女と男のいる舗道のレビュー・感想・評価
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安らかに眠ってくれるな
ジャン=リュック・ゴダール監督作品。
ナナを救うのは「死」のみか。
舞台女優を夢見る彼女の行きつく先は娼婦である。男は性欲の解消のために、ナナは金銭を得るために、そんな利害のために貸される彼女の身体。それは絶えずナナという実存が死に続けることかもしれない。
だから劇中に登場する『裁かるゝジャンヌ』で彼女は涙するのではないだろうか。死によってしか救済されないジャンヌの境遇を自分に重ねてしまうから。
エピソード11でナナは見知らぬ老人と哲学談義をする。
老人は言葉は愛と同じで、それなしに生きることはできないという。そして人間は書くようには話せないから言葉を裏切るともいう。ではなぜ表現するのか、ナナは疑問に思う。それに対して老人は考えるために話をするのだと答える。
老人「話すことはもう一つの人生だ。…別の生き方だ。…話すことは話さずにいる人生の死を意味する。…話すためには一種の苦行が必要なんだ。…人生を利害なしに生きること。」
ナナ「でも毎日の生活には無理よ。利害なしに。」
老人「だから人間はゆれる。沈黙と言葉の間を。…それが人生の運動そのものだ。…日常生活から別の人生への飛翔。…思考の人生。…高度の人生というか。…日常的な無意識の人生を抹殺することだ。」
ナナは愛を裏切り、裏切られる。それはナナが死に続けることかもしれない。絶えず死にゆく自身の話をナナがすることーそれは映画によって描くことと同等であるーは傷を開く行為だ。けれどそれのみがナナに再び生を与える「奇跡」の儀式である。
言葉でもって話をすることは特別な儀式であると同時に誤りをもたらし、嘘にもなり得る。老人とナナもそれに言及している。
ナナ「嘘をつきやすいこと?」
老人「嘘も思考を深める一つの手段だ。…誤りと嘘の間に大きな差はない。…言葉が見つからないことへの恐怖。」
ナナ「言葉に自信が持てる?」
老人「持つべきだ。…努力して持つべきだ。…正しい言葉を見つけること。…つまり何も傷つけない言葉を見つけるべきだ。…つまり誠実であることね。…“真実は誤りの中にもある”。」
ナナの語られる人生は誤りかもしれない。夫の元から去り、夢を希求して、結局娼婦になってしまったのだから。でもそこにはナナの実存が賭けられている。それならばそこには真実が確かにある。人生について。生について。愛について。
ナナ「愛は唯一の真実?」
老人「愛は常に真実であるべきだ。…愛するものをすぐ認識できるか。…20歳で愛の識別ができるか。…できないものだ。…経験から“これが好きだ”と言う。…あいまいで雑多な概念だ。…純粋な愛を理解するには成熟が必要だ。…探求が必要だ。…人生の真実だよ。…だから愛は解決になる。…真実であれば。」
ナナは絶えず話していこうとすることで、もう一つの人生を生きようとした。そして真実の愛を探そうとしていた。
しかしナナは死んだ。22歳の彼女は、愛を経験主義的にしか認識できず、形而上学的な純粋な愛には到達できなかった。
物語は、ナナの人生は、ここで終わる。映画として。
いや映画だから、ナナはまだ死んでいない。
ナナの人生を光学的に記録した映画を私たち鑑賞者がみる。時空間を超えて、何度でも。そして何度でもこの映画について話す。この絶えず映画に働きかける運動が、ナナを何度でも蘇らせる。
それは残酷なことかもしれない。ナナを絶えず死なせ、生かすのだから。
だからゴダールよ。私は何度でもあなたを蘇らせる。あなたが記録して語った人生を、絶えずみて話すことで。レオス・カラックスよろしく最大の敬意を込めて「安らかに眠ってくれるな」。
70点ぐらい。分かりやすい。
これでゴダールは6本目ですが、今まで観たなかで1番好き。
分かりやすい。
終盤はダレたけど良かったです。
ラストは衝撃…
ゴダールは分かりずらいから苦手って方いらっしゃると思いますが、これは分かりやすくてオススメです。
主演のアンナ・カリーナは、ゴダールの奥方になった方だと初めて知りました。
