新ドイツ零年

劇場公開日:2025年12月20日

解説・あらすじ

ジャン=リュック・ゴダール監督が、冷戦期に東ベルリンに潜伏していた老スパイの西への帰還の旅を、主にドイツに関連した哲学や文学、音楽、映画などを引用しながら描いたドラマ。

ベルリンの壁が崩壊した翌年の1990年のドイツ。西側のスパイとして東ベルリンに30年間潜伏していた諜報員レミー・コーションの前に、軍情報部のゼルテン伯爵が現れる。「すべて終わった」と告げられたレミーは、ゼルテン伯爵に勧められ、西側への帰還を目指して東ドイツを大きく迂回する旅に出る。トーマス・マンの小説の登場人物を思わせる娘シャルロッテや、ドン・キホーテとサンチョ・パンサなど、さまざまな人たちと出会いながら、レミーは西側にたどり着く。

主人公レミー役に、ゴダール監督作「アルファヴィル」でも同名の探偵役を演じたエディ・コンスタンティーヌ。ロベルト・ロッセリーニ監督が「ドイツ零年」でナチスドイツ崩壊の1945年をドイツにとっての「ゼロ年」と示したのに対し、ゴダール監督は東西ドイツが統一された1990年を「新ゼロ年」として本作を手がけた。

1991年製作/62分/フランス
原題または英題:Allemagne année 90 neuf zéro
配給:ザジフィルムズ
劇場公開日:2025年12月20日

その他の公開日:1993年12月25日(日本初公開)

原則として東京で一週間以上の上映が行われた場合に掲載しています。
※映画祭での上映や一部の特集、上映・特別上映、配給会社が主体ではない上映企画等で公開されたものなど掲載されない場合もあります。

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(C)BRAINSTORM 1991. Licensed through ECM Records GmbH

映画レビュー

未評価 それでも、ゴダールは苦手

2026年1月26日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

 ナチスドイツの敗北した1945年を「ドイツ零年」とするならば、ベルリンの壁が崩壊した1990年を「新ドイツ零年」としてジャン=リュック・ゴダールが描いた物語です。でも、僕とは常に相性の悪いゴダールはやはりゴダールで、僅かにストーリーらしきものはあるものの、文学や哲学作からの引用句や人名が次々と投げ掛けられ観念的な文字が溢れ、僕には全く捉え所がありませんでした。

 でも、こんな事があろうかと、今回はいつも頼りになる渋谷哲也(日大教授)さんの上映後トークの回に鑑賞しました。なるほどの解説で、何とか爪を引っ掛ける取っ掛かり位は掴めました。こりゃあ、パンフレットを熟読して、シナリオを読み込んでからもう一度だ。やっぱりゴダールは苦手だなぁ。

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La Strada

1.0 おお・・凄え。

2026年1月25日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:映画館

難しい

さっぱり解らない・・台詞もテロップもチャプターも。物質文明に関係してるのか?“西洋”って字幕にも違和感。ベートーヴェンの7番?パブロフの犬的に荘厳さを感じる。

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トミー

4.0 ゴダール的ドイツ精神史アンソロジー

2026年1月20日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:映画館

ドイツ(に関する)近現代思想史の、
言葉と映像によるアンソロジー、
プラス、ゴダールのノスタルジア、
という感じ。

役者は舞台まわしに過ぎず、
普通の意味でのストーリーは、特にない。

主役は、強いて言うなら、
古きドイツを残し、
ゴダールの解釈によると「孤独な国家」で、
製作決定時にはまだ存在したが
わずか1年後の撮影時には消滅していた
東ドイツ。

  *  *  *

「西はどっちだ」という台詞が、要所要所に。
フランス語では l'occident「西」。

フランス語の「西」という語はもう一つあって、英語と同じwest。
occidentは方角というより、東洋に対する「西洋」、
あるいは東西対立の「西側(諸国)」という意味。
それを字幕ではほとんど「西洋」としていたんだけれど違和感。

『西』(カギカッコつき)でよかったんじゃない?
対立軸としての東洋なんて、出てこないんだから。
ただ「西洋の没落」(シュペングラー)の引用は「西洋」とせざるを得ないけど。

  *  *  *

観ている間は、ああ、引用満載なんだなぁ、と思いつつ、
出典が分からなくても気にしなかったんだけれど、
やっぱり分かるに越したことはなく、

さいわいパンフがすべての典拠を載せている優れもので、
これを読みながら映画の謎解きをする楽しみが加わり。

それによると、典拠として登場するビッグネームは、登場順に
トーマス・マン、ヘーゲル、リルケ、マルクス、プーシキン、
ゲーテ、ヴィトゲンシュタイン、カフカ、ハイデガー、
アンドレ・マルロー、フロイト、ニーチェ、ブレヒト、
それ以外にも、初耳の小説家・詩人が何人か。多過ぎやろ。

