生きる(1952)のレビュー・感想・評価
全87件中、21~40件目を表示
ストレートなタイトルに心を惹かれた。 主人公のうじうじした話し方や...
ストレートなタイトルに心を惹かれた。
主人公のうじうじした話し方や態度には少々イライラさせられるし、思いつめたような表情も気味が悪い。
しかし、それも名演技ということか。
人生の最期を悟ってあれほど仕事に没頭できるかは私は自信がない。
こうして、日本型村社会がアメリカンドリームを謳歌し始める
民主主義に於いて行政は、国民の為に存在する。
1952年に『20年間男やもめ』って事は、
1932年から役人をやっている事になる。つまり、戦前から役人をやっていた訳で、行政の機関の一員と言うよりも、官僚なのではないだろうか?もっとも、地方公務員は官僚とは言わない。しかし、映画の中ではこの人物の詳細は説明されていない。従って、戦後民主主義が謳歌され始めた時期の官僚に対してのアイロニーな出鱈目なお話と思うべきだ。
この主人公の心の動きを見ても、奇々怪々でわけわからない。亡父曰く。『貧困層はこんな生活感持っていなかった』付け加えて『役人はアプレガールとは遊ばないぞ』って怒っていた。
僕が知る限り、役人は威張っていた。それがDNAと化して、日本型の終身雇用までも否定される原因になってしまう。
『たとえ役人と言えど、能力を発揮しなければ駄目だ』ってね。
そして、それが民間会社に゙伝承し、能力主義が育つ。
よくよく考えてみれば、自分の命を犠牲にしてつまらない公園を作ったに過ぎない。
って考えたら、ブラック企業の『さきがけ』に見えるが。
因みに、小田切ミキさん演じる娘さんは我が亡父と同い年で、アプレガールではない。
いつポックリいくか
葬式の時に胃ガンだと知ったからそりゃ頑張れるんだよみたいに水を差す発言のあと、「そうじゃない、そんなこと言ったら私たちだっていつポックリいくかわかんないよ」みたいなセリフがあった。あれがよかった。あのセリフから帰納的にこの映画は作られてるとさえ思えるほど残った。
日本にとって近代とは何か
システム的近代社会においてロボット化した人間が、死に際して個としての生命を初めて?あらためて?生き始める。大正から戦後を生きた人間の個人史であるが、この主人公は日本の近代化の歴史を象徴する存在でもある。
葬儀の場面で各人が回顧し、無口で謎の人物であった主人公が、一人の人間として像を結んでいくのが印象的。生と死がせめぎ合ううねりのような構造である。
胃のレントゲン写真から始まるのがよい。これにみんなー胃の持ち主も翻弄され世界が転がっていく。
音楽の使い方が面白い。『命短し恋せよ乙女』もそうだが、『ハッピーバースデー』がぐっと来る。直接的といえば直接的なのだが。
ミイラ?キリスト?意志をもって生きる!
いのち短し 恋せよ乙女‥‥
志村 喬さんの目の演技に吸い込まれた。
死に直面した公務員の生き方を通して、
人間の真の生き甲斐を問いかける感動作。
渡辺課長が生きる事に目覚める隣りで
ハッピーバースデーが流れるシーンや
夜更けの公園でブランコに乗って
「ゴンドラの唄」を口ずさむシーンも良かったが、
お葬式に婦人会の方々が無言でお別れする
シーンが一番泣けた。
やる気になれば人生が変わる
志村喬扮する時間をつぶしているだけの市民課長渡邊勘治は20年ほど前から死んだ様な風情であった。地区から公園にしたいと言う要望について役所は馬鹿にした様にたらい回しにした。あと少しで30年無欠勤の市民課長が休んだ日であった。市民課長は余命半年の胃ガンであったが医者からは胃潰瘍と言われた。
この間カズオイシグロ脚本の生きるを観たので黒澤明版生きるを観直してみた。いざ死を悟った時にどう生きるのか。ショックから如何に立ち直るのか。果たして自分がその立場に追い込まれたら頑張れる意思を持てるのか。とても自信が持てないな。でもやる気になれば人生が変わるかも。
人間への信頼
死の宣告を通して、平凡な(死んだように生きていた)人間が愛の行為者に変身する姿を、切実に丹念に描いた名作中の名作。
人間としてどう生きるか?生をどう受け止めるか?尊厳を賭けた人生とは?
