「ナポリ湾を望む岬の奇妙な別荘で展開する、ゴダール流「蛙化現象」の物語。」軽蔑(1963) じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
ナポリ湾を望む岬の奇妙な別荘で展開する、ゴダール流「蛙化現象」の物語。
こんな建物ホントにあるの??
と思ったら、マジで実在するんだな。カプリ島のマラパルテ邸。
なにこれ。超かっこいい。
すげえ、観に行きてええ!!!!(いま入れないらしいけどw)
でも、あんだけ坂下らないとたどり着けなくて、建物から海岸までも行くのもあんなに階段下りないとたどり着けないとか、実はめちゃくちゃ不便な立地だよなあ。
なんか、ランドマークとしての「映え」に全ぶりしてるような、凄い建築物。
強烈な空想的概念だとか、見栄だとか、アイディアだとかに寄り切られて、そのまま作られちゃったみたいな狂ったお屋敷。
実際に別荘として来客を招いたりするには、かなり傍迷惑な建物だったのでは?
たぶん、これって男女の孤独と断絶とか、
夫婦という制度の本来的ないびつさとか、
一見美しくても機能性を喪った状態とか、
お互い近づけそうでいてすれ違う様とか、
そういう「夫婦関係」のメタファーとして、
舞台立てに用いられてるんだろうね。
ちょうど持ち主のクルツィオ・マラパルテが1958年に亡くなっていて、1963年4月のロケの際は空き家だったんだな。それでこれ幸いとロケ地に採用したと。
これって、原作でも出てくるのかな?
原作者のアルベルト・モラヴィアって、一時期、別荘の主人であるマラパルテに支援されてたみたいだけど。
実際には、この異様な別荘建築なしでは『軽蔑』という映画自体が成立し得ていなかったのではないか――、そう思わされるくらいのインパクトを残す、強烈なロケーションだ。
からっと晴れた青い空。風光明媚な崖地の海岸線。
岬の突端に向かって這うように伸びる奇矯な建築。
そこで展開される、壮絶な「愛の不毛と断絶」の物語。
ここから『気狂いピエロ』までは、あと一歩といっていい。
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『軽蔑』は、モラヴィアの原作に比較的忠実なつくりだというが、いくらどう考えても、妻であるアンナ・カリーナとの不和が直接的に影響を与えているのは明らかだ。
61年3月、アンナ・カリーナと結婚
64年、アヌーシュカ・フィルム設立(アンナ・アリーナと)
同年、『はなればなれに』完成(アンナ・カリーナ主演)
64年12月、アンナ・カリーナと離婚
65年8月、『気狂いピエロ』公開(アンナ・カリーナ主演)
ちょうど『軽蔑』は64年の4月~5月に撮られていて、その時期ゴダールとアンナ・カリーナの夫婦仲は急速に悪化していた。
ここで描かれているミシェル・ピコリとブリジット・バルドーが演じるポール&カミーユ夫妻の日常と、やがて(夫の側からすればかなり「唐突に」)巻き起こる家庭内の不和には、そのままふたりの関係性が投影されていると見ていい。
むしろ、かなり生々しく「ゴダールとアンナ・カリーナ間で実際にあった会話」や「実際にアンナ・カリーナが見せた行動」が取り入れられている可能性まである。要するに、この映画は原作付きでありながら、かなり「私小説的」な色彩を帯びているということだ。
作家とか監督というのは本当に因果な商売で、体験した不幸やいざこざまで飯の種になってしまう。いや、私小説的なジャンルでは、そういった実生活での思いがけない事件や対人関係の不調がないと「創作のネタ」が作れない、という側面すらありそうだ。
