サクリファイス(1986)のレビュー・感想・評価
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タルコフスキーの『渚にて』
昨日『渚にて』を見て、タルコフスキーのこの映画を思い出して、もう一度見てみた。
スウェーデンのバルト海の渚にて、島はリンドグレーンの『わたしたちの島で』の様なところだろうか。
多分、タルコフスキーはほぼ自然光のみで撮影したのではないだろうか。この時期は白夜ではなくとも、一日目薄っすらと明るい。そう言った季節的には良い時に起こった暗い出来事。
この映画の約一年前にチェルノブイリ事故が起こり、この映画はそれに警鐘を鳴らした感じだ。本来はウクライナで撮影したかったのかもしれないが、彼はソ連から亡命をしていて、それが不可能だったかもしれない。
遺作だけあって、『ソラリス』 『アンドレイ・リブリョフ』 その他 自身の過去作品をオマージュしていると言った感じだ。つまり、死を予感しているのかも。
タルコフスキーの作品にしては捻りが無い作品だが、彼の遺言の様な昨日なので評価したい。
僕の記憶では、あの『日本の木』と『その後方にある小屋』がもろとも焼けるって思っていた。そして、後方の小屋はムーミンに出てくる『水浴び小屋』の様な所だと思っていた。
10年ぶりくらいで見たが、僕の時間が『サクリファイス』したようだ。
ネタバレありさ。
そのタルコフスキーの遺言に、息子さんの言葉が添えられている様な気がする。
『はじめに言葉があった。でも、何故なのパパ』
ウクライナ戦争のさなかに このサクリファイスを観ることの意味
サクリファイス
上空を通過するあの轟音の戦闘爆撃機。
そして子供の白血病の死のストーリーと、甲状腺がんを思わせる喉のガーゼ。これは1969年のフランス映画「クリスマス・ツリー」に倣います。
この「サクリファイス」は、核の時代の黙示録的作品。
この時期にこの作品を観ることには正直気合が要った。
「核戦争が始まった」。
「みなさんどうか落ち着いて下さい」と、絞り出すように呼びかける、首相の悲痛なテレビの声。
家族が不安の中でリビングに集まり、オロオロと歩き、問い、叫び、パニックになる。互いに鎮静剤を打ち、そして酒を飲む。
僕らはこの頃は慣れてしまったけれど、「北朝鮮からのミサイル・アラート」。
あれが日本の上空を越えた時のあの「アラート音」。皆さんあの初体験を覚えておられるか。
・・どうしてよいか分からず、身を硬くして、上空に耳を澄まし、呼吸が浅くなったあの時の事を覚えておられるか?
とうとう核戦争が始まったというニュースを聞けば、僕らもアレクサンデル同様、どれだけ平常心を失ってうろたえるかわからない。
神頼みのために、魔女と寝るために、そして妻子を守るために、アレクサンデルは村外れまで行く、
命の取り引きのために。
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【ウクライナ戦争】
2022年2月24日、ロシアは突如としてウクライナに侵攻した。
数日で白旗を挙げるものと踏んでいたロシアのプーチン大統領の目論見は外れた。
ウクライナと、その後方から軍事支援を延々と続ける西側に対して、業を煮やしたプーチンは「核」の使用を公然と口にする。
ロシアからもウクライナからも兵役忌避者は国境を越えてなだれ出し、スウェーデンはついに国境を閉鎖。
スウェーデンとノルウェーはこの事態を受けて、中立を破りNATOへの加盟を決断。
スウェーデンのゴトランド島で撮られたこの作品は、対岸にロシア本土を臨む地だ。
プーチン大統領の「核発言」に西側諸国も一触即発で対峙している。
西ヨーロッパもアメリカも、長引く戦費支出に疲弊しており、いつウクライナを見捨てるかもわからない状況。
世界はいま緊張の頂点にある。
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【生理的拒絶感を涵養する】
監督タルコフスキーは
劇中で尺八を流し、
主人公にキモノを着せ、
枯れ木に3年水を注いで枯山水と生け花を鑑賞者にイメージさせる。
あれは東洋趣味の遊びではない。
あの脚本は明らかに日本を指し示している。
日本国の歴史をば映画の舞台=スウェーデンに重ね合わせて「被爆地ヒロシマとナガサキ」を我々観衆に逃れようもなく想起させようとしているのだ。
◆プーチンは強硬に「核」を口にする。
