「ここからすべては始まった。黒澤明の『用心棒』を元にしたマカロニ・ウェスタンの嚆矢!」荒野の用心棒 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
ここからすべては始まった。黒澤明の『用心棒』を元にしたマカロニ・ウェスタンの嚆矢!
去年のロードショーのときに観損ねて、
早稲田松竹での再映のときも時間がとれず、
ようやく池袋文芸坐で『荒野の用心棒』を観ることができた。
これまで、何度もVHSやDVDでは観直してきた大好きな映画だが、やはり大画面で観る迫力は段違いに違う(特に文芸坐はスクリーンが大きいからね)。
しかも4Kリマスター。なんていい色! なんていい音!
これで、早稲田松竹で観た『夕陽のガンマン』『続・夕陽のガンマン』と合わせて、ドル三部作はすべて劇場のスクリーンで観たことになる。
ある意味、長年の宿願がようやく叶ったわけだ。
観客席には、それなりに若い子たちもいて、映画が終わったあとで劇場内を見まわしたら、皆さん充足感に満ち溢れた「キラキラ」した顔をしておられた。実にいいことだ。
きっと、出川の電動バイク番組や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の元ネタを観られて、さぞすっきりしたことだろうと思う。
それと、観終わったあとのオジサンたちの挙動が違う。立ち上がるときの立ち方とか歩いていく表情とかが、微妙にカッコつけてるわけ(笑)。
きっと頭のなかでは、モリコーネ・ミュージックが鳴り響いているに違いない。
レオーネを観て不満に思う客なんてそうそういないはず。人生で30年近くにわたって布教に努めてきたが、観て「退屈した」という人間に出会ったことがない。
逆に言えば、レオーネを体験せずに、娯楽映画を語るなんてありえない。
そう思うくらいに、僕はレオーネの映画が好きだ。
― ― ― ―
『荒野の用心棒』は、セルジオ・レオーネの西部劇第一作であると同時に、マカロニ・ウェスタンの最初期の一本でもある。実際には数本の先例やドイツ製ウェスタンもあるのだが、実質、本作の世界的ヒットを受けてマカロニ・ウェスタンの大量生産が始まったわけで、これがなければ、その後のマカロニ旋風も生じなかった。まさに歴史の画期となった一本である。このあと、レオーネは立て続けに2本、クリント・イーストウッド主演で同じフォーマットの西部劇を撮ることになる。人呼んで「ドル三部作」。
その魅力については、『夕陽のガンマン』と『続・夕陽のガンマン』の感想でもうさんざん書いたので、ここであまり書き加えるべきことがない。
(ご興味のある向きはぜひ、そちらをご参照ください。)
まあ『荒野の用心棒』は、まだ新人だった監督のお試し企画であり、イタリアという国のお国柄もあって、やってることはいろいろといい加減だ(笑)。
俳優は、当時はまだテレビ俳優だったクリント・イーストウッドと、あとは多国籍軍の寄せ集め。クレジットで流す氏名は、アメリカ人俳優以外はだいたい偽名。録音は、全員が適当に母国語でしゃべりながら撮って、あとから各国用に吹き替えている。
なにより、ネタとストーリー自体、黒澤明の『用心棒』からほぼそのまんまいただいている。
日本の東宝には使用許可申請を出していたらしいが、返事もないまま握りつぶされたので、無許可のままつくったら、後から黒澤らに訴えられて敗訴した(そりゃそうだ、笑)。
一応、これで東宝および黒澤は、本作のアジア興行権と10万ドルと全世界興収の15%を手に入れたので、決して損はしていないどころか、結果的に大儲けしている(『用心棒』より儲かったらしい。今やってるリヴァイヴァル上映でも、ちゃんと東宝とか黒澤家にここで決められたお金って入ってきてるんだろうか??)
でもね、本当に面白いのだ。この映画。
なんなら言いにくいけど、本家の『用心棒』より面白い。
(逆のことを言う人も多いけど、個人的にはそう思ってる。)
なんたって、筋は一緒でも、こちらはバリバリの娯楽ウェスタン。
ネタ感満載のガンファイトと、手に汗握る拷問シーンがあるからね!!
そして、なんといってもクリント・イーストウッドがとにかくかっこいい!!!