原題の意味
この映画は、じわっと浸透して、あとに残る。女優さんの表情の見せ方が上手くて印象に残るせいか…。
章ごとに区切られて表現されている彼女は、それぞれ微妙に違う顔を見せてくれ、彼女の心境の変化やいろんな側面を伺わせてくれる。悩みなが少しずつ変わっていく。見ていると、だんだん応援する気持ちにさせられてくる。
ここまで書いて、ふと気になり原題をチェックしてみる。だって、男と女の舗道、って…?場面を切り取った描写としては間違っていないけれど、なんかいまいち。
原題は、人生らしく生きる、きままに生きる、というような意味らしい。
そうそう、それだわ。[生き方]がテーマなのだわ。
彼女は彼女なりに、自分らしさに執着し、浅はかだとも言えるが、ある意味では真面目に生きていた。ひたむきさや、考える力があり、そこには今後変わっていく可能性が秘められていた。
でも…残念ながら、彼女の人生は、不条理な結果に終わる。
こんなささやかな人生を、あっけなくバサッと切り取ってしまうなんて、厳しいね。
女版「勝手にしやがれ」
「勝手にしやがれ」は、随分と前に観たっきりだけど、似ているって感じた。既成的な価値観を否定、論理的な会話は成立せず、いまある状況が酷くても、短い反意的、詩的な言葉で修辞してみせ煙に巻く。
ナナは、女優を夢見て、子どもを置いて離婚、写真を撮りたいという男に騙され、娼婦に転落。しかし、女優は、自分の外側で演じ、客に媚びを売り、金をせしめる商売。娼婦も、似たようなものとも言える。
女優を諦め、娼婦を演じるナナ。しかし、哲学者に会い、人生に愛は必須と知る。この時点で、ナナの内面は、もう既に死んでいることに気づいていたのかもしれない。
終幕は、娼婦として別な業者に売り飛ばされかけ、商談が成立せずに、何故かナナだけが撃たれて死ぬ。
「勝手にしやがれ」では、自分の暴力性が仇となって死ぬが、「女と男のいる舗道」では、自分の愛欲性が仇となって死ぬ。
ヌーベルバーグは、WWⅡ以後、既成的な価値観が崩壊し、リベラル、実存主義的な価値観によって生まれたと聞くが、実存主義は個個人の実存に立脚しているがゆえ、儚く、刹那的で、受け継がれるものではない生き方のように自分には思える。それ故に最後は、死へと帰結するのではないだろうか。
なんとなく格好よく、自分らしさ全開なのだろうが、長い目でみると破綻する考え方のように見えてしまい、自分は推さない。
【”零落。そして儚く短き、美しき女の人生。”哀しい物語であるが、アンナ・カリーナの抑制した演技が作品に趣を醸し出している作品。】
■女優を夢見て夫と別れ、パリに出るも、希望なきレコード店員を続けるナナ(アンナ・カリーナ)。
つい男に体を許して代償を得た彼女は、やがてヒモつきの娼婦となり、無感動の日々を送る。
そんな中で出会った若い男を愛し始めるナナだったが、売春業者に売り渡されることになる。
◆感想
・夫と別れるファーストシーンから、女優を夢見るナナは厳しい現実の中、徐々に困窮していき、身体を売るようになるのだが、猥雑感は一切ない。
・場末の映画館で映画を観ながら涙するナナの表情。
・だが、彼女は零落しつつも哲学について熱く語るのである。彼女は娼婦でありながらも心までは売っていない事が分かる数々のシーン。
・ミシェル・ルグランによる哀調を帯びた音楽も、哀しきナナの姿をくっきりと浮き彫りにしていく。
<ラストは、実に切ない幕切れである。”女と男のいる舗道”という映画タイトルは、このシーンから取ったのだろうか・・。>
ナナ転び…
昔ゴダール特集で見たはずだけど、おぼろげな記憶しかないので、久々のご対面。
本編を12の章に分け(そう言えば「わたしは最悪。」も12章構成だった)、さらに一見無造作な断片で紡いでいく、とある街娼のスケッチ。もともとゴダールの映画はストーリーを有機的に語るというよりは、シークエンスをコラージュのように散りばめる手法だ。
ビリヤード台を巡るダンスなどは見ていられるのだが、哲学者との問答など楽しいかと言われれば、そうでもない。
ラストの呆気ない死も当時の定番のようで、本家ヌーヴェルヴァーグのみならず、松竹ヌーヴェルヴァーグでも踏襲していた気がする。
