愛の嵐のレビュー・感想・評価
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戦後のそのホテルで支配人をする男性が、元ナチスドイツの親衛隊員で、...
戦後のそのホテルで支配人をする男性が、元ナチスドイツの親衛隊員で、戦前にそのユダヤ人収容所にいたそのユダヤ人女性がそのホテルに宿泊客として来ますが、その出会いでその戦前の昔を思い出し、その元ナチス親衛隊員のドイツ人の男性達がその制服を着て、見守る中、そのユダヤ人女性役のそのシャーロットランプリングが裸でダンスを披露しますが、大島渚が監督したマックスモンアムールという映画にもそのシャーロットランプリング主演の映画がありますが、それがそのシャーロットランプリングとチンパンジーが抱き合う映画でしたが、またマスカラというタイトルのオランダの映画にもそのシャーロットランプリングが主演してましたが、それが姉弟の通じぬ愛のような結末が最期でしたが、その姉役がそのシャーロットランプリングで、その弟が刑事役で地下のゲイバーの舞台でセンターを飾るそのゲイと恋仲ですが、そのゲイの殺人事件があり、その姉の恋人がその容疑者に仕立て上げられて、暴行され傷害を負いますが、その姉のシャーロットランプリングがその刑事でゲイのその弟にその船舶上から詰め寄って、その船舶上からその弟が海に落下して、それが結末でしたが
0101 このポスターは衝撃的だった
1975年公開
シャーロットランプリング♥の名を世に知らしめた名作。
ちょっと華奢なんだよね。
後年じっくり見る機会が出来て
そらオッサンもこんなかわいい子好きにできたら
舞い上がるでしょう。
特に戦争中なら俺の言う事聞けーモードやろうし。
しかし再会してから互いにあからさまに出来ない
過去を持つもの同士になったからの綱引きは壮絶。
やっぱり女の人の方がこうなると強いんだ。
70点
第二次大戦終結から十数年の1957年、オーストリア・ウィーン。 ホ...
第二次大戦終結から十数年の1957年、オーストリア・ウィーン。
ホテルで夜勤のポーターとして働く中年男性マックス(ダーク・ボガード)は、元ナチス元ナチス親衛隊員。
医療班でユダヤ人囚人たちの様子をカメラで撮影していた。
ある日のこと、ホテルに宿泊した著名なオペラ指揮者の妻ルチア(シャーロット・ランプリング)を見止める。
強制収容所の囚人だったルチアは、その美しさからマックスに目を付けられ、彼の奴隷のような存在だった。
マックスの脳裏に過去の行為の数々が蘇る。
ルチアの脳裏にも蘇る。
ルチアにとって忘れてしまいたい過去だったが、マックスに支配された日々は忘れ去ることができず・・・
といったところからはじまる倒錯の物語。
監督は、イタリアの女性監督の草分け的存在のリリアーナ・カヴァーニ。
そんな不条理な、倒錯した愛があるのかしらん、と思うのだが、いわゆるストックホルム症候群に近い状態なのだろう。
強制収容所という死と隣り合わせの環境、その中でのルチアの生殺与奪を握っていたマックス。
逃れようとしても逃れられない、いや、自ら進んで肉体を差し出してしまうルチア・・・
これをアルフィオ・コンティーニのカメラはローキーで写し、カヴァーニは過去と現在を途切れなく繋いでいく。
ただし、あまりにキーが低いので、家庭のモニターで見るには不適切で、何が写っているのかが判然としないシーンも多い。
マックスとルチアの倒錯した愛を阻むものは、ルチアの夫ではなく、元ナチス親衛隊員の面々。
諮問委員会での不利な証言・証拠を隠滅して、戦後社会で生き延びてきた。
彼らにとってルチアは厄介な存在。
元隊員たちは彼女を抹殺しようとするが、彼女を守りたいマックスは、ふたりしてマックスが暮らす粗末な部屋に籠城する・・・
この後半の展開はよくわからない。
早々に逃亡して姿を消した方がよくないか、と思うのだが、金もなく、追手から逃げおおせるとは思っていないということなのだろう。
食料も尽きて、精魂尽き果てたところでの逃亡・・・
幕切れは切ないが、ややメロドラマ寄りになってしまったか。
シャーロット・ランプリングの美しさ、ダーク・ボガードの粘着性。
ふたりに代わるキャスティングは思いつかないなぁ。
恐ろしいことを共有する濃密な絆
狂気、というものを経験したことがないから、すべては想像でしかない。狂気に落ちて「あの時私は狂っていました」と振り返るようなものではないんだろう。
恐ろしいのに素晴らしくも思う。「愛」と一言で言うには不足しているようにも、過剰にも感じる。その複雑さが興味深い。
歳を重ねてからのシャーロット・ランプリングしか観たことが無かったので、中性的なのに肉感的で、清純で高潔なのに蠱惑的でもあるルチアの存在感は素直に凄いと思った。
今は完全にお年を召されているが、内側から滲み出る迫力みたいなものはこんなに若い時からあったんだな。
