「インテリアはそこに「住む人」のためにあるもの。」インテリア Chemyさんの映画レビュー(感想・評価)
インテリアはそこに「住む人」のためにあるもの。
都会派コメディーを製作して来たアレン監督が、敬愛する巨匠ベルイマン監督にオマージュを捧げた心理ドラマ。精神を病んだ母親と3姉妹の確執は、ベルイマンの『秋のソナタ』や『叫びとささやき』を想起させる。表面的には互いを気遣いあう「家族」だが、その心底には、それぞれの愛憎が凝っており、その「怒りや哀しみ」を、モノクロに近い抑えた色調と、音楽の変わりに波の音をBGMにした静かかつ哀しくも美しい画面で表現されている(余談だが、アレン監督は登場人物のアングルもこだわり、ベルイマン監督の『仮面 ペルソナ』のアングルそのままを使っている)。
完璧主義の母親に脅威を感じながら育った3姉妹は、母が精神を病んでからも、独裁下から抜け出せない。それでも、長女は「才能」に恵まれたため、「個人」としての存在を認めることができているし、才能はないが、「家族」から遠く離れたところで暮すことによって、「家族」の「呪縛」から逃れている三女は、かろうじて自分を見失わずに済んでいる。しかし、近くに住んで母の面倒を見ている次女には逃げ場がない・・・。完璧な人生を歩んでいたはずの母に、唐突に訪れた夫との別居。夫が自分から離れていった理由が「解らない(解りたくない)」母は精神のバランスを崩す。その母に、まるで腫れ物にさわるように接する家族たち。この家族の「危うさ」が、個人の「危うさ」へと繋がるのだ。本音では付き合えない関係なのに、家族であるという矛盾。いや、家族だからこそ本音を言い合えない。姉妹が不幸である故に、姉妹のパートナーも不幸になる。ここに登場する人々は不幸の連鎖で繋がっている。その鎖を断ち切れるのは自分自身の「意識」だということを誰も気づかないままだ。
父の再婚という新たな出来事によって、ついに爆発する家族たちの「叫び」。娘が心情を吐露することによって、結果的に母は「死」という逃げ道を選んでしまう。しかし、この悲劇のラストシーンと重いテーマの中、私はある「希望」を見出せた。ベルイマン作品では、「呪縛」を解き放つのは「自分自身」なのだが、アレン作品では「人の優しさ」がキーポイントになっている。まずは、三女の無邪気さ。三女は長女の夫に対していつも親しげに接していたため、妻との仲がギクシャクしていた夫(デキル妻をもった男のコンプレックス)は、三女を自分のものにしようとする。確かに男に「ブーツを脱がせてくれ」などと頼むあたり、”誘っている”と思われても致し方ない。男を非難することはできない。しかし三女に関しては、それらの行為は純粋に義兄としての愛情表現にすぎなかった。私は、長女の夫が三女をレイプしようとして未遂に終わったことを心からよかったと思う。このレイプ(いや、レイプではなくて、たとえ合意の上でのセックスでも)が実際に起こってしまっていたら、この一家は、ますます深い呪縛にがんじがらめにされてしまったことだろう。
さて、本作で、この家族(特に次女)に救いの手を差し伸べるのが、父の再婚相手。ただでさえ、病気の母を見捨てて、父が再婚することにショックを受けている次女だが、この再婚相手というのがおよそ納得できる人物ではなかった。完璧だった母に比べて、それほど美人でも若くもなく、ガサツで下品で教養もない。何故母より数段も劣っているこの女を、父は選んだのか?さらにこの女は、インテリアデザイナーである母が選んだ完璧な(無機質な)部屋のインテリアを変えようとしたり、不注意で花瓶を割ったりする。しかし、次女が、海へ入った母を引き止めようとして、溺れた時、必死で人工呼吸をして助けてくれたのは、彼女が蔑み、思わず意地悪を言ってしまったこの女だったのだ。
この「溺れた人を助ける」という、人間としてあたりまえの行為の力強さに改めて感動を覚えた。自分を嫌っている相手に対しても、迷うことなく行なえる「本能」の力強さ。この「プラスのパワー」は、家族の呪縛によって、自分自身や、周囲の人間の心までも見えなくなってしまっている次女の「マイナスのパワー」を大きく上回るものだ。深く傷つき、悩み、混乱した彼女の心は、こんな「当たり前」のことで救われるのだ。
完璧に整えられた高級なインテリアは美しい・・・、しかし、インテリアはその部屋に「住む人」がいて初めてその役割を果たす。自分の完璧なインテリア(世界)だけを整えて、「他人の優しさ」を住まわすことができなかった母より、外の世界のゴタゴタを招きいれ、とっちらかって掃除が行きとどいてなくても、温かくて和める住処を持つ女を選んだ父の人間臭さを姉妹たちは理解し、やがては自分自身もそんな住処を持つようになるだろう