無声映画愛と美術史的文脈に裏打ちされたソリッドなカメラワーク。もう一つの『女は女である』悲劇篇。
ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』観て、衝撃受けるのよくわかるわぁ。
俺もそうだったもん! あれはマジで人生変わる映画。
ゴダールが『女は女である』のあとに撮った、長編第4作。
同じ映画館で続けざまに観たということもあってか、本当に対になるような映画だった。
『女は女である』はカラー、『女と男のいる舗道』はモノクロ。
『女は女である』は喜劇、『女と男のいる舗道』は悲劇。
『女は女である』はPOP、『女と男のいる舗道』は古典。
同じミシェル・ルグランの音楽にのせて、「男女のすれ違い」と「女性であることの生きにくさ」というほぼ同一のテーマを、似たような皮肉のきいた視点から描いた作品でありながら、両作から与えられる印象は正反対といっていいほど異なる。
いちばん異なるのは、撮り方だろう。
『女は女である』は、じつは入念に計算された撮り口ながらも、表面上はあくまでPOPで「即興的」に見えるよう、設えてあった。ちょうどゴダールの書く台詞と同じように、本当は練り上げられていても、「成り行き」まかせで「即興」に見えるよう、わざとがちゃがちゃと散らしてあった。
だが、『女と男のいる舗道』はちがう。
1シーン、1シーンが偏執狂的に作り込まれ、一分の隙もない構図どりと、考え抜かれたカメラワークを極めたうえで、いかにも「これみよがしに」それを見せつけてくるのだ。
やたらギミックを重視するそのやり口は、どちらかというとアルフレッド・ヒッチコックやオーソン・ウェルズに近いかもしれない。
いわゆる「ギミック地雷原方式」とでもいうのか。
要するに、観客がギミックに「気づいて」「見抜いて」「したり顔になる」一連のマウント行為から得られる悦楽それ自体を、作品の魅力として先験的に取り込んでいるタイプの映画である。
ヒッチコックの『断崖』を子供と観てるパパが、「おい、知ってるか、あの牛乳光って見えるだろ、あれ中に電球が入ってたんだぞ!」と自慢して、息子が「すごいね、パパ!」と返すようなアレである。それが本当に「サスペンスフル」かどうかは誰にもわからないが、少なくともそういう仕掛けに「気づく」ことで「サスペンスフルなものを観た気」にはなれる。
ゴダールがやっていることも一緒で、ここで駆使されるギミックのおかげで、本当に男女のディスコミュニケーションや女性の生きる苦しみが表現できているかは実のところわからないが、少なくとも観客が「それに気づく」よう仕向けることで、ゴダールが「何をやりたかったか」は伝わる、という仕組みだ。
とにかく本作で、ゴダールは徹頭徹尾「撮り方」にこだわっている。
すべての撮り方に「意図」がほの見える。
それは、『勝手にしやがれ』や『気狂いピエロ』あたりと比べても、明らかに顕著な傾向であり、この「技巧性」「作為性」「ギミック性」こそが、「スタティックで古典的な画面作り」と合わせて、本作独自の個性だといってもいいくらいだ。
加えて、ゴダールは本作で、しきりと「絵画的」(正確には「美術史的知識に裏打ちされている」)と思わせるようなショットを入れてくる。
技法の意味性。ソリッドで静的な画面作り。無声映画へのリスペクト。絵画芸術の引用。
要するに、彼は『女と男のいる舗道』において、「オーセンティック」さ――過去の芸術につらなる、自らの芸術の「正統性」を主張しようとしているのかもしれない。
●古典・無声映画への回帰
オープニングのスタッフクレジットからして、遊び心いっぱいだった『女は女である』と比べても、実に落ち着いたスタティックなつくりだ。
タイポグラフィや文字組も、無声/モノクロ時代の定型に、敢えて当てはめてある。
全12章のタイトルが挿入される『スティング』みたいな作りも、サイレント映画へのオマージュだろう。
アンナ・カリーナが作中で観る『裁かるるジャンヌ』の部分引用は、まさに無声映画へのリスペクトそのもの。さっき見たWikiによれば、ヒロインのショートボブやラストの唐突な展開にも、『パンドラの箱』という無声映画に元ネタがあるらしい。やっぱりね。