不正行為の三要素、というものがある。
「動機」「機会」「正当化」の3つが揃ったとき、不正行為が発生する、という考え方だ。
「愛の嵐」で描かれる退廃的な愛の狂気は不正行為とは異なるが、良識の範疇を外れてしまう、という意味においては共通する部分があるように感じる。
マックスとルチアが出逢った時、マックスはSSの高官でルチアは収容所の少女だった。マックスにはルチアの生殺与奪権があり、ルチアには生きる権利すらなかった。
性的な欲望という動機と、立場の違いという機会をナチズムが正当化した環境で二人の関係は始まる。
この正当化はルチアにも大きく影響し、生存のための戦略が逢瀬を重ねる毎に歓びへと変わっていった事は想像に難くない。
快楽という意味だけでなく、自分は特別なのだという歓び、相手を支配できる力への歓び。
マックスはルチアのためにルチアの嫌った男の首を捧げ、ルチアはマックスを誘惑するように歌い、踊る。
戦後全く異なる立場で再会したとき、二人は互いに戦慄したはずだ。地味ながらに平穏な毎日を脅かす存在。忌まわしい過去から逃れ、何不自由ない生活を脅かす存在。
しかし、それとは全く逆の、背徳にまみれ、ただ愛しあうことに没入した日々は、抗いがたく二人を誘う。危険だとわかっていても止められない。
その感覚は私にはわからない。ただ、もし体験したら私だって踏みとどまれるとは言い切れない、そんなヤバさを感じる。
猫とシンクロするようなルチアの佇まいが、もはや人間性や理性が遥か彼方へと追いやられてしまったようでゾクリとした。
ナチスドイツの軍服を見るたび、カッコいいと思う。そして、「カッコいい」なんて思ってはいけない、と思う。
悪いとされていることに、強烈に惹かれる経験は誰にでもある。
愛した男の首を求める「サロメ」の物語が何度も上演される名作であるように。
幸いにも道外れたことのない私には、マックスとルチアの愛の終焉を、安全な手すりの内側から固唾を飲んで見届けることしか出来ない。
人間って・・・
収容所で美貌のため将校に目を付けられ、収容所で死なずに生きて、戦後解放された少女。戦後、証人を消しながら生きていく元将校たち。戦後のヨーロッパの日常の裏側を描いた秀悦な作品。あのサスペンダー姿で歌う歌詞がすべてを表現してます。愛欲に溺れた男女の物語って言う単純な映画ではない。ウイキペディアで愛の嵐の時代背景などを一度読んでから、この映画を見れば見方が変わると思う。
濃密でえらいものを観てしまった
再会するまでは過去にあったことを
隠して、忘れて過ごしたいと
願っていたはずなのに、
会ってしまったらもはや歯止めが効かなくなった情愛。
実際に傷を負ったり、
あるいは暴力をふるいもするが
常に彼らは血の匂いが付きまとう。
将校のほうが強いはずだが、
支配権は少女のほうにあった。
彼は喜んで自分の魂を差し出したのである。
これは愛というのかどうなのか、困るところだけれども
運命には違いない。
まさにサロメだ。
ラストでもわかるように、
二人が生きていたのはナチス政権下の時であり
あの時以外は息をしてても死んでたようなものだった。
ある意味満足した終末だったのだろう。
好きかと言われればうんとは言えないが、
一度見たら忘れられないものなのは確か。
邦題が合ってない、損してる。
難しそうな変な邦題のせいで、
もっと難しい話かと思ったら、思ってたより、観やすくて、面白いです。
主演の女優が気になって調べてみたら『ベネデッタ』に出てた!
『地獄に堕ちた勇者ども』『エンゼル・ハート』『デューン』(リメイク)…
この方の出てる映画は他にも数本観てたけど、今作で初めて認識。
覚えときます(笑)
大事なセックスシーンをカット、局部のボカシも大きく入ってるのが、この通常版らしく、
それを取っ払った完全版が存在するらしいので、完全版を観なきゃと思います。
どっちみち、もう1回観たいので。
つまり、けっこう面白いです。
でも、センスない邦題。
邦題で損してる映画です。
「愛の嵐」という邦題は、「夏の嵐」を思い出した日本の配給会社の宣伝マンの類い希な才能が付けたものだと思います 見事です
心を鷲掴みにされました
男と女の究極の愛
だが、これが果たして愛といえるものかどうか分かりません
本作といえばあのポスターのビジュアルのインパクトでしょう
ナチ親衛隊の制帽を被り、上半身は裸
軍服のぶかぶかのズボンをズボン吊りで履く
その下の下着も履いていないのは明らか
薄い乳房がそのズボン吊りのバンドのしたにある
髪は短く刈られ男の子のよう
極度の栄養失調であばらの浮く、細い少女の体型
革の長い手袋
その姿で酔ったナチ親衛隊将校達の中で踊る
なんと背徳的で退廃的な映像でしょうか
サロメのエピソードはその直後にあります
ほとんどの宗教絵画はサロメが所望した聖ヨハネの首が皿に乗って描かれています
本作ではダンボール箱でした
それを観た時のルチアの表情!