にも関わらずあのプーチンをして核の使用を躊躇らわせている力はどこから来るか、
◆そしてこの映画で、息も詰まるようなパニックと悲壮感を見せるアレクサンデルの家の有り様。あれは何ゆえに引き起こされるのか、
僕は思うのだ、
それは世界の果て、極東の小さな島国で「78年間語り続けてきたヒバクシャがくれた賜物」以外のなにものでもないだろう、と。
― 証言で。写真で。遺物と記録映像で。そして自らのケロイドを国連総会で晒してまで、78年間倦まずたゆまず、雨の日も風の日も黙さずに語り続けた「ヒバクシャ」が、とうとう世界に成し遂げた それは《ためらいの力》だろう。
1962年の「キューバ危機」で、その苦悩ゆえケネディを突っ伏させた力、
1980年代のこの映画の時期の、冷戦の凄まじさにあっても核は使われなかった事実の力、
そしてこの度のウクライナ戦争。
プーチンへの抑止力。バイデン米国大統領への抑止力。
理由はたとえどうであれ、人類を顔面蒼白にし、躊躇させ、理性と道徳を喚起させて とうとう「核」への歯止めになったのは「ヒバクシャの力」だったのだ。
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現自民党総裁=岸田文雄氏の内閣支持率は25%まで下がった。もはやあの総理は死に体だ。
でもその彼が(役立たずで頼りない総理大臣の彼なんだが)、彼が決めているのは来年春(2023.5)の「広島サミット」だ。
各国首脳をヒロシマに呼んで、その地に立たせる経験をさせようという―そのプログラムは、何としてでもぜひ岸田には実現させてもらいたい。
広島1区の彼にはそれを成し遂げる務めと、語り部としての襷(たすき)の意味・使命を貫いてもらいたい。
(ロシアのプーチン大統領もいつかヒロシマに来てくれるのだろうか・・)
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【発狂は正常】
・「サクリファイス」のアレクサンデルは、核戦争への恐怖ゆえ精神病院送りとなった。
・黒澤明の「生きものの記録」でも、発狂は三船敏郎の上に現れる。
・子供を放射能から守るために、核戦争の恐怖を見せたくないという愛ゆえに、注射の薬液で我が子を 眠・ら・せ・たいとするほどの親の狂気・・
そうなのだ、核への恐れから気が触れてしまうことこそが我々人類が反応すべき正常な反応なのだ。
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開戦から10カ月目のクリスマスです。
このレビューを後年読み返すときに
ウクライナの危機が春の訪れとともに氷解していて、新しい年には平和が回復していることを
僕は心から願います。
2022.12.25.
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追記
ついにヒロシマでG7サミットが始まりました。全員が資料館に入りました。
記念すべきことです。
検索 ―
「核兵器を永久になくせる日に向けて共に進んでいこう」バイデン大統領らG7首脳 原爆資料館で記帳したメッセージ【全文仮訳記載】 2023/5/20(土) 11:32 Yahoo!ニュース
追記
カナダのトルドー首相、G7閉会後にプライベートに資料館を再訪
最終戦争勃発
アレクサンデル(ヨセフソン)と、喉を手術したため口のきけない息子とのツーショット。海辺でその“子供”と一緒に枯れた松の木を植え、枯れた木に3年間水を与え続けた憎の話をするアレクサンドル。誕生会には医師のヴィクトルや、元教師で暇なときに郵便局員をするオットーも参加する。
平和な日常の中、突如起こった核戦争。白夜なのか映像全体が白んでいて、それが死の灰が降ってくるかのような冷たい空気に包まれている。人々はパニックに陥り、ヴィクトルが鎮静剤を打ったりする。これまで神を信じてこなかったアレクサンデル。自分も家族も、そして持つ全ての物を放棄するから愛する者を守ってほしいと神に祈り、力尽きて眠ってしまう。オットーに起こされ、「魔女のマリアと寝なければ世界は救われない」と教えられ、梯子で2階から降り、自転車で召使マリアの家へと急ぐアレクサンデル。母の想い出を語り、ついにはこめかみにピストルを当てるアレクサンドルに対して、マリアは服を脱がせ抱き合った。ベッドに寝たはずの二人は徐々に回転しながら宙に浮いてゆく。