画面作りにおいては、横長の画面を柱や壁の端で三分割するような構図どりが頻出し、そのどこかにアンナ・カリーナを押し込んでいく。どこを切り取っても「絵」になるバランスの良い構図感覚は、ヴィスコンティにも負けていない。
●凝りに凝ったカメラワーク
「第一章」では、別れた夫婦を背後から一人ずつ撮りながら、嚙み合わない会話と分断された画面で、ふたりのディスコミュニケーションを描くのだが、奥のところに鏡が置いてあって、アンナ・カリーナの顔がずっと映っている(一瞬、夫の顔も映る)。
この、鏡を使って空間全体の情報を盛り込む手法は『女は女である』でも試みられており、それを前作以上に「ギミック」っぽく、観客を惹きつけるフックとして機能させている、ということだ。このあとも、トリッキーな鏡への映り込みは、ホテルでの売春のシーンやエレベーターのシーン、哲学談義のシーンなど、あちこちで見てとることができる。
レコード店のシーンでは、前作で部屋をぐるりとパンしていたのと似たカメラワークで、店内でのヒロインの左右の移動を追う。
写真家とバーで会うシーンでは、冒頭のバックショットと、レコード店のパンショットを混ぜ合わせたかのような形で、ふたりを半分ずつ映す形でパンする。
こうしてゴダールは、ヒロインと世界のディスコミュニケーションの深さを描き出すために、カメラを左右に振りつづけるのだ。
一方で、立ちんぼの集まる街路のシーンや、買春客との会話シーンなどでは、決まって後ろの壁が迫っていて後背にゆとりがなく圧迫感があるのも、アンナ・カリーナの置かれたどんづまりの身動きとれない状況や、見通しの立たない焦燥を「カメラワークを通して」表現しようという試みの一環だろう。
●美術史的文脈からの引用
この映画の原題は『自分の人生を生きる、12のタブローに描かれた映画』。本作は出発点からして「絵画」をモチーフにとる映画である。
冒頭のクレジットでは、ヒロインのプロフィール(横顔)を、正面観を挟んでぐるりと見せてゆくのだが、この「プロフィール」自体、古代ギリシャ~ローマから、それを規範としたルネサンス(とくに初期~盛期)における女性肖像画の基本型であることを忘れてはならない。
先に述べた室内に置いた鏡を用いて、死角まで含めた三次元的な全体像を呈示する手法は、おそらくならベラスケスの『ラス・メニーナス』やファン・アイクの『アルドルフィニ夫妻の肖像』などで用いられた、著名な鏡の活用術にインスパイアされたものだろう。
アンナ・カリーナが子どもに会いにいくシーンでは、暗い室内の奥のほうでドアが開き、彼女のシルエットが浮かぶショットが繰り返される。この空間把握は17世紀~18世紀のフランドル風俗画における室内描写に典型的なものだ。
それから、最初の売春のシーンで、机のぎりぎりのところに男がマフラーと石鹸を置く描写があるが、これも、西洋の静物画においてきわめて一般的な、「儚さ」「メメント・モリ」の表現と無縁ではあるまい(静物画に「落ちそうなもの」と「腐りかけのもの」を描きこむことで「人生の儚さ」を表現し、「待ち受ける死を想うこと」をうながす。石鹸=シャボンもメメント・モリ表現の定番)。
●三つの「破調」と物語の終焉
息を押し殺したかのようにスタティックに展開してきた物語で、ふっと息をつくような、開放的な気分にさせてくれるのが、男性客の風船芸のパントマイムと、それに続くアンナ・アリーナのダンスだ。
あのアンナ・カリーナのダンスは、実にいい。
今までよどんでいたものが、一瞬ふっと吹き飛ばされて、視界がぱっと開けるような、爽快さがある。
(一方で、暴発しておしまいの悲喜劇的な風船芸は、アンナ・カリーナのラストをも予兆させる。)
次の章で、アンナ・カリーナは哲学者との「対話」を行う。
ブリス・パランは、実際にゴダールの哲学の師匠だった先生らしく、『気狂いピエロ』にカメオ出演して映画論をぶったサミュエル・フラーの哲学者版といったところか。