引用されたフレーズを全部知ってた人なんて、きっといるわけない。
だから、出てきた言葉を味わえばいいよね。
そしてその周辺だけでも、読みかじってみたら面白そう。

  *  *  *

さらに引用されるのは、
20世紀前半から半ばにかけての映画の数々。
「ドイツ零年」のロッセリーニはもちろんのこと、
ムルナウ、ラング、エイゼンシュテインなどの監督作品。

ただ、ロッセリーニの「零年」は、
そのラスト・シーンが「新零年」の冒頭につながる情景
という以外は、若干のシーンが挿入されるだけで、
観ていないと差し支える、というわけではない。
まして他の映画においてをや。

  *  *  *

一番の謎は、ゴダールが何を伝えたかったのか、ということ。

>同様に巨大なのは、精神の力に対する貨幣の襲撃だ。貨幣が征服者として浸透した世界都市の土壌では、今日、絶望的な闘いが始まっている。

><それ>はアウシュビッツとヒロシマを発明し、そのとき、最後の闘い、つまり貨幣と血の間の闘いが始まる。
>(<それ>とは「貨幣の独裁が行き着くところまで行った結果として生じる事態」を指している)
――パンフレットより引用。ラストシーン直前の独白。

この映画は、
そこに至るまでの、ゴダール的ドイツ精神史
なのでありましょう。

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島田庵

3.0 改めて「後期ゴダール問題」に直面。すいません、難解すぎて僕にはちんぷんかんぷんで。

2026年1月18日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

ここまで中味が理解できない映画について、感想を書くのは正直難しい。
中盤以降は筋を追えないところか、一個一個のセリフや登場人物の動きに、どういうつながりがあって、会話がやり取りとして成立しているのか、発言に何らかの意味があるのかさえ、定かではない。要するに、僕の知力をはるかに超えている。

そのこと自体を認めたうえで、これを「映画らしい映画」「ゴダールらしいゴダール」ととらえることは可能だし、難解であるという属性の映画的な意義や、難解なものを受容する鑑賞者の意識についての思念をめぐらせることも可能だろう。

とはいえ、やはりここまでちんぷんかんぷんだと、何を語っていいのやら……(笑)
ふつうにわからせる気がないし、わからないこと自体をファンもわかっていて観る映画だし、そこの「共犯性」や「仲間意識」や「スノビズム」が土台となって成立している映画だろうと思う。「ゴダールならこういう映画撮るよね♥」っていう「愛着」と「許容」という大前提がないと、とても取っ付きの良い映画だとはいえない。

実は僕は『新ドイツ零年』は、20代の頃に一度観ている。
そのときの印象は、ただひたすら「なにがなんだか」「さっぱりわからない」といったもの。
あれから30年以上経って、少しは自分も賢くなったか、多少は経験も積んだかと思ったんだけど……やっぱりまるっきり歯が立ちませんでした(笑)。

そもそも、50年代に“FBI捜査官レミー・コーション”という映画のシリーズがあって、本作の主役のエディ・コンスタンティーヌがレミー役で大人気だったことや、ゴダールのSF映画『アルファヴィル』(65)でも同名の探偵役で主演していたことを知っていないと、たぶんこの映画は楽しめない。それから、次々に引用される古い映画や小説の要素についても、ある程度はわかっていないと、やはり意味のとれない部分が多いと思う。
この映画で行われているのは畢竟、「コラージュ」の実験なのだが、その「素材」となっている要素がわからないと、そもそも行われているコラージュの意図がくみ取れない。

有体に言うと、これは僕の苦手なゴダールそのものだ。
若い頃は、ゴダールおよびその信奉者全体を「敵視」していた時代もあった。
こういうスノビズムとオナニズムが映画をダメにするのだと。
ただ、時代が代わり、僕も齢をとって、当時持っていた敵愾心は消え失せた。
いまの僕は、決して初期~中期のゴダールが嫌いではないし、上映されたら足しげく観に行くくらいに、監督さんとしては敬愛している。
ここ数年でも『勝手にしやがれ』『女は女である』『女と男のいる舗道』『カラビニエ』『軽蔑』『はなればなれに』『気狂いピエロ』『カルメンという女』あたりを映画館で観たが、だいたい高評価をつけて好意的な感想を書いたし、もはや「苦手意識」はあまりないと思う。

