生きる(1952)のレビュー・感想・評価
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音声が
1950年頃、市役所市民課課長渡辺は、勤務30年「忙しく退屈」に仕事をし、真面目で無気力な毎日を過ごしていた。そんなとき、自分が胃ガンであることを自覚する。彼は無断欠勤、知り合った作家と盛り場で放蕩、転職をしようとしていた部下の若いとよと出かけたりする。そして残りの時間で、自分ができることを。
ずいぶん前に観賞しましたが、音声がひどくて感動がそがれた思いがありました。今回は字幕で観賞、より深くしっかり感動できました。
そして最近イギリスのリメイク版「生きる LIVING」を観賞。文化の違いがわかりやすいです。当時の日本は、ガンの宣告が一般的では無かったですね。
序盤の市役所内でのたらいまわしのひどさや、病院で医者が待合室の患者と同じことを言うところは、黒澤明流のコメディのシーン。そして~命短し~と歌うところは、泣けてきます。
息子役は金子信雄だったのか、後の仁義なき戦いシリーズとは随分イメージが違います。今作の多くの俳優が、2年後の「七人の侍」に出演。合わせて観ると、また面白いと思います。
さすが、クロサワ。「生きる」という重いテーマが心に響く
全体のプロットがとてもうまくできていて、セリフやナレーション、場面展開もうまく最高級の脚本だと思った。特に後半の回想シーンで“生きる主人公”を描くところは、「いろいろな見方ができる」と観ている人に提示してから、「本当に生きるというのは、こうゆう姿を言うのではないか?」と考えさせるようになっていて、すごいと思う。
冒頭の「死んでいるも同然の主人公」の描き方、志村喬の力のない演技が上手かった。動かない役所という社会問題もリアリティをもって伝わってくる。「生きる」を伝えるために「死んでいる状態」を描いて、対比が際立つようになっている。
自分の運命を悟った主人公が、先ず享楽へ走るところも、きっかけに小説家を使う展開が自然でうまい。絶望した主人公が「楽しいことをしよう」というのはよくある展開だが、この『生きる』がその元祖なのかもしれないと思った。
主人公がこころを入れ替える場面もよくできていた。「活力にあふれ、まさに生きている若い女性」からヒントをもらうのだが、そのヒントが「なるほど。確かにそうだ」と思えるヒントで説得力があった。主人公が生きるという意味を必死に求めて、女性に顔を近づけつつ強い気持ちを訴える演出も良かった。
この映画のラスボスは、役所のトップの助役だろう。公園を実現するための最大の壁。門前払いのような扱いを受け、助役が他の客と雑談を始める場面は、こう言われたらであきらめない人はいないだろうと思わせる。それでも、低姿勢でありながら鬼気せまる表情で「・・是非・・もう一度ご一考を」と迫る。今は怖いものがない。ここで諦めたら、自分が生きた意味がなくなるという強い思いが普通はできないことをさせる。迫力があり、こころに響く場面だった。
さすが黒澤明
そりゃ既視感あるわな
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市役所の課長が、無気力で無為な人生を送ってた。
そんなある日、胃がんであることが発覚する。
しばし会社を休み、元部下の女の子と親しくなった。
その子は役所をやめて製造業につき、生き甲斐を感じてた。
その影響で、課長は職場復帰後、公園の建設に尽力する。
主婦が役所に提案し、たらい回しにされてた案件だった。