ここも、今までのノリからすると明らかに「破調」の要素だが、アンナ・カリーナはここでだけ、男性との会話を「きちんと成立させることができた」わけで、これもさきほどの「ダンス」と同様、アンナ・カリーナに一瞬の解放と救済をもたらす要素といえるだろう。
で、「陽」、「陽」、ときて、ラストのアレである。
いろいろと元ネタは取りざたされているようだが、一義的には『勝手にしやがれ』のセルフパロディ(というか女性版)というべきなのかも。
まあ物語の常として、ずっと浮かばれず、割に合わない人生を送ってきた不幸体質のヒロインに、すぅっと「陽」の光が差した後って、得てしてこういうことになるもんだよね……。
主演のアンナ・カリーナは、コケティッシュな魅力にあふれていた前作と違って、今回は外見も演技もかなり抑えめだ。でも、無表情と薄笑いの背後で常に涙をこらえているような、はかなげで幸薄そうなそのたたずまいは、これはこれで男の感情(と庇護欲とサディズム)を強烈に揺さぶってくる。
アンナ・カリーナ本人は出来上がったこの映画を観て激昂したとか何かで読んだ気がするが、『女は女である』や『気狂いピエロ』とは異なる形で、彼女の魅力を十分に味わわせてくれる映画だと僕は思う。
やっぱり、あのオープニング、超クール。
やはり流石の4Kレストア。
あのオープニング、モノクロのダークなグラデーションが、とても鮮明に際立っていた。
あのアンナの横顔を見るだけでも、この映画を観る価値がある。
今回も相変わらず大好きなアンナの為の映画で、オープニングは勿論、大音量のジュークボックスで踊るシーンなども全く色褪せない。
そして、その後のシークエンスの会話の中で、ドイツ哲学が出てきても、ヘンに机上の空論化などせず、アカデミックの硬直化に陥らないのは、やはりゴダール印。
でもライプニッツのあたりは、だいぶ翻訳の方は端折ったか。「モナド論」の一言で片付けてはアカンがな。
あと、あのラスト、相当にタチの悪いコントにしか見えないが、やはり、どうしてもアレやりたかったか…
『赤線地帯』の影響もあったらしいが…
いよいよイイ加減『赤線地帯』は勿論、溝口はちゃんと観にゃアカンな。Amazon prime あるかな?
女と男の絶対的な隔絶を、撮影技法の工夫により表現した傑作
肉体では交わっても、真に向き合うことのできない女(アンナ・カリーナ)と幾人もの男たちの関係の歪さを、会話シーンにおいて一般的に用いられる切り返しショットを崩して撮影することで見事に描出する。
会話はしているけれど、しかし対話にはなっていない女と男の絶対的な断絶、その痛々しさがアンナ・カリーナの真っ直ぐな瞳を介して観る者に突き刺さる。
例えば、最初の元夫との会話シーンは、二人を背中側からしか撮らないという異常なカットバックで表現される。
ドライヤー「裁かるるジャンヌ」を一緒に観た男と別れ、今カレの写真家と合流してカフェで話すシーンでは、横並びになった二人の左右の切り返しポジションをカメラが行ったり来たりするが、そのリズムが会話のテンポと同調していないために、滑らかな会話劇とはとても呼べない不安定なリズムが映像には生まれる。
すべての会話シーンや売春シーンに工夫が凝らされており、カリーナが一人で実に幸せそうにミュージカルを演じるシーンなど本当に切なく感じさせられるのだが、すべてを説明するのは割愛する。
以上のことを念頭において観ていくと、突然、カリーナと真の“対話”を行う人物が現れることに、観る者は果てしない感動を受ける。最後から2つ前のシーン、哲学者との会話場面である。
カリーナ「何も話さずに生きるべきだわ」
哲学者「本当にそうかね?」
カリーナ「…わからない」
哲学者「考えることを諦めた方が楽に生きられる。話すことは、もう一つの人生を生きることなのだ。話さずにいる人生の死を意味するのだ」
カリーナ「命がけなのね」
哲学者の話を聞いているカリーナは、唐突に画面のこちらを見つめてくる。
あなたと、会話することはできる?
真に言葉を交わすことはできる?
と、カリーナの瞳は訴えてくる。
そしてこのシーンは、作中で唯一、カットバックが成立している。
二人の間に、対話が成立しているのだ!
