台北ストーリーのレビュー・感想・評価
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物語らない物語
台湾巨匠傑作選2024@シネ・ヌーヴォー。
1985年の作品。何ともうすぐ40年経つのだね。
侯孝賢主演、ほかにも後に名をなす台湾映画人が参加しているとか。台湾版『アメリカン・グラフィティー』か。
映画史上の位置づけはさておき、この映画、およそ説明的な描写を欠き、日常の断片を連ねた極めて不親切なつくり。主人公ふたりの関係性も明示されず、もやもやのまま進行するから、渡米の話や融資の話などさっぱりピンとこない。何となく見えてきたのは、「中華民國萬歳」「FUJI FILM」のネオンサインに象徴される80年代台湾の政治的・経済的な閉塞感。絵的には美しいのだけど、ストーリーに乗れないままなので、何となくの域を出ない。少年野球の話も、もうちょっとわかりやすく語ってよね。
台湾、日本、アメリカ
アリョンは大いなる外部としてのアメリカに憧憬を抱いている。無機質で陰鬱とした台湾を抜け出すことが、自身の人生に何らかの好転をもたらすのではないかと考えたのだ。
一方で主人公のガールフレンドであるアジンは台湾から離れようとしない。経済成長の真っ只中にある当時の台湾においてはまだまだプリミティブな差別意識も根強く、彼女もまたその犠牲者の一人だった。しかし彼女は地理的な横移動に解決を求めようとせず、あくまで内部からの変革を目指し続けた。
とはいえアリョンとアジンの関係は単純な二項対立に終始しない。というのも、アリョンの心境には大きな揺らぎがあるからだ。
彼は国外逃亡を画策する一方で、友人や親族といった土着的価値を完全に捨て去ることができない。貧乏な友人にお金を渡したり、アジンの父親に多額の融資をしたり、内輪的なものに対してはやけに寛容な態度をみせる(そしてそのせいで経済的に破綻する)。
アリョンにとってアメリカとは、おそらく理想の終着駅である。そこではすべてが思い通りになる。彼の義兄が白人専用居住地に一軒家を構えたように。
しかしそこへ辿り着くためには、非アメリカ的なものは一切合切放棄する必要がある。けれど彼にはそれができない。どっちつかずな彼の態度は、彷徨の果てに日本へと不時着する。
80年代といえば、日本が世界で最も存在感を誇示できていた時代だ。アメリカの次に勢力のある国はどこかと問われれば、おおかた「日本」という答えが返ってきたことだろう。
アメリカに次ぐものとしての日本。このとき台湾は日本よりさらに下位に置かれることとなる。そして台湾がアメリカに肉薄しようと思えば、日本を超越しなければならない。土着的価値を捨てきれないアリョンは、したがってアメリカまでは手が届かず、日本で行き詰まる。
富士フイルムの巨大な電光掲示板、テレビに映る日本のCM、演歌の流れるカラオケボックス。それらの光の彼方にはアメリカの影が投射されている。アリョンはそれを追い求める。しかしそれはしょせん幻だ。日本はどこまでもアメリカの未完成形であり、経由地点に過ぎないのだ。
話は逸れるが、台湾・香港は自国がサイバーパンク的なある種のオリエンタリズムによって消費されていることにきわめて自覚的な国だと思う。日本の『AKIRA』『Ghost in the shell』はアジア=サイバーパンクのイメージを全世界に根付かせた元凶であるし、アメリカがそういった単純なイメージを消費・再生産する側であることは『ブラック・レイン』『オンリー・ゴッド』などからも明白だ。
一方でエドワード・ヤン『恐怖分子』、あるいはウォン・カーウァイ『恋する惑星』『天使の涙』、ツァイ・ミンリャン『楽日』あたりは自分たちが世界からどう消費されているのかを自覚したうえでサイバーパンク的文脈を展開している感じがある。
殊に本作はその傾向が強く、なおかつそれが作品の主張とも繋がる。アリョンが夢見るアメリカが幻想であるようにアメリカが夢見るサイバーパンク都市「アジア」もまた幻想に過ぎないのである、ということを、本作は台北の過度なサイバーパンク的描画によってアイロニカルに暗示しているのだ。
話が逸れてごめんなさい。
そういえばアリョンが少年期に野球チームのエースだったという設定も、アメリカ→日本→台湾というヒエラルキーを如実に喩えている。野球というスポーツにおける最終地点もまたアメリカのメジャーリーグだ。
結局、アメリカに辿り着くことが経済的にも精神的にも不可能であると悟ったアリョン。浮気相手と日本で落ち合うくらいが関の山だと悟ってしまったアリョン。彼が誰もいない路上で恋敵に刺され、そのまま命を落としたことは物語的必然といえるだろう。