俳優もしかりで、身に降りかかった不幸はみんな「演技のこやし」になる。味わったことのある感情を「引き出し」にしまっておかないと、求められたときに引き出せないからだ。
その意味では、『軽蔑』はゴダールが自身の夫婦関係の亀裂とそれに伴う苦悩を、「創作」の形で芸術に「昇華」した作品だということができる。
それと、ある意味、自分を苦しめるアンナ・カリーナの言動や不条理な態度を赤裸々に世間に「さらしものにする」ことで、「復讐」を遂げている部分もあるのかもしれない。
「いやマジでなんであんなに怒ってるかわけわかんないんだけど、皆さんもそう思いません? ちょっと聞いてやってくださいよ。超理不尽ですから」みたいな。
それにしても、生々しい。
夫婦がイチャコラしてる序盤のピロートークも生々しいし、
突然のように妻の態度が冷淡になる切り替わり方も生々しいし、
いったん生じた亀裂が見る見る間に拡がって修復不能になっていく感じも生々しい。
会話それ自体はきわめてソフィスティケイトされていて、ゴダールらしい言葉遊びと象徴性に満ちているのだが、その感覚というか空気感が実に生々しいのだ。
ああ、うちのかみさんもたまにあるよ、こういう急にこわくなるやつ。
で、扱いにしくじるとぶわっとエスカレートしてキレっぽくなるんだけど、
なんでそこまでイライラしてるのかこっちは全然つかみきれないっていう。
「なんで?」「どうすればいい?」ってのも禁句で、「理屈じゃない」と。
というか「理詰めの議論」自体が猛烈に「男性特有の追い詰め方で腹が立つ」と。
じゃあどうしろっちゅうねん(笑)。
カミーユ。ポールの妻にして女優。元タイピスト。
ブリジット・バルドーの放つメガトン級の魅力と、
得体の知れない蠱惑的な「ゲームの仕掛け方」と、
理解の及ばない突然の心変わりというエニグマ。
吸引力。トロフィー。愛嬌。移り気。大いなる謎。
ある意味、女性の「すべて」が詰まっている、
アイコンのようなキャラクターといってもいい。
ミシェル・ピコリ演じる脚本家ポールは、「なぜ妻は突然の心変わりをしたのか」を考え続け、相手に対しても問い続けるが、映画が終わるまで結局「明快な答え」は得られない。一応のところは(理性的に解釈するなら)、アメリカ人プロデューサーと車に一緒に乗せて先に行かせたことで、「人身御供にされた」とカミーユが考えたのがきっかけだろうということは示唆されるのだが、具体的な「軽蔑するに至った経緯」は最後まで本人の口からは語られない。
結局のところ、女性の気分と海の天気は予測不可能なのだ(山の天気だっけ?)。
ていうか、この映画って、今日び流行ってた意味合いでの「蛙化現象」の話だよね。
ある日突然、ふとした相手の行動やことばがきっかけで「百年の恋もさめて」しまうような現象。いったん憑き物が落ちると、どんどんうざさと気持ち悪さが増して、話すのもいや、臭いもいや、同じ空間にいるのもいや、となってくる。
この映画は、(2023年の流行り言葉としての)「蛙化現象」に直面した男女のあせりといらだち、破局と破滅を描きだした物語であるともいえるわけだ。
そこの「過程」を描くことが肝要な作品なので、前半の室内をうろうろしながら会話を重ねていくシーンや、後半の海辺の別荘での心理戦の描写は見どころ満載だが、一方で、終わり方はかなり適当な感じもする。というか、かなり無理やりな締め方だよね? これって原作もこんな感じで終わるのだろうか?