だがしかし。
これとか、『パッション』とか『ゴダールの決別』みたいな、「本当に意味のわからないゴダール映画」に関しては、自分の頭が悪くて理解できないことを公言するのが恥ずかしいけど、やっぱり感覚的にも「受け付けない」ってのが本当のところ。
こういう映画を、あんまり褒めちゃいけないと思うんだよな(笑)。

― ― ― ―

●冒頭、トラムのシーンで幕を開けるのは『ドイツ零年』への目配せか。踏みつけられる「カール・マルクス通り」の看板。ドイツから発祥した共産主義の終焉を、東西ドイツ統一に見ているってことかな。

●ロード・ムーヴィーとしての体裁に、哲学的な思索や警句を織り交ぜて、西洋史や宗教史全体を俯瞰して捉えようとする観点は、何かデジャヴがあるなと思ったら、ルイス・ブニュエルの『銀河』(68)に構造は近いんだよね。あれも、旅の途中でキリストとかマリアとかマグダラのマリアとか唐突に出てくるし。でも、モンティ・パイソンみたいな面白映画だった『銀河』と比べても、『新ドイツ零年』には笑いやキッチュの要素は一切なくて、面白みには欠ける。

●Wikiなどを見ると、作中ではセルゲイ・エイゼンシュタインの『アレクサンドル・ネフスキー』やムルナウの『最後の人』、ボリス・バルネットの『青い青い海』など、古い映画の断片的映像が引用されている。それからもちろん、元ネタであるロッセリーニの『ドイツ零年』も。ロシア絡みの作品が多いのは、これが「東西」、すなわち共産主義と資本主義の対立と融和の転換点で作られた映画だからか。また、引用としてはヘーゲル、リルケ、ゲーテといったドイツの作家・思想家のほか、カフカやアンドレ・マルローなどからも採られている。こちらは、執念深く「本の表紙」を映し込むことで、巧みに何を引用したナレーションかがわかるように仕組まれている。

●伯爵が老スパイに手渡す割符の絵が、タマラ・ド・レンピッカの「緑の服の女」! この絵、実は大昔に仕事で用いたことがあって「なぜこんなところに?」と驚いた。ワルシャワ生まれでサンクトペテルブルグから、ロシア革命でパリに亡命し、さらに戦争を経てアメリカに移ったタマラの生涯を、西欧における「東西」を問う本作に重ね合わせたのだろうか。

●挿入される何かの映画の舞踏会シーンのバックで、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番の冒頭。このあと、よくわからない映画がいくつか挿入される。マレーネ・ディートリッヒは『リリー・マルレーン』か?

●老スパイのワイマールめぐり。シラーが「盗賊」を書いた家とワイマール公カール・アウグストの銅像、リストとコジマの肖像写真に合わせて、リスト編のピアノ版「第九」の第二楽章が一瞬流れる。ルーカス・クラナッハ父の旧家の表示のあとで、なぜかアルブレヒト・デューラーの「赤い帽子の少女」、プーシキンの銅像、ゲーテの引用。そのあと、女性の長い髪が前に垂れている絵の含まれる画集が登場するが、こちらは僕の知らない絵だ。

●「死と変容」の章で、唐突にグリューネヴァルトの磔刑図が挿入される。有名なイーゼンハイム祭壇画ではなく、カールスルーエの絵画館にある最晩年の祭壇画のほうだろう。そのしばらくあとで今度は有名な同じグリューネヴァルトの「聖アントニウスの誘惑」のモンストルムが挿入される。流れてくる音楽は、まさかのオネゲルの交響曲第5番「三つのレ」の冒頭!! これはすごい使い方では……。

●ドン・キホーテとサンチョ・パンサが、風車を背景に前触れなく登場するが、彼らが突撃するのは風車ではなくて、巨大な土砂掘削機らしきマンモス重機(字幕では「ドラゴン」と出ている。運河工事?)。近代工業文明・都市文明の象徴といったところか。このコンテクストにおけるドン・キホーテというのは、巨大な存在に立ち向かうちっぽけな道化というだけでなく、ロマン主義的もしくは懐古的な解釈で近代文明に抗うことの滑稽さだったり、「映画」という表現手段を用いて西洋史全体に知的に挑もうとしているゴダール自身だったりの象徴として扱われているのだろう。流れるのはベートーヴェン交響曲第7番のアレグレット。あら、ついこのあいだ観た『落下の王国』と被ったわ。この曲とモーツァルトの弦楽五重奏曲ト短調の終楽章は繰り返し、テーマ曲のように流れる。

●引きずられるユダヤ人の死体、ヒトラーと愛人の映像。ドイツの負の歴史と向き合う瞬間。鉄道と地下鉄が出てくるシーンで、初めて『ドイツ零年』のエドモンド少年と少女娼婦が地下鉄へと降りようとするカットが挿入される(ああ、なるほど、老スパイがうろうろした末に西ベルリンにたどりついたからか)。「アメリカは戦争には参加していない。あの国は内戦しかしたことがない。独立のときはイギリス人と闘い、その後アメリカ人同士で闘った、そのあとゲルマン化したと思ったらドイツと闘った」みたいな話は、なるほどな、と。何かの引用?