重要なのは、ドル三部作は『荒野の用心棒』の段階で、様式美としてはすでにほぼ「完成の域」に達していたことだ。
すなわち、『荒野の用心棒』は単体として、『夕陽のガンマン』や『続・夕陽のガンマン』に劣る作品ではない。これはこれで、完璧な娯楽作品である。
有体に言うと、『夕陽のガンマン』は『荒野の用心棒』のヒーロー・サイドを1号&2号ライダーに増員して物語を多層化させたものであり、『続・夕陽のガンマン』はヒーローを三つ巴にしたうえ、さらにそこに「戦争」という要素を加味して、善と悪、個と全の境界を複雑化させたものだ。
むしろ『荒野の用心棒』には、シンプルなプロトタイプとして、「レオーネが目指したかった西部劇」の粋の部分が、最も如実に表れているといってもいい。
一番注目すべきは、アメリカ西部劇の「娯楽映画としての魅力」をイタリア人(異邦人)の視線から抽出し、ジャンルの「かっこよさ」を純化させた、その手腕にこそある。
極端なクローズアップと、雄大なロングショットの対比。
(峡谷を駆け上がって先回りするジョーの血沸き肉躍るショット!)
ぎらぎらとした汗と誇りと血で汚れた顔(さすがはネオ・リアリズモの国!)。
マッチの擦り方や立ち方、撃ち方、すべてにわたる所作への異様なこだわり。
神がかり的にかっこいい音楽の用い方(さすがはオペラの国!)。
これらは、すべて「もともとアメリカの西部劇にあったもの」だが、それをレオーネが新たに見出して、極端に拡張/肥大/純化させたものだ。
この作業は、まさに日本人が本格ミステリを受容する際に行った営為にも似ている。
アメリカのエドガー・アラン・ポーによって創始された「謎解きミステリ」は、19世紀末~20世紀初頭にかけてのイギリスで、コナン・ドイルやオースティン・フリーマンを通じて発展を見せ、アガサ・クリスティやF・W・クロフツの登場で最盛期を迎えた。
これを賞賛と羨望の眼差しをもって受容し、「パズラーとしてさらに純化させた」のがアメリカのS・S・ヴァン・ダインとエラリイ・クイーン、そしてアメリカからイギリスに渡ったジョン・ディクスン・カーだ。
で、それらの海外本格ミステリに憧れ、嫉妬し、自分たちでも日本らしい本格ミステリを作らなければ、と情熱を燃やしたのが、江戸川乱歩、横溝正史、高木彬光、鮎川哲也といった世代のミステリ作家たちだった。彼らは、本格ミステリのなかの「トリック」「ロジック」「フーダニット」といったパズラー的要素に集中して、独自の美意識をもって日本人なりの本格ミステリを練り上げていった。
ここで脱線してまで何を言いたかったかというと、
「とあるジャンルの真の面白さは、国をまたがって受容されてこそ純化される」
という真理を言いたかったわけだ。
本格ミステリで起きたキャッチボールによる「パズラーの純化」と同じことが、ここでは、アメリカ、日本、イタリアのあいだで起きている。
とある国の「お家芸」を、別の国の「異邦人の視点」で分析・解釈・再構築するからこそ、魅力の核心が浮き彫りとなり、特性の本質が抽出される。
あたかも、どぶろくが精製されて蒸留酒になるように、そのジャンルのもつ世界共通のスピリットが引き出され、各国の伝統的な映画や文芸に接ぎ木されてゆく。
これこそが、アメリカ西部劇と、黒澤時代劇と、マカロニ・ウェスタンのあいだで起きた「ケミストリー」だ。
日本人は、特にこの「舶来物の異化作業」が得意な国民だといえる。
ラーメン、カレー、洋食、ソフト系パンといった食文化、半導体や家電、洋式トイレといったテクノロジー、交通網や学校教育といった制度設営、あるいは遡れば中国由来の水墨やら仏教まで、ありとあらゆる「舶来物」の本質をきわめて、純化させ、独自の技術へと進化させてきた。本格ミステリもまた然り。
僕は20世紀半ばのイタリア映画にも、似たような「再構築」の能力を強く感じる。
