サクリファイス(1986)のレビュー・感想・評価
全10件を表示
ウクライナ戦争のさなかに このサクリファイスを観ることの意味
サクリファイス
上空を通過するあの轟音の戦闘爆撃機。
そして子供の白血病の死のストーリーと、甲状腺がんを思わせる喉のガーゼ。これは1969年のフランス映画「クリスマス・ツリー」に倣います。
この「サクリファイス」は、核の時代の黙示録的作品。
この時期にこの作品を観ることには正直気合が要った。
「核戦争が始まった」。
「みなさんどうか落ち着いて下さい」と、絞り出すように呼びかける、首相の悲痛なテレビの声。
家族が不安の中でリビングに集まり、オロオロと歩き、問い、叫び、パニックになる。互いに鎮静剤を打ち、そして酒を飲む。
僕らはこの頃は慣れてしまったけれど、「北朝鮮からのミサイル・アラート」。
あれが日本の上空を越えた時のあの「アラート音」。皆さんあの初体験を覚えておられるか。
・・どうしてよいか分からず、身を硬くして、上空に耳を澄まし、呼吸が浅くなったあの時の事を覚えておられるか?
とうとう核戦争が始まったというニュースを聞けば、僕らもアレクサンデル同様、どれだけ平常心を失ってうろたえるかわからない。
神頼みのために、魔女と寝るために、そして妻子を守るために、アレクサンデルは村外れまで行く、
命の取り引きのために。
・・・・・・・・・・・・・
【ウクライナ戦争】
2022年2月24日、ロシアは突如としてウクライナに侵攻した。
数日で白旗を挙げるものと踏んでいたロシアのプーチン大統領の目論見は外れた。
ウクライナと、その後方から軍事支援を延々と続ける西側に対して、業を煮やしたプーチンは「核」の使用を公然と口にする。
ロシアからもウクライナからも兵役忌避者は国境を越えてなだれ出し、スウェーデンはついに国境を閉鎖。
スウェーデンとノルウェーはこの事態を受けて、中立を破りNATOへの加盟を決断。
スウェーデンのゴトランド島で撮られたこの作品は、対岸にロシア本土を臨む地だ。
プーチン大統領の「核発言」に西側諸国も一触即発で対峙している。
西ヨーロッパもアメリカも、長引く戦費支出に疲弊しており、いつウクライナを見捨てるかもわからない状況。
世界はいま緊張の頂点にある。
・・・・・・・・・・・・・
【生理的拒絶感を涵養する】
監督タルコフスキーは
劇中で尺八を流し、
主人公にキモノを着せ、
枯れ木に3年水を注いで枯山水と生け花を鑑賞者にイメージさせる。
あれは東洋趣味の遊びではない。
あの脚本は明らかに日本を指し示している。
日本国の歴史をば映画の舞台=スウェーデンに重ね合わせて「被爆地ヒロシマとナガサキ」を我々観衆に逃れようもなく想起させようとしているのだ。
◆プーチンは強硬に「核」を口にする。
にも関わらずあのプーチンをして核の使用を躊躇らわせている力はどこから来るか、
◆そしてこの映画で、息も詰まるようなパニックと悲壮感を見せるアレクサンデルの家の有り様。あれは何ゆえに引き起こされるのか、
僕は思うのだ、
それは世界の果て、極東の小さな島国で「78年間語り続けてきたヒバクシャがくれた賜物」以外のなにものでもないだろう、と。
― 証言で。写真で。遺物と記録映像で。そして自らのケロイドを国連総会で晒してまで、78年間倦まずたゆまず、雨の日も風の日も黙さずに語り続けた「ヒバクシャ」が、とうとう世界に成し遂げた それは《ためらいの力》だろう。
1962年の「キューバ危機」で、その苦悩ゆえケネディを突っ伏させた力、
1980年代のこの映画の時期の、冷戦の凄まじさにあっても核は使われなかった事実の力、
そしてこの度のウクライナ戦争。
プーチンへの抑止力。バイデン米国大統領への抑止力。