●ベルリンの旧国立美術館を彷徨する女性。ここにあるクールベの「波」を写真に撮っている。ナレーションで流れる「クールベさんこんにちは」というのも、同じ画家の有名な作品のタイトルから取られている。

●バッハの「フーガの技法」あたりで展開される、軍人とヴィオリストのやり取りは、まったく意味がわからなかった(笑)。別れの曲のようないいぐさで女がわざわざ曲紹介をして、ショスタコーヴィチのヴィオラ・ソナタ作品147を弾きだすのだが、出だしの旋律がフランツ・シュミットの交響曲第4番冒頭とそっくりで、ちょっとドキッとした。

●ビアバーでのやりとりも僕にはさっぱり意味がとれなかったが、帰ってから調べたところ、老スパイが読んでいた本はヤン・ヴァルティンという二重スパイの自伝『夜をのがれて』(カバーに書かれている原題は、「故郷も国境もなく」の意)で、日本でも邦訳が昔出ていたらしい。店に入って来て並んで座った男の読んでいる本の表紙にも「ヤン・ヴァルティン」の文字。

●終盤も、基本何の話かはさっぱりわからない。国民画家としてのベラスケス、ジオット、デューラーの話が出てきたり、村民の合唱団が出てきてハレルヤを歌ったり、「絵画」と「音楽」についての言及が多い気がする。流れているのはマレーネ・ディートリッヒの声?

●強調される道の「壁」(ベルリンの壁、嘆きの壁)。ギリシャ風の柱廊。いずれもヨーロッパの過去と未来、障壁と交流の象徴的事物だ。
夜の街をさまよったあと、老スパイはホテルの一室に腰を落ち着ける。ベッドの足側のマットレスの下に「ゲシュタポ」の本を詰めつつ、メイドに卓上の聖書を持っていかせようとするが、これは部屋の備品ですと断わられる。「クソ野郎」とつぶやくところで、映画は唐突に終わる。

― ― ― ―

作中、何度も繰り返される「西洋はどっちだ?」の問いかけ。かなり滑稽な感じもするのだが、これは字幕上の話で、もしかしたら単純に旧東ドイツ地域においては「西ドイツ側に出るにはどっちだ?」、あるいは単純に「西の方角はどっちだ?」と訊いているだけに聴こえるセリフなのかもしれない。

だが、ゴダールにとって、この問いかけはまさに本作の究極の命題だった。

僕ら日本人にとって、ベルリンの壁崩壊と東西ドイツ統合というのは、ある意味「他人事」といった部分もあるかもしれない。とくに、自分のように高校時代から一貫して穏健保守、中道保守に近い思想的立ち位置で生きてきた人間にとって、共産(社会)主義国家の崩壊自体は「さもありなん」程度のインパクトでしかなかった。
だが、ゴダールはあれだけ毛沢東とマオイズムにのめり込んだ人物だ。彼は「ジガ・ヴェルトフ集団」時代も含めて、10年以上の歳月を政治的映画活動に捧げて、80年代にやっと商業映画に戻ってきたのだった。そんな彼にとって、東ドイツの崩壊はどんな感慨を抱かせるものだったのか。

きっと、ゴダールにとって『新ドイツ零年』は、我々が考える以上に「切実な」映画なのだと思う。自分の拠り所にしてきたイズムが音を立てて崩壊し、資本主義から共産主義へと「良い方向に西欧が進化していく」という希望的な未来予測が成立し得なくなった時代に、「だとすれば西洋はどこへ向かうのか」。ゴダールは、必死でその問いの答えを模索し、その象徴的営為として老スパイに東西ドイツの各地域を遍歴させる。
「西洋はどうなるのか」。
問いの答えは見つからない。
歴史。宗教。文学。音楽。
ゴダールは、さまざまな文化的な積み重ねのなかに身を投じて、「西側」の辿るべき未来について思索を繰り広げる。

しょうじき映画自体の内容は、難解すぎて意味をとることが難しい。
でも、ゴダールにとってこれが必要な映画であったことは伝わる。

ロッセリーニにとっての『ドイツ零年』と、ゴダールにとっての『新ドイツ零年』。
二人の偉大な監督が歴史の分岐点で感じた、どこまでも切実な思い。
それをオーバーラップさせて感じ取ることができただけでも、この特集上映には大きな意味があったと思う。

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じゃい