何事もなかったかのように朝が訪れる。1日前に戻ったのだ。そこでアレクサンデルは自らを犠牲にする約束を果たすため、家族がでかけた隙に家に火をつける・・・
バッハの「マタイ受難曲」とJVCのオーディオから流れる尺八の音楽。映像が切り替わる度に暗から明へと雰囲気が移行。ラストの火災映像から子供の映像に切り替わるところが切なさとともに明るい未来をも映し出してくれるのだ。タルコフスキーの日本びいきのところも、松の木、尺八、和服(着方が間違ってるけど)などに表れている。
1日戻ったのか、それとも新しい日を向えたのかはヴィクトルの会話などで判断するしかないのだが、喋れなかった子供がラストシーンで喋っているのが謎だった・・・まさか夢オチということはあるまいが・・・
2021年だから観てよかった
【タルコフスキー/今の世界】
このサクリファイスは切ない。
タルコフスキーが、この作品の公開後まもなく、亡くなったこともある。
この3年前に公開された「ノスタルジア」の後、彼は亡命している。
この「サクリファイス」は、作品の中で、タルコフスキーの人生を、肯定も否定もすることなく淡々とつづっているように思える。
要所要所で鳴り響く尺八の音。
揺れ動くタルコフスキーの心を表しているようだ。
枯れ木に3年間水をやり続けた僧のエピソードでは日本の植木のことも語られ、タルコフスキーの日本好きも感じられる。
ソ連に生まれ、絶滅戦争と呼ばれた独ソ戦(「僕の村は戦場だった」)を経て、共産主義国家としての希望もあったはずだ(「ローラーとヴァイオリン」)。
しかし、共産主義や世界と、個人の価値観/逃れられないもとの葛藤(「アンドレイ・ルブリョフ」「惑星ソラリス」「鏡」「ストーカー」)があった。
そして、失望と希望の葛藤(「ノスタルジア」)。
この「サクリファイス」の、アレクサンデルが語る舞台俳優を止めたエピソードは、「ノスタルジア」がタルコフスキーの共産主義への失望だと受け止められ、一部の西側政治的勢力からは称賛されたものの、故郷にノスタルジーを感ぜずにはいられなかったタルコフスキーの違和感を表しているように思えてならない。
かみ合わない家族との会話もそうだ。
これは、共産主義もそうだが、身勝手な世界との違和感でもあるはずだ。
核戦争の可能性を煽る世界。
この作品では、核戦争が起きたとテレビが伝えるが、もともと、核戦争の可能性を煽る風潮はあったのだ。
世界を救うためには、マリアと一夜を共にしなくてはならない。後押ししようとする郵便配達。
タルコフスキーの亡命は、マリアとの一夜として表現されているのかもしれない。
しかし、マリア(西側諸国)は魔女かもしれない。
そして、核戦争はなかった。
もともと核戦争はなかったのだ。
でも、自分が魔女と取引したから核戦争が消失したと信じるアレクサンデル。
タルコフスキーもそう信じないとやっていけなかったのかもしれない。
今の世界の僕達も、さまざまな情報に翻弄され、何が正解なのか、どうするべきなのか、日々、答えを出しあぐねている。
さまざまなところに欺瞞や悪意が隠れている。
ベルリンの壁崩壊以前に、亡くなったタルコフスキーの名誉はソ連で回復され、その後、ソ連は崩壊し、ロシアでは民主選挙も実施されるようになった。
しかし、今や世界は、テロに怯え、新たな勢力が台頭し、米ソのような二元論では語ることのできない混沌とした状況になっている。
もっと複雑で混沌とした世界。
タルコフスキーが世に問うたものは何だったのだろうか。
世界と個人との関わり方ではないのか。
子供が初めて口ずさむ「はじめに言葉ありき」
言葉は人と世界とを結びつけるものではないのか。
そして、その世界は、共産主義社会がというより、もっと大きな世界を指しているのではないのか。
そんな風に思う。
※ タルコフスキーは難解だと言われるが、この作品の母親の庭や前世が日本人という話や、ソラリスの近未来社会の高速道路などで、日本人の情緒はくすぐられて、ファンも多いのだろうなと思う。
美
色々な比喩や暗喩があり会話も哲学的で、2時間半もあるので正直疲れるが
やっと観た!こちらも粉砕…
今回、早稲田松竹さんのおかげで、とうとう、それも「サクリファイス」「ノスタルジア」の二本立てという豪華組み合わせで、観ることができた。
観念的な映画だろうから、今回は予習してから行った、ということは、「ノスタルジア」のレビューで書いた通り。そして、そんな予習も吹き飛ばされた点も書いた通り。タルコフスキー監督、甘くなかったわ。