それは愛の行為者として、自らの生を地上の愛として根付かせることだ。
こういう作品は突然生まれるわけではなく、その時代に“生まれるべくして生まれる”ような宿命を感じる。
戦争の惨禍を受け、罪なき罰の犠牲者となった日本の庶民。その逆境を生きていかなければならない敗戦後のカオスの時代には、自由の名のもとに溢れ出す動物的な欲望と活力が旺盛であっただろう。
しかし、黒沢の視力は人間の善性と愛を見据えていた。動物的な欲望に打ち勝つだけの強い理性(善性と愛)を持っていなければ人間とはいえない。「死」をグッと引き寄せ、「生」とがっぷり四つに組んで、人間への信頼と希望を与えてくれた。
人物にたっぷり肉付けをして、その性格や表情やクセを綿密に詰め、それぞれの人物にあだ名をつけ、“名は体を表す”ようにそれぞれの存在感で見事に競演させた。
役所の閉塞感、とよの闊達さ、息子夫婦の冷たさ、歓楽街の騒がしさなどなど。緩急のリズムの面白さを味わっているうちに、徐々に深刻な段階へと進む、その堰を切ったような凄まじまさに度肝を抜かれる。
とよが靴下を受け取るとき、どうして私に?と問うたあと、素直に渡辺の親切に感謝するシーンが好き。奇妙なコンビの二人が、最初にクリアしなければいけない感情のやり取りだった。
自分のあだ名をミイラと言われたときは、これから殻を破るエネルギーをもらったようで、一緒に笑ってしまう渡辺。
映画が終わったあと、鑑賞者の魂も殻を突き破られ、震えるほど感動するのだ。
一人の男を「聖域」に導く驚愕の二部構成
雪の降る中、ブランコをこぐ志村喬があまりに有名な作品で、むしろ観る前までこのイメージ以外の内容を知らないくらいでした。
胃がんを宣告されて絶望していた男が、最期の最期に自分のやるべき使命として「公園を作る」ことを定めて奮起する単純な話でしたが、その物語の構成には心底あっけにとられ「この監督、天才では…?」となりました(天才です)。
死をテーマにした作品ですが、全体的な流れは妙にコミカル。
主人公の渡邊勘治が胃がんと宣告されるとこからして可笑しいですからね。まず待合室で他の患者が「胃がんは直接宣告されない。軽い胃潰瘍ですなと医者が言ったら間違いなく胃がん」と話すのを聞き、実際に医者がその患者と全く同じことを言って胃がんだと確信する流れは悲劇というよりは喜劇です。 そもそも冒頭から描かれるお役所仕事の様子なんかも、極端に積まれた書類やたらい回しのテンポの良さからコントじみてすらいます。
息子夫婦からも邪険にされるような状況で、志村喬の縮こまった背中や表情にこそ悲哀が溢れていますが、こうした笑いを交えているため必要以上に哀しい気持ちにはなりません。
むしろ、飲み屋で知り合った作家や部下の女の子に色々と遊び方を教わっていく姿はハッチャケてますし、同時に渡邊という男がこれまでどれだけ不器用に生きて流されてきたのかがハッキリしてきます。
そして、お役所仕事に飽き飽きして、おもちゃを作る会社に転職した元部下の女の子の「何かを作ってみれば」という何気ない一言で、渡邊は「死ぬ前に市民のために公園を作る」という天啓を得て、ハッピーバースデーの歌に導かれて奮起する。このハッピーバースデーの曲は渡邊が第二の生を『生きる』ことを決意した象徴としてわかりやすくユニーク。
客の皆が急にちょうど良いタイミングで歌いだすので、ミュージカルめいた幻想的な雰囲気さえありますが、全く関係ない他の学生の誕生日を祝うための歌だと判明する種明かしも茶目っ気があります。
なので、これからの後半はいよいよ渡邊が公園作りに邁進していく姿が感動的に描かれるんだろうなァ!とワクワクしていましたが、いきなり渡邊の遺影が映るので度肝を抜かれます。えっ…バッサリカット…!?まだ1時間もあるのに!?
