「家族」ゴッドファーザー ストレンジラヴさんの映画レビュー(感想・評価)
家族
「文句は言わさん」
午前十時の映画祭15にて鑑賞。
我が生涯不動の第1位(本音を言えばPARTⅡの方が好きなのだがコルレオーネ・サーガということで)。劇場鑑賞は2015年に開催されたシネマ・コンサート以来二度目。
マリオ・プーゾの原作を手にしたのは15歳の冬だった。裏社会の物語ということで2日ほど逡巡したが、「感化されない」ことを条件に読んだ。以来、堅気だがすっかり本作の世界観に染まっている。お蔭様で頬杖のつき方、椅子の座り方に至るまで周囲からはことあるごとに「偉そうな」と形容されるようになった。
それにしても「怖い」こと以外非の打ち所がない作品である。撮影を担当したゴードン・ウィリスが切り取った映像は全てが絵画であり、自身も「撮影にあたってはレンブラントを念頭に置いた」というくらいどこをとっても光と影のコントラストが最大限に活かされている。
そして本作を観るたびにマーロン・ブランドは天性の役者だと痛感する。製作当初、パラマウント側はブランドの起用に消極的だった。私生活でのトラブルが後を絶たず、撮影に入っても役作りはおろか台詞すら満足に覚えてこないのが当たり前だった。しかしコッポラが恐る恐るブランドに打診をしてみると、ブランドはコッポラ達の前でチーズのピースを下顎に詰め、髪を靴墨で染めて見事にドンを体現した。それを見たコッポラが「ヴィトーはブランドしかいない」と確信したという。実際の撮影でもブランドは全く台詞を覚えてこず、冒頭の結婚式のシーンなどは対面する相手の体に貼り付けられたカンペを読んでいるだけなのだが、誰がどう見てもそこには巨大ファミリーを統べる男の姿しかない。恐らくブランドには役作りなど必要ない、芝居にかけては正真正銘の天才なのである。
ブランド同様に下馬評を覆したのが、当時無名だったアル・パチーノだ。こちらもマイケル役は当初ロバート・レッドフォードが検討されていたらしいが、「イタリア系の俳優が演じるべきだ」とコッポラが主張しマイケル役の起用が決定した。その後の大活躍はご存知の通りである。アル・パチーノの大きな目がいい。あの目こそがマイケル・コルレオーネの冷徹の象徴と言っていい。特にラストシーン、表情ひとつ変えないマイケルと、その姿に絶望するケイ(演:ダイアン・キートン)の怯えきった表情の対比、そしてそれを唐突に遮る扉からのエンドロールという一連のシークエンスは何度観てもゾクゾクする(この目が次第に濁っていく様子を追っていくとPARTⅢもかなりの名作なのだがね、如何せん前2作があまりにも強すぎた)。
個人的に不満なのはこの作品がスケールの大きい暴力映画と思われていることだ。自分は幸運にも原作小説から入ったので、シチリア島の歴史やヴィトーをはじめとする主要人物の生い立ち(PARTⅡのデ・ニーロのシーンがこれにあたるが)を念頭に置いて映画を観ることができた。つまり元から「家族の物語」として観たわけだ。しかし時間の制約上、本作ではそこまでリソースを割けていないので、何故ヴィトーが家族を重んじるのか?そしてPARTⅡ以降で何故マイケルが苦悩するのかが刺さりにくいのである。もし余裕があれば、原作小説にも目を通していただきたいというのが本音である(因みに、劇中1回しか流れないにも関わらず最も有名なテーマ曲が何故「愛のテーマ」なのかも小説によって見えてくる)。
久々だったが全く色褪せていなかった。惜しむらくは、私が割と早い段階で催してお手洗いを気にし始めたことである。それだけがワシの心残りである。