ただ、こっちのがまだついていきやすかった。
世界最終戦争が始まってしまったが、主人公がお手伝いさんとベッドを共にすれば、それを変えられるって、なんじゃいって話なんだが、主人公には幼い頃の何らかのトラウマがあって、そう簡単な話ではない。お手伝いさんは魔女だし。
と、わかったように書いても、自分でも何言ってるかわからない。何度も書くが、さすがタルコフスキー監督。
「それらは象徴ではなく比喩であり、スクリーンの中で起こっていることは現象である」と監督は答える。何かの例えなのね、教えてはもらえないけど。
この、投げかけておいて「自分で考えてね」という突っ放したスタイルが、俺がこの監督の作品を好きな理由かもしれない。
犠牲という意味のタイトルから連想し過ぎかもしれないが、だいぶ宗教入っている感じ、それもキリスト教。だから余計俺には、わからないのかも。(自分は八百万の神で、科学至上主義)
二本立てを堪能したわけだが、結論は、俺には、「ストーカー」「惑星ソラリス」が精一杯だってことかな。
ただ、観てないという長年の懸念を解消できたのは、やはり嬉しい。「鏡」や他の作品が来たら、また出かけていって、粉砕されてこよっと。
その機会が来るのは、また5年後くらいかなあ。
2020/9/10 追記
このレビューじゃ、タルコフスキー監督を誤解されかねないので、早稲田松竹さんの、短いが的確な紹介を載せておきます。
> 実際に訪れたカタストロフに抗うために自らを神に捧げる男
う〜ん、素晴らしい。「早稲田松竹 タルコフスキー」で出る紹介も是非参照ください。
最後のシーンは素晴らしい
タルコフスキーの遺書
高尚かつ難解、言い換えれば退屈
それに付き合うのはかなりの辛抱が必要だ
独特の空気感の映像、水の音は過去の作品と変わらない
しかし、終盤で炎と煙を彼の作品ではじめて見せる
長い長いカット、光を受けてきらめく湖面
その美しさを火事の光景がかさなる
そして主人公は散々逃げ回った後に救急車に閉じ込められてつれさられていくのだ
つまり彼自身の映像の否定だ
主人公はもちろんタルコフスキー自身のことだが、ものが言えない子供も実はタルコフスキー自身または彼の映画作品のことを表現している
旧ソ連で表現の自由を奪われ亡命せざるを得なかったことを暗喩してる
その祖国と西側とで核戦争の危機が本作製作当時は確実に近づいていた
西側に逃げたにもかかわらず、旧ソ連の体制は核戦争の恐怖の形でタルコフスキーを追いかけ追い詰めたのだ
逃げた国は様々だが結局本作のロケ地のように何もない空虚な土地にしか過ぎない
共産主義体制下に育ち、信仰には胡散臭ささと迷信めいた何かしらの怖れを抱くのみだったが、核戦争の恐怖と自身の寿命が尽きる死の恐怖の前に信仰にすがるしかないとの吐露だ
母親の家の庭の話は彼の映画作りについての反省の独白だ
だから、自然との調和を目指す日本の在り方に近づく為に、尺八の音楽をかけ、息子と日本の木を植えるのだ
そして息子に毎日水をやれと説き、ラストシーンで息子がそうしようとするのをもって、タルコフスキーの息子がそうしてくれることを祈り本作を息子に捧げると告げるのだ
サクリファイスとは生け贄のこと
核戦争阻止のための神への生け贄に家を燃やす
それだけの意味では全くない
自らの映画人生の全てを否定し生け贄となすという意味だ
それは自らの半生への反省と息子への贈る言葉なのだ
つまり本作はタルコフスキの遺書に他ならない
感想
私はこれを、都内の映画館でリバイバル上映された際に鑑賞しました。
なのでタイトル通り、映画の感想を述べたいと思います。
この映画を鑑賞して、どこにテーマがあるのかと考えたとき「調和」と「その均衡が破られ」そして「新たな調和がもたらされる」ということだと思えました。
最初は調和というか均衡の保たれた状態でした(良くも悪くも)。が、戦闘機の轟音のようなものが最初に轟いたとき、部屋の中のミルクが瓶ごと倒れて床に散らばり、世界(worldではなくuniverse)に変化が訪れる象徴が現れました。
そして電気が通らず、通信も不能になった中、皆が「調和した世界」を求めました。主人公の妻には鎮静剤が注射され、娘にも注射が打たれますが、ここで重要なのは、娘が自身で注射を拒否したのにも拘わらず、他者が少しの無理を強いてでも注射をして鎮めようとした場面です。
ここで、この映画に少なくとも二つの軸が提示されているように思えます。
それは、
・多少押さえつけられてでも皆が静かに暮らせている、という意味での調和