ゴダールとしては、アンナ・カリーナが好きで好きで、同時に憎くて憎くて、ああでもしないと「気が済まなかった」という感じなのではないか? 留飲を下げるというか、こうなったらいっそのこと●●●しまえと(笑)。
まあゴダールの場合『女と男のいる舗道』(62)でも似たことをやってるし、その後しばらくして「それだけで」出来ているような怪作『ウィークエンド』(67)も撮っているので、苦しくなったらこうやって無理やり終わるのが「手癖」の人だったってだけかもしれないけど。
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夫婦の愛の在り方とすれ違い、破局を描くという面に加えて『軽蔑』が重要なのは、本作が「映画製作の裏側」を描いたバックヤードもの、「映画についての映画」だということだ。
冒頭からドリー撮影の様子に始まり(常に対象とカメラが並行に移動して交わらないという動きには、夫婦の関係性も投影されているのだろうか)、屋上での『オデュッセイア』の撮影シーンで終わる(もちろん『オデュッセイア』の物語もまた夫婦の不和の物語であり、映画内の物語とオーバーラップしている)本作は、きわめて自己言及的な作品であると同時に、ゴダールの映画論を比較的生の形で登場人物に語らせている作品でもある。
ちょうどトリュフォーでいえば『アメリカの夜』に当たる作品といえようか。
そういえば、オープニングでゴダール自身の声でスタッフクレジットが読み上げられるが、パゾリーニの『大きな鳥と小さな鳥』(66)の「歌うクレジット」に影響を与えた可能性はあってもおかしくないな。
さらには、映画監督役にゴダール自身が敬愛するフリッツ・ラングを引っ張り出して、自分は副監督役で出演している(このあとゴダールは『気狂いピエロ』でサミュエル・フラーを出演させている)。フリッツ・ラングが作中で語る「金言」の数々には、ゴダール自身の映画観や映画業界に対する提言が強く反映されているはずだ。
アメリカ人プロデューサー役でジャック・パランスを呼びつけているのもかなりクセの強い配役で、当初ゴダールがこの映画を、フランク・シナトラとキム・ノヴァクで撮ろうとしていたエピソードとも関連がありそうな気がする。
フランス、イタリア合作映画というビッグ・バジェットの「国際映画」という枠組みをもつ本作の作中で、フランス語と英語、イタリア語が飛び交い(フリッツ・ラングがドイツ語話すシーンもあったっけ?)、言語間の断絶が随所で見られるのも面白い。
意地でも英語しか話さないジャック・パランスと、意地でもフランス語しか話さないブリジット・バルドー(笑)。
すべての会話にプロデューサー秘書の美女が通訳として介入して、微妙に会話のニュアンスを支配しているというのも、けっこう生々しい。この女性にはポールとイチャコラするシーンもあって、彼女は必ずしも「空気」のような存在ではなく「れっきとしたプレイヤーのひとり」なのである。そういう人物が、それぞれの会話の勘所を握っているというのは、結構恐ろしい状況だと思うのだが、じつは国際ビジネスにおいては「あるある」ではないだろうか。
それにしても、単純な日常会話すら成立しないプロデューサーと女優妻が一緒に出奔して、何をどうするつもりだったんだろうなあ……。
そのほか、赤・青・黄・白を象徴的に用いたとんがった色彩設定(『気狂いピエロ』に通じる)とか、『オデュッセイア』を彷彿させるような変なタオル(バスローブ?)の巻き方とか、唐突に大写しになるギリシャ神話の神々の彫刻とか、ブリジット・バルドーが読んでいるフリッツ・ラングの解説本とか、ポンペイ?の春画集とか、風呂でもつばのある帽子をかぶってるミシェル・ピコリとか(ぱっと思いつくのは本作と同年、撮影開始の直前に封切られた『8 1/2』(63)のマルチェロ・マストロヤンニの格好だが、そういやあれも「映画を描いた映画」だったな。ちなみにプロデューサーは本作の主役にマストロヤンニとソフィア・ローレンを推したけどゴダールに拒絶されたらしい)、いろいろと「ゴダールらしい」要素は満載である。
あと、全編で流れる「カミーユのテーマ」が美しい。作曲家はジョルジュ・ドルリューで、むしろトリュフォー映画の常連というイメージが強い人だけど、なんかワーグナーの『タンホイザー』とか『神々の黄昏』の和声進行を少し思わせる曲だよね。
頭でっかちな映画を撮りだす前の、いちばん脂ののっていた時期のゴダールの魅力を堪能できる良作だったと思う。