ここからの第二部は、渡邊の通夜で上司や部下に家族が故人の思い出や急に公園作りに邁進した理由を好き勝手に推測して語っていく形になっているのです。
渡邊の最期の仕事を勝手に自分の手柄にしたり、渡邊の行動自体を腐す上司は腹立たしいし、そんな上司たちを黙らせる市民たちの感謝の焼香は感動的。 渡邊不在の状況の中、会話劇だけで残りの1時間をダラダラせずまとめていく脚本の秀逸さにやはり唸らせられます。
ハッピーバースデーからの死というこの思い切った二部構成だけでも面白いんですけど、ハッピーバースデー後の渡邊の描写をバッサリ切ったことで、死に臨む渡邊の心境が全くわからなくなってしまったことが凄いんですよね。
彼がどのような気持ちで周囲の反発やヤクザからの脅しにも屈せず公園を作り遂げたのかは、親族や部下たちの推測でしか語られません。
一応、渡邊の机の中にだいぶ昔に書いたであろう改革案の書類がみられる辺り、若い時は革新的だったけど、お役所仕事に流されて「ミイラ」になってしまったことは示唆されていましたが、それでも何故急に公園作りを思い立ったかは不透明なままなのです。
元部下の女の子の発言は間違いなく動機の一つではあります。しかし、肝心の彼女はこの通夜には参加していないのです。よしんば、参加していたとしてもただの元上司と部下の関係でしかない以上、彼女にだって渡邊の気持ちなんてわかるわけがないという。
渡邊があの発言後にどのように気持ちを変え、公園作りに生きる意味を見出したのかは、観客の目線からしても完璧にはわかりません。
この敢えて伏せる作りで、物語のラストまで興味を持続させ、そして明かされないまま終わることで渡邊勘治という男の人生は「聖域」そのものとなるのです。
部下たちは渡邊の最期を「生きながら死ぬより、死に臨んで生きることを全うすることが重要だ」と解釈し、奮起を促します。
しかし、仕事に戻った翌日には既にお役所仕事に流されていて、実践できないまま終わってしまう。死に臨んだ人間の気持ちなんて、結局自分も死に臨まなきゃわからないのです。
巨匠黒澤のこの不器用な人間を賛歌するシニカルな目線に、やはり最後まで「ぐぬぬ」と唸ってしまいました。
志村喬の目とゴンドラの唄
この2点が素晴らしいです。イギリス作品よりオリジナルの方が良いという意見が多いのもうなづけます。黒澤監督のこだわりも凄いと思いました。
渡辺課長の葛藤が白黒の明暗の中にくっきりと浮かび上がっていました。
ジャングルジム越しのブランコの構図も素敵でした。
辞めた女性と喫茶店で話し、ぎらついた目で畳みかけた後に、やるべき事に気が付いて、晴れやかな顔で階段を降りながら、偶然ハッピーバースデーの合唱に見送られるシーンが良かったです。
ここから、お通夜のシーンはとても引き込まれまて観ました。
私はこの時代の映画をほとんど観たことが無かったので、終戦から7年しか経っていない盛り場があんなに華やかで活気があるとは知りませんでした。ナイトクラブもお洒落で、戦後急速にアメリカナイズされたとはいえ、音楽等のセンスはそんなに簡単に身につくものではないから、きっと戦前からすでに下地はあったのでしょう。戦争が無かったら日本はどれだけ豊かだったでしょうか。
ケーキが綺麗で美味しそうでした。丁寧な仕事ぶりです。それと、うさぎのおもちゃが可愛い。さすがmade in Japanです。
死ぬまで「生きる」ということ
「生きる」
1952年公開。
監督:黒澤明。
生きるということは、死ぬまでは生きる。
そういうこと。
主人公の渡邊(志村喬)は30年間市役所に勤続する市民課長。
