台北ストーリーのレビュー・感想・評価
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監督の主人公へ託した狙いが分からないままの鑑賞に…
長編ゆえにつき鑑賞に苦労した、
同じエドワード・ヤン監督の
「クーリンチェ少年殺人事件」の6年前の作品
のようだが、同じ台北舞台ではあるものの、
描かれる時代は「クーリンチェ…」の60年代に
対して、こちらの方は高度成長期の
80年代の台湾を背景にしているようだ。
冒頭では、台湾は土足文化で家の中も
靴を履いたままなのかと驚かされたが、
全体的に感じたのは、当時としては
台湾から見ての先進国であったろう米国と日本
への憧れ(後で自ら錯覚だったと語るが)と、
少年野球を起点とする男性主人公の
生き様だった。
助け合いのチームプレーを培ったはずの
栄光の少年野球の経験も、
確かに人助け的な意味合いでは
心豊かな成長に結び付いているかに見える
男性主人公と元チームメイトなのだが、
何故か大人になってその経験を生かせない
孤独感や挫折感に満ちたようで印象的だ。
結果、女性主人公の米国行きが、
彼女へ想いを寄せる別の男性による
男性主人公の殺人によって断念させられた
かのように描かれるのだが、
男性主人公は、恋人の父親に何故か
強く同情して資金的な援助を行なったり、
己は他の女性に未練を残したまま、
恋人に恋心を抱く男性に敵対心を抱いたり、
私には身勝手な人物像にしか映らない。
日本人と結婚した元恋人?か語る、
あなたは他人を哀れみ同情しているだけ、
メルヘンの世界に生きている、
単なるお情けで他人を助けているだけ、との、この人物像の分析が腑に落ちるばかりだった。
監督のこの男性主人公へ託した狙いが
どこにあったのが、私には分からないままの
鑑賞となってしまった。
1980年代台北の風景
経済成長によって変貌する1980年代の台北。幼なじみで恋人の男女とその周囲の人々に次々に不運と不幸が降りかかる。どうにもならない閉塞感の中でもがく男と女の姿を描いた辛口の群像ドラマであり、この重く乾いた作風は翌年の次作『恐怖分子』にも通じるものがある。主演はエドワード・ヤンとともに台湾ニューシネマの旗手となった映画監督のホウ・シャオシェンで、盟友ヤンのために主演を引き受け、他にもニューシネマの人々が多数参加して作られているとのこと。
作中に出てくる日本の企業看板やビデオテープに録画されたテレビCMなどに、若き日に手塚治虫など日本のサブカルチャーに魅了されたヤンの趣向を見るとともに、経済的繁栄にあった80年代日本の一端が垣間見得てなんだかノスタルジックな気持ちになった。ともかく本作は今となっては当時の台湾の空気を映し出した貴重な作品と言えるのだろう。
静かすぎる、、、
アリョン(阿隆)とアジン(阿貞)の恋人とも友達とも同僚ともつかない...