なお尽力する場面は直接は描かれず、課長はガンで死ぬ。
その後に関係者が思い出して語るような形で描写される。
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古過ぎる映画は見にくいな。どうも音声のバランスが悪い。
よく聞こえないので、TVの音量を大きくせざるを得ない。
すると大声やBGMが異常にうるさく、結構ストレスになる。
見始めて10分、何この既視感?って思ったんよな。
これ、去年映画館で見て、寝てもた同名映画と同じやん。
あれはこの作品をもとに、作られた海外作品やったんやな。
今回は寝ることはなかったが、やっぱりよく分からんかった。
っていうか音の問題があってあまり集中できてなかった感じ。
生きた屍のようだ
素晴しい
黒澤明監督の最高傑作のひとつ
初見は1980年3月9日、銀座・並木座で鑑賞。(2本立て)
その後も、映画館・VHS・DVD繰り返し観ている。
「生きる」は、黒澤明監督の最高傑作のひとつである。
物語は、ある男の「胃のレントゲン写真」から始まる。その男=渡辺勘治(志村喬)は市役所の課長をしているが、生きながら死んでいるような覇気がまったく無い。その彼が、医者に行くが、そこで他の患者(渡辺篤)から「軽い胃潰瘍です、と言われたら、そりゃ胃ガンだね」と勘治の診察前に話すが、果たして勘治の診察結果は「軽い胃潰瘍です」と医者から言われる。この場面、映画館(並木座)で観ていた観客は、爆笑🤣
のどかに皆で映画を普通に楽しんでいた。
余命短いことを知った渡辺勘治は、それからというもの生き返ったように行動力を発揮する。歓楽街に行ったり、小田切みきと一緒に過ごしたり、そして、市民のためになるようにと公演をつくることを生前最後の仕事として貫く。その姿は胸をうつ。
この映画できわめてインパクト強い場面が、映画途中で「渡辺勘治が死んでしまうこと」であり、主人公を映画半ばで死なせてしまう黒澤明の映画の作り方に感動した。
そして、後半は「死んだ渡辺勘治の通夜に集まった人々による追想」によって、渡辺勘治を描くという素晴らしい展開。
その追想場面の中でも、やはり「自分がつくりあげた公演のブランコで『ゴンドラの唄』を歌う渡辺勘治」が印象的である。
志村喬は、この映画と『七人の侍』は、甲乙つけ難い名演。
大好きな映画。
黒澤明監督 やはり名作 94点
個人的には「噛み合わず」、
個人的には「そこまでいいものだったかなあ」と。
古い映画ということもあり、全体的にセリフの音声がくぐもって低かったりボソボソ話してたり、声が割れてるかんじもあって聞こえづらかった、というか、8割くらい聞きとれなかった。
音量をあげればいきなり怒鳴り声になったり騒音になったり、小さくすればそんなボソボソなかんじで、見にくかった。
それでも高い評価のこの映画、なんとかがんばって見てみた。
中盤までの騒がしいくだりとか女性とのデートの部分も、話はわからんではないけど「んー、それでどーなるの?、残りの人生で盛り上がっていくんじゃないの?」って変に自分が期待してたからか、中だるみはしちゃったかな。。。
後半までそんなかんじで、いよいよ開き直って割り切って残りの人生を、と思いきや、そこで亡くなってしまいあれやこれやという回想の展開。
「あー、そういうことか」と思うも、あとは男連中が事後談義だけで「その顛末」を聞かされるかんじだったから、気持ちも入り込めないまま、その本人は亡くなってるし、で、なんか自分と噛み合わなかった。