しばし考え、言葉を選びながら話すカリーナ。
カリーナの投げる疑問に、思考を巡らせながら真剣に応える哲学者。
この哲学者ブリス・パランは、ゴダール自身の恩師だそう。
「ゴダール 映画史」でゴダールは当時のことを振り返り、
「彼女(カリーナ)と一緒に映画のことを話すことができなかった。」
「我々の間には、対話が成り立たなかった。今思うに、私はそれを受け入れるべきじゃなかった。」
と、別れに至る原因を自己分析する。本作の内容とそのまま二重写しになるこの述懐の切なさたるや、果てしないものがある。
カリーナ自身は完成した本作を観て怒り心頭だったというが、いや、本当に素晴らしい輝きを放っていると、カリーナもゴダールも死んだ世界から、真実の称賛を二人に送りたい。
愛と愛なき者の街
アンナ・カリーナが、21歳か22歳の頃に撮られたゴダール作品。1962年のフランス映画。この頃が一番美しくないですか?ちょっと色々と凄いです。女優さんとしても。
84分の映画は12分割された上で各々にタイトルがつけられ、各々に主題がありますが、もちろん一本の長編映画になっています。
離婚歴のあるレコード屋の店員ナナは、映画女優を夢見る22歳の女。友達に貸した2000フランの貸し倒れが元で家賃を払えなくなり、街でネコババで警察に捕まってしまう。一回の援交から、売春婦に身をやつし、最後にはヒモ(売春の元締め)に売られて、命を落とす。
ヌーベルバーグらしい、救いの無い物語り。ただ墜ちて行くだけのナナの不幸。11章に出て来る見知らぬ哲学者は、本当の哲学者ブリス・パランとの事で、哲学の知識のないナナと真面目に愛について談義します。しかもドイツ哲学。これも「らしい」としか。
モノクロの画面。ミシェル・ルグランの音楽。時代を超えて来た建築物。石畳の歩道と両開きの窓。不思議な郷愁を感じる映画です。パリに行ってみたくなる、と言うか暮らしたくなります。
これまで見た三作のアンナ・カリーナ主演作の中では、コレだけがリアルな演技の映画で、一番好き。女優としてのアンナ・カリーナの魅力は勿論の事、映画表現としての斬新さもあり、ヌーベルバーグのサンプルとして、見る価値はあると思います。
やっぱりアンナ・カリーナが好き。
良かった。
90分弱で彼女の人生を描き切る
コロナ明け3ヶ月ぶりの映画館。30年ぶりの再見。
アンナ・カリーナの横顔、ポスターの前で煙草を吸う立ち姿、掌で身長を測るお茶目な姿、有名な「裁かるるジャンヌ」での涙などなど、印象的なシーンの数々。
音楽、文学、哲学などゴダールお得意のアイテムもふんだんに盛り込まれ、ミシェル・ルグランの8小節の切ない旋律にも心魅かれる。
ラストシーンまで90分弱、12章の中で、タイトルどおり「彼女の人生」を描き切っていて、あらためて深い感銘を受けた。
また最初から繰り返し観たくなる。
娼婦とお客のいる舗道
パリの娼婦ナナ(アンナ・カリーナ)の日常を、ヒモやお客と絡ませて描いていく。
監督はゴダール、当時の妻はアンナ・カリーナで、さすがに美しく撮られている。
音楽はミシェル・ルグランで、当時はヒットした記憶がある。
掴み所のないナナとゴダール
話の筋が読めない序盤から段々、A・カリーナ演じるナナの素性が読めてくる。
後半からゴダール特有というか哲学が入ってくる感じは観てるコッチの頭がゴチャゴチャになる!?
淡々と見せる映像に魅力的なA・カリーナの浅はかな女性像にアッサリしたラスト。
ゴダールが何を伝えたいのか理解は出来ないが悲惨な人生を歩む女性の儚さ!?
カフェのポスターが「野火」だった。
二つのパン・ショット
ジャン・リュック・ゴダールの作品は何本目だろうか。彼の作品群のほんの一部しか観たことがないが、なぜ世界中のシネフィルの賞賛を受けるのか分からない。
フランス映画が詰まらないわけではない。ルコントやベッソンの作品にはとても面白いと感じるものがある。
好き嫌いの別れる映画のことなのだから、他人が面白いと言っても、自分はそう思わないものだってある。
今回はしかし、カメラの存在をあえて観客に意識させるようなカメラワークが印象に残った。特に、カフェの中で主人公から窓(の外)へとパンする2つのショットが心に残った。
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