自分が胃癌で余命が半年程しかないことを悟る。
心は千々に乱れて、生きた心地がしない。
誠に往生際が悪いのだが、非常に人間的である。
若い市役所の女性職員のとよ(小田切みき)にしか本音も言えず、
彼女にケーキや汁粉、すき焼きを奢るのが唯一の息抜きで、
とよの生命力が心から羨ましい。
とよと過ごす時間が生き甲斐になる。
つらつら考えるに全く無為な市役所での30年間勤務。
心には虚しさしかない。
渡邊の後悔の思いは映画の1時間22分まで続きます。
そして小田切みきにハッパをかけられて一つの仕事を成し遂げてから
死のうと決意するのです。
近隣の主婦たちの以前からの陳情。
汚水の溜まる空き地を子供達の遊び場に再開発する。
主婦たちの陳情は、役所で10回以上盥回しにされます。
公園課→いや土木科へ→嫌、衛生課→会計課→造園課→またしても土木課、
全く埒が開かない。
そして遂に渡邊は死を賭して駆け回るのです。
一番の反対勢力は小狡い助役(中村伸郎)
ともかく粘る、諦めない。
「まぁ、そこをなんとか・・・」
「どうかご一考を・・・」
相手が根負けするまで、頼み倒す。
後半は意外や、渡邊が公園建設を決意した所で、突然通夜の場面に変わる。
5ヶ月後、渡邊課長は死亡して
通夜の席です。
そして公園建設は誰の功績なのか職員たちは口々に話し始めます。
そして回想映像が交互に挟まれて、渡邊が胃の痛みを堪えつつ、
各課に掛け合う様子や、現地見学、そして大掛かりな造成工事が始まる。
ダンプカー、コンクリートミキサー、
ぬかるみに砂が撒かれ、徐々に遊具が備えられ、
公園は形を成して行く。
見守る主婦や子供たち。
公園は着々と仕上がって行きます。
「生きる」と言えば志村喬の歌う「ゴンドラの唄」
“命短かし恋せよ乙女“
“紅き唇 あせぬ間に“
“熱き血潮の 冷えぬ間に“
“明日の月日は ないものを“
感動的なラストかと思うと、
市役所の事務室では、少しも変わらずに、部署へのたらい回しが
行われている。
あくまでも役所の官僚主義を皮肉り、
職員の「事なかれ主義」を皮肉る、
リアリズム映画でしたが、
「ゴンドラの唄」の余韻はリリシズムに満ちていました。
ビル・ナイの主演でリメイクされたそうです。
どんな「生きる」なのか、楽しみです。
池袋文芸坐でリバイバル鑑賞
私が若い時に池袋文芸坐で観ました。黒澤明監督全作品をリバイバル上映企画です。
そして今、リメイク上映とのことで本作を見直しています。
私が加齢と共に主人公の年齢に近づいたことにより…以前との印象が変わりました。結末より中盤の作り込みに心打たれました。
今、若い皆さんも高齢になられてからご覧なって下さい。きっと印象が変わります。
余談ですが、若い時は『用心棒』が大好きでしたが今は『椿三十郎』を推します。これも印象の変化ですね。
一言「今を生きよう」
印象的だったシーン。
職場では、書類に埋もれて決裁印を黙々と押しているだけ。
家に帰ると、妻に先立たれて部屋はガラんと何もない。
主人公の居場所は、一体どこなんだ?。
話の展開も面白い。
主人公の結末が、もう途中で描かれてます。まだ時間あるけどって。
挿入されていくシーンから、周囲はどう主人公のことを思うのか。
そう持ってくるか、黒澤監督!。
志村喬さんの、最初はしょぼくれた初老の表情が。
どう変わっていくのか。最後の仕事、そのために。
2時間20分ほどがあっという間。今見ても遜色ない内容でしたよ。
⭐️今日のマーカーワード⭐️
「やればできる。やる気になれば」
70年前の話なのに
「死んでないだけで生きてるとはいえない」