終盤は、その事後談義も男連中の酔っ払いながらの侃侃諤諤の議論の流れ。
そのよさはわからんでもない、まだ話がわかるだけよかった、でも、正直、「そこまでいい」とは思えなかった。
ところで、その主人公の人が時に本田圭佑にも見えたり。
真の行政の姿とは‼️❓死に向き合う姿とは❓‼️
テレビの録画📺
想像していたより風刺色が強く、けたたましい音響と白黒の画面から陰惨な想いが駆け抜ける。
実は、真の行政機関の姿は、ミイラでは無く、亡者が支配しているのだ、古今東西。
映画は最下層の管理職の姿なので、さもありなん、でも、上へ行くほど権力欲の塊で、税金の無駄遣いどころか権力者の権威を保つものに過ぎない、最近ではコロナのばら撒き、万博、国、地方を問わず。
余談は置いといて、この映画の主人公は、生きる証として、人のためになる後世に残るものを最後の生き方とした、いろんな享楽は病にはてる者には何の意味もない、元気なうちには気づかない、因果なものだ。
主人公のように生きてるうちに証を残せたのは、なんとも果報者と言えるのかもしれない。
リメイクに比べてオリジナルは極めて残酷な視点であり、人生の悲哀をより感じさせる。
黒澤明の視点は冷酷で暖かい哲学なのかもしれない、娯楽ではなく、人生の指針を示す。
死に至る病の臥せる前に、より、形に残る、多くの人のための、仕事を、ささやかでも、したい、そう思わせられた、ありがとうございました😭
やっぱり名作
以前DVDで観て、今日NHKの地上波で放映していたので観ましたがやっぱりいいですね。
お葬式のシーンは『北の国から』の、杵次(大友柳太朗)のお葬式のシーンの参考にしたのかな?的な、黒澤監督の映画は世界中の映画監督のお手本になっていて本当に上手いと思います。
残酷‼️
黒澤明監督は私が世界で一番好きな映画監督です‼️それでこの「生きる」という作品‼️世間では「七人の侍」と並ぶ黒澤明監督の最高傑作と位置づけられていますが、私的にはチョット違う‼️確かにヒューマンドラマとして名作だとは思うけど・・・。ある市役所の課長が癌で余命いくばくもないことを知り、後回しにしていた住民からの要望である、公園作りに全力を傾ける・・・‼️途中で主人公が亡くなり、回想形式に切り替わるのは面白いと思います‼️フツーの時間軸で展開していたら、さぞつまらなくなっていたでしょう‼️そして絶賛されている志村喬さんの演技‼️まるで死神が取り憑いたような演技で、この演技が映画全体の印象を決定づけている‼️ブランコで唄う雪のシーンは良かったと思うのですが、この作品の志村喬さんだったら、周りの人間もひょっとしたら長くないんじゃないか?と予感させてしまう‼️それじゃダメなんじゃないでしょうか⁉️そういう死期が近いことを思わせないような演技じゃないと‼️私が天邪鬼のせいかもしれませんが、この作品の志村喬さんの演技はどうも好きになれない‼️そして官僚主義や反体制を批判したテーマも残酷で、ラストを観ていると結局一人の人間(課長)がいくら頑張ったところで何も変わらないと痛感させられる‼️あまりにも残酷で、私的には多くを語る気にはなれない作品‼️甘いかもしれませんが「赤ひげ」の清々しいヒューマニズムの方が私的には大好きです‼️
ちなみに生前、黒澤明監督はこの「生きる」の事を、「あまり語る気になれない作品だ」と語っておられたらしいです‼️そしてNHKの企画「黒澤明が選ぶ世界の名画100本」では自作では今作ではなく「赤ひげ」が選ばれてました‼️
ストレートなタイトルに心を惹かれた。 主人公のうじうじした話し方や...