ジョン・フォード、黒澤明、セルジオ・レオーネといった巨匠が、お互いに影響を与え合って、「マカロニ・ウェスタン」という「娯楽西部劇の濃縮液」のような過激なエンタメを誕生させ、さらにはそれが今度は日本の「必殺」シリーズや「荒野の素浪人」へとまるっと還元されてゆく……。なんて美しい話だろうか。
以下、雑感。
●この映画って、主演に最初、ヘンリー・フォンダを招聘しようとして失敗し、そのあとチャールズ・ブロンソンにも、ジェームズ・コバーンにも断られてるんだよね。彼らが断ってくれなかったら、クリント・イーストウッドは今のようなスターダムにはのし上がれなかったし、あの「名無し」のキャラクターも生まれなかったわけで、逆に断ってくれて良かったくらいのものだ(ポンチョや帽子もイーストウッドが自分で買って行ったものらしいので、彼でなければあの恰好にもなっていなかった可能性がある)。
ちなみにこの3人はいずれも、のちにセルジオ・レオーネの映画で主演級の役を得ることになる。あとあと、逃した魚は大きかったと思ったんだろうなあ、きっと(笑)。
●三部作のなかでは一番最初ということもあって、クリント・イーストウッドに『夕陽のガンマン』『続・夕陽のガンマン』ほどの「無敵感」がないのが、逆に本作の「見どころ」のひとつと言っていいかもしれない。
上から見下ろすような感じでいろいろと策謀を練って、街の悪玉一家×2を抗争へと仕向けていくのだが、今回のイーストウッドは結果的にそこそこ失敗もするし、どちゃくそ拷問されるし、仲間にも相応の負担をかける。
彼としては、保安官一家の凄絶な鏖殺劇(皆殺し)も、望んだ結果ではなかっただろう。
イーストウッド側が痛手を受けるぶん、ラストでロホ一味を一網打尽にするカタルシスも、それだけ大きいということになる。
●ひたすらろくでなしで、残忍極まりないジャン・マリア・ヴォロンテのラモン・ロホ(『用心棒』における仲代達矢ですね)は、三部作のなかでは、いちばん「悪役らしい悪役」の役割を果たしているといえる。
周辺をグロテスクな面相のスペイン系俳優で固めるやり口も、マカロニ・ウェスタンの個性としてその後の作品に引き継がれた。僕は、この「奇顔の収集」がイタリアにおいてレオナルド・ダ・ヴィンチにまでさかのぼり得る「グロテスクな面相研究」の美術史的系譜に連なっていると、半ば本気で信じている。
とくにドン・ミゲル・ロホを演じたアントニオ・プリエト・プエルトの顔面インパクトは強烈だ。ちなみにWikiでは、チリ人の歌手アントニオ・プリエートに紐づけられていて、かつそちらに「ドン・ミゲル役を演じた」とわざわざ書かれているが大嘘で、同姓同名のまったくの別人である。
●クリント・イーストウッドの拷問シーンと、その後の傷跡の特殊メイクは、さながらルチオ・フルチ映画でも観ているかのよう。あと、弟のエステバンが、拷問や人殺しのあいだずっと哄笑しているのも結構不気味で印象に残る。
こういう「やりすぎ」の要素(青緑色をしているメキシコ兵の死体とか、脱出するシーンでなぜか爆裂する酒樽のあり得なさとか、自分で煙幕張って出てくる戦隊ヒーローみたいなラストの登場シーンとか)を「クッソ面白い」と思えるか、「くだらない」と思ってしまうかで、マカロニの評価は大きく変わって来るだろう。もちろん、僕はすべてが大好きだ。
●ピストルとライフルに関する性能差に関する会話がラストで生かされたり、途中でバクスター夫人がラモンにかけた「血を吐いて死ね」という呪いがラストで結実したりと、意外に細かいところまで気を遣って作られている。
毎回「ママ~」と泣きわめきながら出てくる子供が猛烈にうざいとか、酒場のオヤジのセリフが説明的すぎるとか、ラストで一度でもヘッドショットされたらどうするんだとか、文句もないことはないが、総じてよく出来た話だと思う。
●でも、発表された当時、何が観客にいちばん巨大なインパクトを与えたかというと、それは撮影技術でも、ストーリーでもなく、エンニオ・モリコーネの音楽だったのではないか。
それくらい、この映画における音楽の魅力と、場面場面での支配力は際立っている。
ここから、モリコーネの神話もまた始まったのだ。