そうなったのが自分のせいでなくても、
大切なことだけを見つめて、憎む暇なんかないと突き進めるか。
公務員の働く世界では今も通用してしまうセリフの数々。
何もしないことが現在の地位を守るのにベストというのはどうなんだと思う。
でも、自分があの通夜の場にいたら、心から主人公を悼み、一人で彼の尊厳を守ろうとする木村さんになれるだろうか。
渡辺課長のように、残り少ない生を突きつけられ、
独りで、生を求めて、正直に、貪欲に、ただ真っ直ぐに、突き進めるだろうか。
ヤクザに凄まれても、上司に圧をかけられても、同僚や自分より地位の低い人に迷惑がられ見下されても、愚直に目的に邁進できるか…
幸せってなんなのか、
働くとは、
家族とは、
色々なことを考えさせ、学ばせてくれる映画。
本作の息子・光男は愚かだし、嫁はクズだし、息子夫婦があんなんじゃなければね…
息子の父への厳しさは嫁に引きずられたものに感じた。
優しい嫁なら病を打ち明けられ、残された日々を親子で愛おしく慈しめたのだろうに。
家という容れ物に心通い合う人がいないから、仕事に邁進して、夕陽に見とれた束の間、独りで美しさをかみしめるしかなく…
「変わったこと」を面白がったり嘲ったりする部下や同僚ばかりなのも、それまでみいらのごとく過ごした主人公自身にも原因があるとはいえ、
体調不良なことは近くにいればわかるでしょうに…
志村喬さんは寅さんの博の父役でもとても良い演技されてます。
戦後5~6年で、誰もが生き生きと生きていけるものなのか?
昔の邦画によくあるのが男性の声によるナレーションだ。客観的な印象を与える全知の語り手のような、または観客が感情移入しないように茶化す狂言回しのようなそんな感じの話し方。映画冒頭にいきなり映し出される胃のレントゲン写真と共に流れるナレーションはそのどちらの役割も持っている。そして映画の途中で主人公は死んでしまって翌日の通夜場面。この構成は凄いと思った。通夜では遺族や市役所の役人達や「偉い」助役が主人公について語る。それは「藪の中」であり「羅生門」のようだ。何が真実かわからない。でも公園作ってくれ!のお母さん達、最後を見ていたお巡りさんが弔問に来ることで温かみを纏った真実が顔を出す。でも役所は変わらない。
「生きる Living」を見て黒澤版も見なくてはと思って見た。見て良かった。黒澤版では主人公がかなり若い頃に妻を亡くし再婚話も断り男手一つで(女中さんも居ただろうが)息子を育て(野球少年の息子、盲腸になった息子・・・可愛い)、そして息子の出征を見送る場面も描かれていた。敷き布団の下にズボンを置いて明日の為にしわ延ばしをする、そんな時代背景含めて父子の関係がよくわかった。一方で、部下の女性の再就職先がぬいぐるみを作る工場であることも大事な展開だと思った。何か具体的なこと、誰かをニコニコさせてあったかい気持ちにさせるような何かを作ることに思い至る。それ位大きな動機だから"Happy Birthday!"、志村喬は動き始める。
この黒澤版を見たからカズオ・イシグロの脚本はいいと思った。美しい春の中、希望と笑顔で未来へ向かう若い登場人物を設定してくれた。
おまけ
黒澤映画の常連含めて知ってる役者さんが沢山出ていた。一番びっくりしたのは左卜全、若い!あとわかったのは、木村功(良心的若い医師)、藤原釜足、千秋実、中村伸郎(助役)、加東大介(ヤクザ役!)、伊藤雄之助(小説家)、丹阿弥谷津子(バーのマダム)、菅井きん(公園作り陳情の一人でいつも赤ちゃんをおんぶしてる)、浦辺粂子(志村喬の兄嫁)。
生まれ変わった気持ちになる!!