一方でガールフレンドのアジンは、当時の台湾に内在的な諸問題(差別、リストラ等)に悩まされつつも、最終的には女上司と共に新たな会社を興す。台湾という土地に絶望しながらも、最後まで逃避という選択肢を選ばなかった彼女の粘り勝ち、といったところか。(そういえばソン・インシン『幸福路のチー』も同様のテーマだったことを思い出した。)
ただ、アジンのこれから先の人生に明るい展望が拓けているかといえば、そうとは言い切れない気がする。アジンが曇天の摩天楼から眼下の道路を見下ろすラストシーンに、私は強烈な不安のイメージを感じた。そしてその道路はたぶん、アリョンが事切れたあの峠道にも続いているはずだ。
これ以上先には一歩も進めそうにないペプシコーラ
或る男女を通して、近代化してゆく台北の都市そのものを描く力業。映像の手触り感が強く、彼らの息づかいを肌で感じられるような錯覚さえあった。ペプシコーラのシーンは白眉、「まるで何かから逃げているみたい」。クーリンチェも早く観ないとなあ。
素晴らしき『青梅竹馬』
何とも長い作品であった。パンフレットをざっと見てからの作品の鑑賞をお勧めしたい。
とにかくホウ・シャオシェンが若い。上映時間が長く感じたが、決して退屈ではなかった。
『台北ストーリー』という題名も良いが『青梅竹馬』の方が味があって良かった気がする。
エドワード・ヤンの作品に脚本家として参加しているホウ・シャオシェン。二人の仲がとても良かったように思われる作品であった。
作品を振り返って、ホウ・シャオシェンが竹馬の友である亡き友エドワード・ヤンに贈った「惜別の証し」に思えてならない。
台北のこれまでの時代の流れを描いていてまさに「台北ストーリー」。
『フットルース』のダンスが懐かしい。日本のこともちらほら。親近感を覚えた。
エドワード・ヤンの映画は繰返し観たくなる
この人の映画の、再び観ることを観客に促す力はいったいどこからもたらされるのだろうか。
エドワード・ヤンの作品はこれまでに数本観ただけである。(といっても、早世した彼の残した映画はそれほど多くはないのだが。)しかし、その全てをまた観たくなる。
他の多くの名作もそうであるように、ヤンの映画もまた、観客に物語の筋を追わせることのみに腐心するものではない。画面に映るものの中に、社会や歴史を反映するものがあることによって、観客の想像力が刺激を受ける。そのことが眼前に拡がる時間や空間の中へと観客を誘うことになる。
映画によって想像力を刺激される幸福とは、そのようなことから生まれる。
さて、「台北ストーリー」には、アジンの実家がある古い町並みの残る地区と、コンクリートのビルが建ち並ぶ街区が対照的な光景として描かれている。
富士フイルムのネオンサインが、背景としてだけでなく光源としても効果的に使われている。このショットを観て感じる、都市生活の冷たさや孤独は、同じくヤンの「恐怖分子」に登場するガスタンクのショットを思い起こさせる。
都市の中に潜む狂気や孤独が、人びとの人生や命を奪うという構造は、この2作品に共通している。
様々な問題を孕みつつも、長きにわたってバランスしてきた近代が終わりを迎え、新しい時代が幕をあける。
その時代の繋ぎ目においては、必然的に旧来の思考や習慣が時代遅れなものとして、今までそれが纏っていたオーラを奪われていく。
その象徴としてのアリョンには、少年野球の世界大会で優勝したという昔日の栄光があり、親族や朋友のためならなけなしの金をはたくことも厭わない任侠的価値観がある。
そして、そのどちらもが今となっては人びとから顧みられることがないばかりか、侮蔑や嘲笑の対象となってしまった。
国民党政府の国家と初代総統を賞揚するネオンの前を、大勢の若者たちがバイクで走り抜けるシークエンスは、もはや国家の体制すらも一顧だにされなくなったことを強く示唆している。
古い時代には単純に「良き」を加えず、また、新しい時代や未来にも、安易に「明るい」を付けることもしない。時代の変わり目に注ぐ冷めた視線は、ヤン自身が敬愛する小津安二郎のそれと重なる。
何て心地よいのか…。
台湾映画は何故かくも心地よいのか。
まぁようするに眠ってしまったのだ。
ラスト三分の一しか映画を観ていない。
全部観ておけばよかったと思った。
午睡が気持ちよかった、だけでなく、きっと心地よい時間を過ごしたのだと思う。
フジカラーのネオン看板
夜の屋上で点滅するフジカラーのネオン管の看板の画が素敵過ぎで一番印象に残るシーンだった。
自分のレンゲが床に落ちても拾わないで隣に座る娘のレンゲを手に取り何事も無い態度だったり娘の彼氏から金借りたり太々しくて情けない父親。
淡々と進む物語の中に静けさと不穏な男女の関係を説明過多にしないシンプルな大人のドラマ。
台湾の俳優なんて全く知らないし男が古臭い容姿だが徐々に魅力的になり特に女性の撮り方が逸品で素晴らしい。
所々に日本の描写が入っていたのは面白い。
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