理由はたとえどうであれ、人類を顔面蒼白にし、躊躇させ、理性と道徳を喚起させて とうとう「核」への歯止めになったのは「ヒバクシャの力」だったのだ。
・・・・・・・・・・・・・
現自民党総裁=岸田文雄氏の内閣支持率は25%まで下がった。もはやあの総理は死に体だ。
でもその彼が(役立たずで頼りない総理大臣の彼なんだが)、彼が決めているのは来年春(2023.5)の「広島サミット」だ。
各国首脳をヒロシマに呼んで、その地に立たせる経験をさせようという―そのプログラムは、何としてでもぜひ岸田には実現させてもらいたい。
広島1区の彼にはそれを成し遂げる務めと、語り部としての襷(たすき)の意味・使命を貫いてもらいたい。
(ロシアのプーチン大統領もいつかヒロシマに来てくれるのだろうか・・)
・・・・・・・・・・・・・
【発狂は正常】
・「サクリファイス」のアレクサンデルは、核戦争への恐怖ゆえ精神病院送りとなった。
・黒澤明の「生きものの記録」でも、発狂は三船敏郎の上に現れる。
・子供を放射能から守るために、核戦争の恐怖を見せたくないという愛ゆえに、注射の薬液で我が子を 眠・ら・せ・たいとするほどの親の狂気・・
そうなのだ、核への恐れから気が触れてしまうことこそが我々人類が反応すべき正常な反応なのだ。
・・・・・・・・・・・
開戦から10カ月目のクリスマスです。
このレビューを後年読み返すときに
ウクライナの危機が春の訪れとともに氷解していて、新しい年には平和が回復していることを
僕は心から願います。
2022.12.25.
・・・・・・・・・・・・・
追記
ついにヒロシマでG7サミットが始まりました。全員が資料館に入りました。
記念すべきことです。
検索 ―
「核兵器を永久になくせる日に向けて共に進んでいこう」バイデン大統領らG7首脳 原爆資料館で記帳したメッセージ【全文仮訳記載】 2023/5/20(土) 11:32 Yahoo!ニュース
追記
カナダのトルドー首相、G7閉会後にプライベートに資料館を再訪
2021年だから観てよかった
主人公の絶望や不安、緊急事態、神への祈り、マリアへの救い(ここはカトリックじゃ無いから、男性じゃ無いからちょっと理解できないが、息子が母親に救いを求めると考えると、こういう事になるのだろうか?)
大きな混乱の最中で息子だけが全く別の世界で生き生きとしているところが希望でした。
大戦のPTSDや、核への恐怖は、2021年現在の底知れぬ恐怖を彷彿とさせます。
今じゃこの様な表現は作ることが出来なかったかも知れません。巨匠の遺作としてとても見応えが有る作品です。
【タルコフスキー/今の世界】
このサクリファイスは切ない。
タルコフスキーが、この作品の公開後まもなく、亡くなったこともある。
この3年前に公開された「ノスタルジア」の後、彼は亡命している。
この「サクリファイス」は、作品の中で、タルコフスキーの人生を、肯定も否定もすることなく淡々とつづっているように思える。
要所要所で鳴り響く尺八の音。
揺れ動くタルコフスキーの心を表しているようだ。
枯れ木に3年間水をやり続けた僧のエピソードでは日本の植木のことも語られ、タルコフスキーの日本好きも感じられる。
ソ連に生まれ、絶滅戦争と呼ばれた独ソ戦(「僕の村は戦場だった」)を経て、共産主義国家としての希望もあったはずだ(「ローラーとヴァイオリン」)。
しかし、共産主義や世界と、個人の価値観/逃れられないもとの葛藤(「アンドレイ・ルブリョフ」「惑星ソラリス」「鏡」「ストーカー」)があった。
そして、失望と希望の葛藤(「ノスタルジア」)。
