋の使いの娘、レズビアンの衣装係、ユダヤヘイトの評論家、大道具係の男・・
世の中と折り合いをつけながら、妥協や迎合もしながら、空襲や停電をかいくぐってそのいっとき劇場に集まる大勢の
ステージを見つめる目の光が非常に印象的だった。
寒くて、食べ物がなくて、魂も飢(かつ)えていて、人々はそれゆえに劇場へ殺到する。
自由を手中にしたいと藻掻く庶民たちの《自分を生きる事》への渇望を、トリュフォーは撮ったと思う。
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僕たちは「終電車」には、なにがしかの思い出があるのではないかな。
電車に乗れただろうか?
それとも逃したか?
降り立ったホームから君はどこを目指したか?
大久保で終電を逃し、しばし呆然としたあとカプセルホテルに泊まったこともある。
同じ大久保で、駅のホームの向こうに見えた粗末な民家の看板「簡易ベッド1800円」に泊まったこともあった。布団の上に誰かの荷物が置いてあったがおばちゃんが「今夜その人は帰って来ないから大丈夫よ」と言っていた。
地下鉄で寝ていて目が覚めたら電車がどこかに止まっていて誰もいない車庫に入っていたことも・・
どれもこれも青春の思い出。彼女と会いたくて会いたくて、デートの帰りの「終電車」を逃した時のほろずっぱい思い出だ。
あれから数十年、
今夜の僕はどんな電車に乗って、どの辺を走っているだろうか、
どこへ行きたいと願っているのだろうか。
DVDのタイトル画とテーマの切ない調べだけで、これだけの思い出が心のホームに押し寄せてくる。
不思議な後味の映画だった。
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観たあとに面白くなる
舞台はナチス占領下のパリの小劇場。主人公マリオンは、そこの看板女優。演じるは大女優カトリーヌ・ドヌーブ
年上(初老と言っていい)の夫ルカは、そこの支配人だったが、ユダヤ人ゆえ迫害を逃れて劇場の地下に隠れ住んでいる。周りには国外に逃れたことになっているため、ルカが地下に住んでいることはマリオンしか知らない。
ルカは毎日、マリオンが訪ねてくるのを楽しみにしている。妻と会えるということはもちろんだが、劇団の活動についても気がかりだからである。
いまはマリオンが支配人を務め、劇場は新作公演の準備に入っていた。新作の舞台には、新人の役者ベルナール(ジェラール・ドパルデュー)がマリオンの相手役として加わった。
支配人としての責任を背負い、終始、毅然としていたマリオン。だが終盤、役を降りて劇場を去ろうとするベルナールに対して、一瞬にしてよろめく。
この一点に、本作の頂点がある。
僕は、この瞬間まで、マリオンとベルナールが惹かれ合っていたとは気付かなかった。
でも、終わってみればいくつかの伏線に気付く。
そう、この映画は、終わってから、あれこれ考えるのが愉しいのだ。
年上の夫と、才能ある若い男とのあいだで揺れる人妻。
手当たり次第に女性に声をかけるベルナールは、マリオンにだけは言い寄らない。
地下室にナチスの調査が入ったときですら冷静だったマリオンは、ベルナールに対しては激しい感情を見せた。
地下から芝居の練習の様子を聴いていた夫はすべて察していたのだろう。夫婦の逢瀬も、マリオンがベルナールに惹かれるのも、すべて狭い劇場の中の出来事なのである。だからルカはマリオンを「残酷」だと言った。
タイトルの終電車(原題Le dernier metroも最終の地下鉄という意味)の意味ははっきりとはしない。
ナチス占領下で夜間外出制限のあったパリでは、終電車に乗り遅れると身の危険があった。
ルカの存在がバレるか、その前に戦争が終わるか、という緊張感や、マリオンの恋の焦燥感を表しているのだと思う。
戦争の時代にも、舞台と自由を愛する演劇人が活き活きと描かれていて、脇役も含めて魅力的。
脚本、演出、そして役者、どれもが素晴らしい。観る者の記憶にしっかりと刻まれるからこそ、観終わったあとに余韻にひたれるのだ。
カトリーヌ・ドヌーブの、恋に揺れる色気は匂うほどで、暗い映画館のスクリーンに映し出されるのが似合う。
チャンスがあれば映画館で観るべき傑作。
大女優
この時40歳ぐらいで既に大女優の貫禄、妖艶でそれでいて近寄りがたい風格。デビューから初期の若々しさから徐々に役柄を作ってきて、ここにきてこれかと。すごい女優だ。
それにしても、原題も邦題もどうしてこうなる? メトロの駅も映っていたけど、本筋に絡まないし。「終着駅」的なものを想定していたので驚く。
まあまあだった
盛り上がりがさっぱりなくて、長くて飽きる。ドイツに占領されていても人々は窮屈な思いをしながらも生活していた様子がうかがえる。評論家が殴られていたのはどんなに嫌われ者とは言え弱い者いじめみたいで気の毒だ。地下での生活が大変なのは容易に想像はつくけど、ちょっとしてみたい。
とても良かった
ドヌーブの脚が、
新進俳優と劇場支配人の妻であり女優でもある女性の恋。
そこに描かれている感情はその言葉ほどに単純ではないが、ここでは全編にみなぎるカトリーヌ・ドヌーヴの色香についてまずは言及したい。
階段を昇るときにスカートから覗くものに男の目は釘付けになる。
この脚が、ドパルデューに押し倒された際には、性行為そのものを思わせるに充分な妖しさを放つ。脚だけでこれだけのエロチシズムを表象するとは。
若い男を相手にこのような妖艶さを隠しきれない妻。その一部始終を秘密の地下室から見ている夫。
ナチの迫害から逃れ身を隠しているこの夫が、劇場の芝居を演出し、なおかつ美しい妻の恋をも演出する。他人に自分の妻を抱かせて興奮する男がいるらしいが、この夫もその一人であろう。
とある、エロティシズムの極地である。
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