アリョン(阿隆)とアジン(阿貞)の恋人とも友達とも同僚ともつかない関係の、結構暗い雰囲気の大人の現実脱却物語。
同じ1947年生まれのエドワード・ヤンとホウ・シャオシェン。
監督作は多くないエドワード・ヤンの2作目となる長編作品。
主人公の男性アリョン役には製作と脚本も担当したヤンの盟友ホウ・シャオシェン。
もう一人の主人公の女性アジン役に当時のエドワード・ヤンの妻であった人気歌手ツァイ・チン。
2人は幼なじみでアメリカへの移住を考えている。過去の栄光にしがみつく男(元野球のエース)と過去から逃れようとする女(元キャリアウーマン)、そして彼らを取り巻く人々の姿が、経済成長の中で変貌する80年代の台北を舞台に描かれる。
「結婚は万能薬ではない」
物語らない物語
台湾巨匠傑作選2024@シネ・ヌーヴォー。
1985年の作品。何ともうすぐ40年経つのだね。
侯孝賢主演、ほかにも後に名をなす台湾映画人が参加しているとか。台湾版『アメリカン・グラフィティー』か。
映画史上の位置づけはさておき、この映画、およそ説明的な描写を欠き、日常の断片を連ねた極めて不親切なつくり。主人公ふたりの関係性も明示されず、もやもやのまま進行するから、渡米の話や融資の話などさっぱりピンとこない。何となく見えてきたのは、「中華民國萬歳」「FUJI FILM」のネオンサインに象徴される80年代台湾の政治的・経済的な閉塞感。絵的には美しいのだけど、ストーリーに乗れないままなので、何となくの域を出ない。少年野球の話も、もうちょっとわかりやすく語ってよね。
これ以上先には一歩も進めそうにないペプシコーラ
素晴らしき『青梅竹馬』
何とも長い作品であった。パンフレットをざっと見てからの作品の鑑賞をお勧めしたい。
とにかくホウ・シャオシェンが若い。上映時間が長く感じたが、決して退屈ではなかった。
『台北ストーリー』という題名も良いが『青梅竹馬』の方が味があって良かった気がする。
エドワード・ヤンの作品に脚本家として参加しているホウ・シャオシェン。二人の仲がとても良かったように思われる作品であった。
作品を振り返って、ホウ・シャオシェンが竹馬の友である亡き友エドワード・ヤンに贈った「惜別の証し」に思えてならない。
台北のこれまでの時代の流れを描いていてまさに「台北ストーリー」。
『フットルース』のダンスが懐かしい。日本のこともちらほら。親近感を覚えた。
エドワード・ヤンの映画は繰返し観たくなる
この人の映画の、再び観ることを観客に促す力はいったいどこからもたらされるのだろうか。
エドワード・ヤンの作品はこれまでに数本観ただけである。(といっても、早世した彼の残した映画はそれほど多くはないのだが。)しかし、その全てをまた観たくなる。
他の多くの名作もそうであるように、ヤンの映画もまた、観客に物語の筋を追わせることのみに腐心するものではない。画面に映るものの中に、社会や歴史を反映するものがあることによって、観客の想像力が刺激を受ける。そのことが眼前に拡がる時間や空間の中へと観客を誘うことになる。
映画によって想像力を刺激される幸福とは、そのようなことから生まれる。
さて、「台北ストーリー」には、アジンの実家がある古い町並みの残る地区と、コンクリートのビルが建ち並ぶ街区が対照的な光景として描かれている。
富士フイルムのネオンサインが、背景としてだけでなく光源としても効果的に使われている。このショットを観て感じる、都市生活の冷たさや孤独は、同じくヤンの「恐怖分子」に登場するガスタンクのショットを思い起こさせる。
都市の中に潜む狂気や孤独が、人びとの人生や命を奪うという構造は、この2作品に共通している。
様々な問題を孕みつつも、長きにわたってバランスしてきた近代が終わりを迎え、新しい時代が幕をあける。
その時代の繋ぎ目においては、必然的に旧来の思考や習慣が時代遅れなものとして、今までそれが纏っていたオーラを奪われていく。
その象徴としてのアリョンには、少年野球の世界大会で優勝したという昔日の栄光があり、親族や朋友のためならなけなしの金をはたくことも厭わない任侠的価値観がある。
そして、そのどちらもが今となっては人びとから顧みられることがないばかりか、侮蔑や嘲笑の対象となってしまった。
国民党政府の国家と初代総統を賞揚するネオンの前を、大勢の若者たちがバイクで走り抜けるシークエンスは、もはや国家の体制すらも一顧だにされなくなったことを強く示唆している。
古い時代には単純に「良き」を加えず、また、新しい時代や未来にも、安易に「明るい」を付けることもしない。時代の変わり目に注ぐ冷めた視線は、ヤン自身が敬愛する小津安二郎のそれと重なる。
何て心地よいのか…。
フジカラーのネオン看板
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