「永遠」ある愛の詩 Takehiroさんの映画レビュー(感想・評価)
永遠
1970年という時代のアメリカ。カトリックの女性なのに婚前交渉してしまいながら、それへの批判が通り過ごされてしまうという欠陥の始まりの頃であるが、それをNHKBSプレミアムで古典的映画として出してしまっているのが日本の現在である。揺らぎ崩れる兆しの映画である。女性のほうが死んでしまうが神からの罰という捉え方を今こそすべきかも知れない。だが神はひどい仕打ちを人に与えない。許すものであるとも考えられてしまう方向性がある。だがそれではどこまでも人間は自由という名の破壊を求めて快楽と肉欲に狂わされる。ドラッグとフリーセックスの危険性はそこにある。
気の利いた生意気なセリフの女性がかっこいいなどと思われてしまった1970年頃から半世紀が経過する中で、ますますそれはひどくなっていった。そして日本の現在は、週刊誌が暴露しなければ隠れて、不倫や乱交が政治家や著名人に代表されるように途切れる事がない。かなりの日本人はその罪は恥に対して不感症になってしまっている。しかしこの映画では婚前交渉はしたが、結婚をしようと決めていたと思う。そこは揺らぎの始まりの時代の中でも良心はまだ残っていたかも知れない。この映画が訴えたかったのは身分の違う男女というテーマだったのだろうが、婚前交渉とカトリックの親の身分による反対などが貞操観と矛盾してしまう。最近では、EXILEの一人と武井咲の婚前妊娠が批判を受けた。そういう矛盾が、婚前交渉には生ずる。援助交際から不倫まで、フリーセックスしまくった社会からの混乱である。政治家と弁護士でさえ不倫を暴露されたのだから、文部科学省が性教育に乗り出す事は無い。このように美しいとされた映画も反転してしまうのである。この映画は悲劇だと言うところで後世まで救われている面を残してはいる。この映画では、婚前交渉はしたものの、結婚しようと裕福な家から、父と喧嘩して勘当されても結婚しようとしている。
それは残された救いになっている。覚悟はある男のほうの主人公だった。だがそこで、父親側を家側を悪者に見せてしまうような傾向が社会を壊していった。映画でも翻訳で、「父親をからかうな」という戒めのセリフを女のほうの主人公に語らせている。女のほうの父親はものわかりいい男だった。
娘への愛情もあり、男も女の家庭を訪問する場面がある。男女はどちらも神を信じていないと言ってしまった。1970年そういう時代の始まりだった。そして女の父親は優し過ぎた。カトリックなのにそれを容認してしまった。疑問の問いを出したが、女は法的な結婚だと答えた。そして離婚が急増した。現在の日本は神どころか、法までも気にしなくなっている。だがこの映画では神様と向かい合わない結婚でありながら、宗教的な宣言を男女でしている。それを魂と言っているが。実は宗教的だった。倫理的な宣言をした。婚前交渉はしたが、それでも結婚をした。覚悟は通した。ここに過渡期が見える。それから悪い方へ向かってしまった。日本でも昭和45年。フォークソングの『神田川』など、日米で似たような状況の始まりだった。ほとんど文化的に日米は同じ歩みをしている。
私も不完全な思索だから、この男女が結婚してしまった後は夫婦の話としてみるので、二人の関係は、安心して観る事になる。口論しながらも愛し合っていた二人だ。かなり耳にした音楽が時折流れて添えられる。問題が、金持ちの父から勘当されての貧乏な二人の生活と口論にテーマが入る。妻は夫である息子を愛している父親なのだと諭そうとする。細かい事だが、翻訳では電話番号に××が入っていたと思うが、セリフでは数字を言っていたような気がした。意味があるのか。ただ、父親と確執を続ける男は意気地はあったとは思う。ただそうして苦しい生活や男女の口論が生じるのも、個人主義の強さが神のような宗教的なバランスを押しのけてしまったところから来たのがあるのかも知れない。「鍵を忘れたの」。そして決め台詞なのだろうが、「愛とは後悔しないこと」と女が言う。クリスマスのシーンにしてもキリスト教の影響は入っている映画である。1970年製作。結婚は神を介さずにしたのに、後で女が子どもたちに聖歌を教えているシーンがある。このずれが現在の社会的悲劇に繋がっていったのではないか。この映画は結婚前から結婚に至る過程と結婚の方式に揺れが生じてしまっているのを示している。結婚後は仲良し夫婦で幸せな時期もある。むしろ逞しい男になっている。ではなぜ結婚前を揺らがせてしまったのか。一方で、結婚までは順調で、結婚後に不倫からの悲劇というドラマもある。この映画は死別なのだから悪い別れではない。悲しい別れである。離婚は別れたくて別れたいというような安物の喜劇にしかならない。悲しみも無い。
その後、離別が悲しいなどという噓をまかり通していった。欲しければどうしても別れるわけがない。
隠れて不倫しているようなのが共謀して離婚を隠れながら画策して行く。この映画はそれは無い。
子どもが欲しくて医師に診てもらうと、妻の側の不妊だと告げられ、では養子をとると言った後に、妻の不治の病を告げられる。男の辛い気持ち。夫婦後はこの映画は崇高なものになり続ける。僕にできることはと問うと、医師は、「普通に振る舞う事だ」と応じる。閲覧者側は妻の死の過程を想像しながら観ているから、男女の何気ないセリフの一つ一つが悲しく感じられる。この映画では最初からそれは告げられていたが、なぜなのか途中のその宣告後にそれが感じられるようになる。しかし妻は事情を知る。それでも気丈夫である。最初からそういう女だった。残される夫のほうを心配しさえする。夫婦後の病の宣告後は泣ける映画になってくる。結婚後は愛し合っていられた夫婦の高い価値の物語である。ただ婚姻前に性交渉してしまう過程が、1970年という時代に翻弄されている。そこで評価は星1つが減る。妻の治療がしたいために、確執していた大富豪の父親に会いに行く。なぜか父親に本当の事を話さず、大金を借りようとする。父親は追及せずに小切手で出してくれる。「感謝します」と息子は言う。根は善良な息子である。息子が出ていった後の父親の複雑な表情も観るべきところだ。結婚式は神を介さなかったが、葬儀はカトリックで良いのかと夫に尋ねる。実は宗教的な女だった。二人の泣きながらの会話となる。手ごわくいじらしい女だった。男女の永遠の別れの後に息子と義父の短い語り合いがあり、息子の父も駆けつける。そうした描写は、この映画は男とは何だろうかという事も同時に描いていた。そうでなければ、男女のシーンで終えるはずだった。いい女との別れは男にとって辛すぎる。そしてラストは始まりに戻る。