こうして、日本型村社会がアメリカンドリームを謳歌し始める
民主主義に於いて行政は、国民の為に存在する。
1952年に『20年間男やもめ』って事は、
1932年から役人をやっている事になる。つまり、戦前から役人をやっていた訳で、行政の機関の一員と言うよりも、官僚なのではないだろうか?もっとも、地方公務員は官僚とは言わない。しかし、映画の中ではこの人物の詳細は説明されていない。従って、戦後民主主義が謳歌され始めた時期の官僚に対してのアイロニーな出鱈目なお話と思うべきだ。
この主人公の心の動きを見ても、奇々怪々でわけわからない。亡父曰く。『貧困層はこんな生活感持っていなかった』付け加えて『役人はアプレガールとは遊ばないぞ』って怒っていた。
僕が知る限り、役人は威張っていた。それがDNAと化して、日本型の終身雇用までも否定される原因になってしまう。
『たとえ役人と言えど、能力を発揮しなければ駄目だ』ってね。
そして、それが民間会社に゙伝承し、能力主義が育つ。
よくよく考えてみれば、自分の命を犠牲にしてつまらない公園を作ったに過ぎない。
って考えたら、ブラック企業の『さきがけ』に見えるが。
因みに、小田切ミキさん演じる娘さんは我が亡父と同い年で、アプレガールではない。
いつポックリいくか
日本にとって近代とは何か
システム的近代社会においてロボット化した人間が、死に際して個としての生命を初めて?あらためて?生き始める。大正から戦後を生きた人間の個人史であるが、この主人公は日本の近代化の歴史を象徴する存在でもある。
葬儀の場面で各人が回顧し、無口で謎の人物であった主人公が、一人の人間として像を結んでいくのが印象的。生と死がせめぎ合ううねりのような構造である。
胃のレントゲン写真から始まるのがよい。これにみんなー胃の持ち主も翻弄され世界が転がっていく。
音楽の使い方が面白い。『命短し恋せよ乙女』もそうだが、『ハッピーバースデー』がぐっと来る。直接的といえば直接的なのだが。
ミイラ?キリスト?意志をもって生きる!
やる気になれば人生が変わる
人間への信頼
死の宣告を通して、平凡な(死んだように生きていた)人間が愛の行為者に変身する姿を、切実に丹念に描いた名作中の名作。
人間としてどう生きるか?生をどう受け止めるか?尊厳を賭けた人生とは?
それは愛の行為者として、自らの生を地上の愛として根付かせることだ。
こういう作品は突然生まれるわけではなく、その時代に“生まれるべくして生まれる”ような宿命を感じる。
戦争の惨禍を受け、罪なき罰の犠牲者となった日本の庶民。その逆境を生きていかなければならない敗戦後のカオスの時代には、自由の名のもとに溢れ出す動物的な欲望と活力が旺盛であっただろう。
しかし、黒沢の視力は人間の善性と愛を見据えていた。動物的な欲望に打ち勝つだけの強い理性(善性と愛)を持っていなければ人間とはいえない。「死」をグッと引き寄せ、「生」とがっぷり四つに組んで、人間への信頼と希望を与えてくれた。
人物にたっぷり肉付けをして、その性格や表情やクセを綿密に詰め、それぞれの人物にあだ名をつけ、“名は体を表す”ようにそれぞれの存在感で見事に競演させた。
役所の閉塞感、とよの闊達さ、息子夫婦の冷たさ、歓楽街の騒がしさなどなど。緩急のリズムの面白さを味わっているうちに、徐々に深刻な段階へと進む、その堰を切ったような凄まじまさに度肝を抜かれる。
とよが靴下を受け取るとき、どうして私に?と問うたあと、素直に渡辺の親切に感謝するシーンが好き。奇妙なコンビの二人が、最初にクリアしなければいけない感情のやり取りだった。
自分のあだ名をミイラと言われたときは、これから殻を破るエネルギーをもらったようで、一緒に笑ってしまう渡辺。
映画が終わったあと、鑑賞者の魂も殻を突き破られ、震えるほど感動するのだ。
一人の男を「聖域」に導く驚愕の二部構成
雪の降る中、ブランコをこぐ志村喬があまりに有名な作品で、むしろ観る前までこのイメージ以外の内容を知らないくらいでした。
胃がんを宣告されて絶望していた男が、最期の最期に自分のやるべき使命として「公園を作る」ことを定めて奮起する単純な話でしたが、その物語の構成には心底あっけにとられ「この監督、天才では…?」となりました(天才です)。