ミイラのように働いてきた人間が胃癌になり
余命幾ばくもないことを知ったことにより
死ぬまでにやりたいことを見い出したストーリーでした。
公園のブランコに揺られながら口ずさむ歌
ゴンドラの唄
亡くなった渡辺の帽子を拾って届けた警官が
葬儀に来て焼香したときの心境。
遺された家族が葬儀の途中で見つけたもの。
参列した人たちが彼がやり残したことに
生きることの歓びややり甲斐を感じる作品でした。
【”人生の価値とは何か。”重くて深いテーマを、官僚主義の縦割り組織が蔓延る市民の願いを盥回しにする役人の愚かしさと、余命幾許もない自らの生き方を悔いた主人公の崇高な行動を対比させるように描いた作品。】
ー 30年間近く無欠勤で働いてきた市役所の市民課長・渡辺(志村喬)が、胃癌に侵されている事を知り、深い絶望と孤独を感じつつ、生命力溢れる元同僚の若き娘と出会った事から市民の為に暗渠埋め立てと公園建設に奔走する。ー
■数十年振りに鑑賞し、印象的なシーンを記す。<Caution! 内容に触れています。>
1.渡辺が2シーンで歌う”ゴンドラの唄”
・最初は、居酒屋で出会った作家志望の男に連れられて歓楽街を自暴自棄で回っている時にバーで自らリクエストし、涙を流しながら唄う姿。
・二度目は、完成した公園で雪降る中、ブランコに乗って満足げな表情で唄う、余りに有名なシーン。
■見事なる対比である。
2.元同僚の若き娘と出会った時に、涙を流しながら血を吐くように呟いた言葉。
”私は、30年市役所で何をしていたのか・・。”
3.渡辺の通夜で、公園建設を嘆願していた女性達が多数訪れ涙を流すシーンと、その姿を見て愚かしき助役たち上役が居なくなった後に、下級官吏の男達が交わす会話。
そして、徐々に明らかになる公園建設の為にそれまで死んだようにハンコを押す毎日を過ごしていた渡辺が、奔走する姿が描かれるシーン。
部署の壁を乗り越え、助役に嘆願し、ヤクザの脅しにもめげずに病んだ身体を押して働く姿。
4.渡辺が夕焼けを見て”30年振りに見た・・。美しい”と呟くシーン。
<今作は、トルストイの”イワン・イリッチの死”が底本であるが、黒沢明監督が、大幅に改編したヒューマンドラマである。
私事で恐縮であるが、就職が決まった際に父から”観ておきなさい。”と言われた映画であるが、当時”イワン・イリッチの死”を読んでいた事と、社会組織を知らなかったので申し訳ないが余り記憶に残っていなかった。
が、あれから幾星霜。
私が仕事をする中で頻繁に言っている”個人の名を残す仕事ではなく、組織とそこで働く同僚のモチベ―ションを発展させる仕事をしよう。”という言葉がこの作品では見事に表現されており、父親の慧眼に感謝したい気持ちになった作品である。
渡辺を演じた、故志村喬さんが当時47歳であった事にも驚いたなあ。-
痛烈な役所批判。戯画的だけど当時からこのように見えていたんだなと。...
痛烈な役所批判。戯画的だけど当時からこのように見えていたんだなと。
役所の後輩?の女子と出掛けるシーン、マニック・ピクシー・ドリーム・ガール的でモヤる。ただそれがメインで展開されるわけではないのでまだよかったけど。
イギリス版では役所周りの描写とか後輩、周りの描き方、役所の人のあだ名、唄がどのようになるのかとても気になる。
何度観ても凄い映画と思う。
演出が、役者がいい。
キャメラのアングルがいい。
映画を観る上で、生きる上で、
避けて通れない深い映画。
初めてこの映画を見たときの衝撃は
意外な展開と主人公を取り巻く環境で
何もしなくても平穏である。
けれど、それでは証がない。
自分の生きた証は何なのか。
自分はいったい何者なのか。
本当にそれでいいのか。
どんどん彼を追い詰める。
悩み、道を外し、想う。
自分は誰の為にあるのか。
消え去るほど精彩のない男を
人の心に残る男に変えた。
それを観客に見せてくれる。
映画の製作者は観客に問う
生きている誰にでも共通する
「生きる」とはいったい何なのか。
何もしなくても生きている。
何かしても生きている。
残すか、残さないか。
深い物語である。
※
この春にはリメイクされた
「生きる LIVING」が公開される。
イギリス版も楽しみである。
※
残り少ない会社員生活
志村喬主演、無為に過ごしていた役人ががんで余命いくばくもなくなり、自分の生きる意味を問い、市民公園の整備に尽力する。
残り少なくなった会社員生活の中で、これから何ができるかとふと立ち止まって考えた時に思い出す。
全87件中、21~40件目を表示