・抑圧から解放されてみんながそれぞれ自分らしくいながらにして調和した世界
(後者は、前者の反証という形での提示かと思いますが)
さて、主人公は奥さんと不和であり、それでも静かに暮らしていたこれまでの世界は、まさしく抑圧を感じながらも静かな世界でした。しかし核戦争という圧倒的なアンバランスがもたらされて、それまでの世界が維持できなくなりました。
召使のマリアがなぜ魔女で、そのマリアと寝ることでどうして世界が救われるのかはわかりませんが、これを映画的な意味から見ていくと、それまで主人公やその周囲の人間を抑圧していたものから解放して、後者の意味での調和世界をもたらすための鍵ではなかったのではないでしょうか。
これを具体的に述べると、
・主人公がマリアと関係を持つことで、主人公とその奥さんはお互いを縛り付けていたものから解放される。
・友人である医師も二人の面倒をみることから見切りをつけて、オーストラリアへ旅立てる。
等々、、、
ということになると考えます。
それが証拠に、主人公がマリアに対し告白する自分の過去――荒れ放題だった庭を、良かれと思って手を加えたことで全く見るに堪えないものへと変貌してしまったことへの後悔――これこそが、この映画の言いたいことを端的に表していると思います。
トドメに主人公が自宅に火をつけるのを、映画サイトなどの解説では神に誓った犠牲の実行と言われていますが、意味的な側面から言えば、これまでの古い調和した世界が消えて、新しい、それぞれがしがらみから解放された自由な世界が始まることの現れと捉えていいのではと思います。
タルコフスキー監督の実生活で求めていたものが、この映画にも色濃く現れているのではないかと思いました。
余談ですが、私はこれまで惑星ソラリスやストーカー、鏡などを見てきましたが、ソ連国籍だったころの哲学的な問答というか、そういう色があまり強くなかったように思いました。何かの心境の変化のでしょうか。
ネタバレ
楽園を追われた人類が背負った原罪(文明)。その究極である核戦争。
無神論者の主人公は、これを食い止めるために、自分が犠牲をはらう約束で、初めて神に祈る。
聖母マリアへの回帰を果たし、願いは聞き届けられた。
そして神との約束通り、彼は家族や家を捨てる。
…というストーリー。
しかし、逆ではなかろうか。
わずらわしい家や人間関係を捨てたい、自由を得たい、マリアと同一化したいという主人公の願望が、願いを叶えるために彼に核戦争を妄想させたのだ。
発狂することで得られる自由。
あまりにも大きな犠牲。
「白痴」のムイシュキンや、ニーチェの名前が出てくるが、ラストでイメージが重なった。
独特の静謐な雰囲気はあるのだが
総合:50点
ストーリー: 45
キャスト: 60
演出: 70
ビジュアル: 70
音楽: 65
話は進まない。日常の世間話がひたすら淡々と進み、物語も何もない。前半は笑いも無く怒りも無く、ひたすら落ち着いた雰囲気の中で世間話だけが途切れることなく決められたように続けられる。その世間話も、俳優たちがかぶることもなく交互に科白を言い合う。まるで舞台の科白回しのよう。
後半になって物語は進みだす。しかしこれは本当に現実なのか。戦争だというのに静謐な風景は変わらない。そして何か現実離れした話がふわふわと出てきて、精神の奥からの告白と叫びが続く。夢うつつの中、何か別世界にでも迷い込んだのか。描き出される場面は中世の風景画か人物画のよう。心の静まる芸術的演出と思いきや、心に秘められていたものが出てきて蠢きだしもする。
だが物語はどうもよくわからない。本当に人類の危機を迎えた状態なのか、それでも猶こんなことをしているのか。やはり現実感がない。最早夢と現実の区切りが消え去り交じり合った状態になっている。そうか、だから結局これは現実ではないのだな。一人の男の錯乱する話なのか。それとも本当にあれは現実で彼が自己犠牲と交換に世界を救った話なのか。
監督・脚本を手がけたアンドレイ・タルコフスキーの真意がどうであるかは知らないし興味もない。それぞれの視聴者の解釈次第なのだろうが、現実主義者の私には前者のように思える。その現実主義者を前にして、映画の持つ謎と神秘はあっさりと精神錯乱で片付けられて処理され、私の中では余韻を残すこともなく終わったのであった。この映画の捉え方は人の好み次第でしょう。
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