死をテーマにした作品ですが、全体的な流れは妙にコミカル。
主人公の渡邊勘治が胃がんと宣告されるとこからして可笑しいですからね。まず待合室で他の患者が「胃がんは直接宣告されない。軽い胃潰瘍ですなと医者が言ったら間違いなく胃がん」と話すのを聞き、実際に医者がその患者と全く同じことを言って胃がんだと確信する流れは悲劇というよりは喜劇です。 そもそも冒頭から描かれるお役所仕事の様子なんかも、極端に積まれた書類やたらい回しのテンポの良さからコントじみてすらいます。
息子夫婦からも邪険にされるような状況で、志村喬の縮こまった背中や表情にこそ悲哀が溢れていますが、こうした笑いを交えているため必要以上に哀しい気持ちにはなりません。
むしろ、飲み屋で知り合った作家や部下の女の子に色々と遊び方を教わっていく姿はハッチャケてますし、同時に渡邊という男がこれまでどれだけ不器用に生きて流されてきたのかがハッキリしてきます。
そして、お役所仕事に飽き飽きして、おもちゃを作る会社に転職した元部下の女の子の「何かを作ってみれば」という何気ない一言で、渡邊は「死ぬ前に市民のために公園を作る」という天啓を得て、ハッピーバースデーの歌に導かれて奮起する。このハッピーバースデーの曲は渡邊が第二の生を『生きる』ことを決意した象徴としてわかりやすくユニーク。
客の皆が急にちょうど良いタイミングで歌いだすので、ミュージカルめいた幻想的な雰囲気さえありますが、全く関係ない他の学生の誕生日を祝うための歌だと判明する種明かしも茶目っ気があります。
なので、これからの後半はいよいよ渡邊が公園作りに邁進していく姿が感動的に描かれるんだろうなァ!とワクワクしていましたが、いきなり渡邊の遺影が映るので度肝を抜かれます。えっ…バッサリカット…!?まだ1時間もあるのに!?
ここからの第二部は、渡邊の通夜で上司や部下に家族が故人の思い出や急に公園作りに邁進した理由を好き勝手に推測して語っていく形になっているのです。
渡邊の最期の仕事を勝手に自分の手柄にしたり、渡邊の行動自体を腐す上司は腹立たしいし、そんな上司たちを黙らせる市民たちの感謝の焼香は感動的。 渡邊不在の状況の中、会話劇だけで残りの1時間をダラダラせずまとめていく脚本の秀逸さにやはり唸らせられます。
ハッピーバースデーからの死というこの思い切った二部構成だけでも面白いんですけど、ハッピーバースデー後の渡邊の描写をバッサリ切ったことで、死に臨む渡邊の心境が全くわからなくなってしまったことが凄いんですよね。
彼がどのような気持ちで周囲の反発やヤクザからの脅しにも屈せず公園を作り遂げたのかは、親族や部下たちの推測でしか語られません。
一応、渡邊の机の中にだいぶ昔に書いたであろう改革案の書類がみられる辺り、若い時は革新的だったけど、お役所仕事に流されて「ミイラ」になってしまったことは示唆されていましたが、それでも何故急に公園作りを思い立ったかは不透明なままなのです。
元部下の女の子の発言は間違いなく動機の一つではあります。しかし、肝心の彼女はこの通夜には参加していないのです。よしんば、参加していたとしてもただの元上司と部下の関係でしかない以上、彼女にだって渡邊の気持ちなんてわかるわけがないという。
渡邊があの発言後にどのように気持ちを変え、公園作りに生きる意味を見出したのかは、観客の目線からしても完璧にはわかりません。
この敢えて伏せる作りで、物語のラストまで興味を持続させ、そして明かされないまま終わることで渡邊勘治という男の人生は「聖域」そのものとなるのです。
部下たちは渡邊の最期を「生きながら死ぬより、死に臨んで生きることを全うすることが重要だ」と解釈し、奮起を促します。
しかし、仕事に戻った翌日には既にお役所仕事に流されていて、実践できないまま終わってしまう。死に臨んだ人間の気持ちなんて、結局自分も死に臨まなきゃわからないのです。
巨匠黒澤のこの不器用な人間を賛歌するシニカルな目線に、やはり最後まで「ぐぬぬ」と唸ってしまいました。
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