この「サクリファイス」の、アレクサンデルが語る舞台俳優を止めたエピソードは、「ノスタルジア」がタルコフスキーの共産主義への失望だと受け止められ、一部の西側政治的勢力からは称賛されたものの、故郷にノスタルジーを感ぜずにはいられなかったタルコフスキーの違和感を表しているように思えてならない。
かみ合わない家族との会話もそうだ。
これは、共産主義もそうだが、身勝手な世界との違和感でもあるはずだ。
核戦争の可能性を煽る世界。
この作品では、核戦争が起きたとテレビが伝えるが、もともと、核戦争の可能性を煽る風潮はあったのだ。
世界を救うためには、マリアと一夜を共にしなくてはならない。後押ししようとする郵便配達。
タルコフスキーの亡命は、マリアとの一夜として表現されているのかもしれない。
しかし、マリア(西側諸国)は魔女かもしれない。
そして、核戦争はなかった。
もともと核戦争はなかったのだ。
でも、自分が魔女と取引したから核戦争が消失したと信じるアレクサンデル。
タルコフスキーもそう信じないとやっていけなかったのかもしれない。
今の世界の僕達も、さまざまな情報に翻弄され、何が正解なのか、どうするべきなのか、日々、答えを出しあぐねている。
さまざまなところに欺瞞や悪意が隠れている。
ベルリンの壁崩壊以前に、亡くなったタルコフスキーの名誉はソ連で回復され、その後、ソ連は崩壊し、ロシアでは民主選挙も実施されるようになった。
しかし、今や世界は、テロに怯え、新たな勢力が台頭し、米ソのような二元論では語ることのできない混沌とした状況になっている。
もっと複雑で混沌とした世界。
タルコフスキーが世に問うたものは何だったのだろうか。
世界と個人との関わり方ではないのか。
子供が初めて口ずさむ「はじめに言葉ありき」
言葉は人と世界とを結びつけるものではないのか。
そして、その世界は、共産主義社会がというより、もっと大きな世界を指しているのではないのか。
そんな風に思う。
※ タルコフスキーは難解だと言われるが、この作品の母親の庭や前世が日本人という話や、ソラリスの近未来社会の高速道路などで、日本人の情緒はくすぐられて、ファンも多いのだろうなと思う。
美
調和。映像作品の極み。
脚本、台詞といったストーリーの裏で、
映像感覚のストーリーが進行する。
表と裏はひっくり返りながらエンディングへと向かっていく。
タルコフスキー作品の観賞後は、普段の見慣れた景色がいっそう美しく見えてくる。
色々な比喩や暗喩があり会話も哲学的で、2時間半もあるので正直疲れるが
スウェーデンの湖畔を舞台に戯画的な人物配置で、終末戦争の恐怖を美しい映像で描く。
そういえば1986年頃くらいまで、核戦争の脅威が残っていたなと思う。その後すぐにソ連は崩壊したが。
スウェーデンの巨匠ベルイマン組の名撮影監督スベン・ニクベストの映像は流石の一言。室内から屋外の暗い場面も雰囲気十分にあり見応えあり。
最後の屋敷が燃える場面は、カメラの故障で再度セット組んで再撮影したらしいが。
タルコフスキーの遺作で深夜のテレビ放送の時に、鑑賞したと思うが全く覚えてないので、初見状態だが、色々な比喩や暗喩があり会話も哲学的で、2時間半もあるので正直疲れるが、まあ良く出来た作品。
やっと観た!こちらも粉砕…
今回、早稲田松竹さんのおかげで、とうとう、それも「サクリファイス」「ノスタルジア」の二本立てという豪華組み合わせで、観ることができた。
観念的な映画だろうから、今回は予習してから行った、ということは、「ノスタルジア」のレビューで書いた通り。そして、そんな予習も吹き飛ばされた点も書いた通り。タルコフスキー監督、甘くなかったわ。
ただ、こっちのがまだついていきやすかった。
世界最終戦争が始まってしまったが、主人公がお手伝いさんとベッドを共にすれば、それを変えられるって、なんじゃいって話なんだが、主人公には幼い頃の何らかのトラウマがあって、そう簡単な話ではない。お手伝いさんは魔女だし。
と、わかったように書いても、自分でも何言ってるかわからない。何度も書くが、さすがタルコフスキー監督。
「それらは象徴ではなく比喩であり、スクリーンの中で起こっていることは現象である」と監督は答える。何かの例えなのね、教えてはもらえないけど。
この、投げかけておいて「自分で考えてね」という突っ放したスタイルが、俺がこの監督の作品を好きな理由かもしれない。
犠牲という意味のタイトルから連想し過ぎかもしれないが、だいぶ宗教入っている感じ、それもキリスト教。だから余計俺には、わからないのかも。(自分は八百万の神で、科学至上主義)
二本立てを堪能したわけだが、結論は、俺には、「ストーカー」「惑星ソラリス」が精一杯だってことかな。
ただ、観てないという長年の懸念を解消できたのは、やはり嬉しい。「鏡」や他の作品が来たら、また出かけていって、粉砕されてこよっと。
その機会が来るのは、また5年後くらいかなあ。
2020/9/10 追記
このレビューじゃ、タルコフスキー監督を誤解されかねないので、早稲田松竹さんの、短いが的確な紹介を載せておきます。
> 実際に訪れたカタストロフに抗うために自らを神に捧げる男
う〜ん、素晴らしい。「早稲田松竹 タルコフスキー」で出る紹介も是非参照ください。
最後のシーンは素晴らしい
あちこちでイマイチだとよく言われているので順番が後送りになって、ついに観ることにした。「鏡」「ストーカー」の方が好きだがこの作品は最後の炎上シーンの見事さで救われていると思う、ただ主人公が最後あぁなるとは?結局何も起きなかったり曖昧さを残したりする監督だと思っていたのでビックリし意外だった。
タルコフスキーの遺書
高尚かつ難解、言い換えれば退屈
それに付き合うのはかなりの辛抱が必要だ
独特の空気感の映像、水の音は過去の作品と変わらない
しかし、終盤で炎と煙を彼の作品ではじめて見せる
長い長いカット、光を受けてきらめく湖面
その美しさを火事の光景がかさなる
そして主人公は散々逃げ回った後に救急車に閉じ込められてつれさられていくのだ
つまり彼自身の映像の否定だ
主人公はもちろんタルコフスキー自身のことだが、ものが言えない子供も実はタルコフスキー自身または彼の映画作品のことを表現している
旧ソ連で表現の自由を奪われ亡命せざるを得なかったことを暗喩してる
その祖国と西側とで核戦争の危機が本作製作当時は確実に近づいていた
西側に逃げたにもかかわらず、旧ソ連の体制は核戦争の恐怖の形でタルコフスキーを追いかけ追い詰めたのだ
逃げた国は様々だが結局本作のロケ地のように何もない空虚な土地にしか過ぎない
共産主義体制下に育ち、信仰には胡散臭ささと迷信めいた何かしらの怖れを抱くのみだったが、核戦争の恐怖と自身の寿命が尽きる死の恐怖の前に信仰にすがるしかないとの吐露だ
母親の家の庭の話は彼の映画作りについての反省の独白だ
だから、自然との調和を目指す日本の在り方に近づく為に、尺八の音楽をかけ、息子と日本の木を植えるのだ
そして息子に毎日水をやれと説き、ラストシーンで息子がそうしようとするのをもって、タルコフスキーの息子がそうしてくれることを祈り本作を息子に捧げると告げるのだ
サクリファイスとは生け贄のこと
核戦争阻止のための神への生け贄に家を燃やす
それだけの意味では全くない
自らの映画人生の全てを否定し生け贄となすという意味だ
それは自らの半生への反省と息子への贈る言葉なのだ
つまり本作はタルコフスキの遺書に他ならない
全10件を表示