恍惚の笑みなのです
自分の望みをここまでして叶えてくれた愛の証
ユダヤ人絶滅収容所の囚人とナチ親衛隊の究極の倒錯した愛
愛なのか?、そうでないのか?
戦後12年経って、過去を偽って日陰で生きる男、解放され優しく裕福で紳士的な夫を得て幸せに生きる女
会ってはならないし、互いに会いたくも無かった
なのに強烈な磁力のように引き合い、愛に狂ってしまう
暴力的に扱われて人の尊厳を剥ぎ取らたときにむしろ喜びを感じてしまう
愛ではないはず
なのにルチアには自己を解放されてのびのびとしている
ラストの道行きは心中の旅路でした
これは愛の成就なのでしょうか?
二人に取ってはそうだったのです
抗えない愛であったのです
正に「愛の嵐」です
理性もなにもかも全てを吹き飛ばしてしまう愛の暴風雨です
身体の中の熱くうずく芯が求める欲望がそう肉体を突き動かしてしまうのです
その意味で1955年のヴィスコンティ監督の「夏の嵐」と同じです
その映画の原題は「官能」邦題は本作と同じく理性を官能が吹き飛ばしてしまった熱い嵐を表現したものでしょう
本作の「愛の嵐」という邦題は、その「夏の嵐」を思い出した日本の配給会社の宣伝マンの類い希な才能が付けたものだと思います
見事です
原題は「ナイト・ポーター」
ウィーンのホテルの夜間受付人の意味です
なんの味わいもないこれよりも邦題の巧みさと味わいが際立っています
【”命を懸けたForbidden Love”シャーロット・ランプリングの灰色の瞳と、ナチス帽を被ったトップレスサスペンダー姿が印象的すぎる作品。】
ー シャーロット・ランプリングという稀有な女優を知った作品である。今作を演じた時は御幾つだったのであろうか。
ナチスのSSだったマックスとの愛。それは、生き残るための表面上の愛だったのかもしれない。
だが、戦後、元SS達がヒッソリと暮らす中、ルチア(シャロート・ランプリング)は著名なオペラ指揮者の妻として、マックスが働くホテルに投宿する・・。
数年ぶりに出会った二人の間に沸き上がった想い。ー
◆感想
・シャーロット・ランプリングの憂愁を帯びた、灰色の瞳には、毎回魅入られる。
私が観た映画「レッド・スパロー」「さざなみ」などでは、一切笑顔無く、怖い教官や、齢を重ねた深い憂いを、眼で表現していた。
ー 私の中では、あの瞳に拮抗しているのは、エヴァ・グリーンだけであると思っている。瞳の色は違えど、雰囲気が似ていると思う。ー
・余りにも有名なナチス帽を被ったトップレスサスペンダー姿で、ナチスの宴で振舞う若きショートヘアのルチアの姿。
・年を経て、元SS達が、自分の身を保つために、行っていた事。
それを知りつつ、ルチアはウィーンに一人留まり、マックスも制止の声を聞きつつ、ルチアとの禁断の恋に、陥って行く。
<橋上で二人を襲う凶弾。
だが、それを覚悟の上での禁断の恋だったのであろう。
戦中の禁断の愛が、年月を経て真の恋になって行く。
Forbidden Loveと言えば、「戦場のメリー・クリスマス」のヨノイ大尉(坂本龍一)と、英国将校のジャック・セリアズ(デヴィッド・ボウイ)の姿を彩るメインテーマが脳内を過るが、デヴィッド・シルビアンがあのテーマに歌詞を載せて歌った「Forbidden Love」を思い出してしまう。
忘れ難い作品である。
近作の「DUNE/砂の惑星」に登場した、年老いたシャーロット・ランプリングの姿を見ても、”流石だなあ・・”と思ってしまったなあ・・。>
あり得ない内容だが何故か心に焼き付いた映画。
どこか寂しげなウィーンの町並みが舞台のこの映画、なぜか心に残る映画となりました。
この映画を批判する人は数多くいる事も承知しております。
当然被害にあった人達を考えれば当然と思えます。
ナチスに酷い目にあったルチアがなぜ?
理解出来ない事も起こり得る事はしばしばあります。(理解出来ない動物!それが人間。!)
何もかも捨て去り、悲劇の終焉に向かって行く生き方が理解しにくいがそれが官能の魅力に取り付かれた二人の生き方なのだろうか?
私の心の底には「うらやましさや憧れ」があるのかもしれない。!
ちょっと笑えた(不謹慎かもしれないが)シーンは主人公のダークボカートが元親衛隊員達と別れる際手を上げて「ハイルヒットラー」と言うと吊られてナチ式敬礼をしてしまう所はつい過去の習慣が出てしまう。
このシーンと似ているのが、「博士の異常な愛情」のラストシーンで博士がアメリカ大統領の前で高揚した気持ちを抑えきれずナチ式敬礼をしようとする所だ。
親衛隊の帽子を被り吊りズボンを履くルチア(シャーロットランプリンク)が歌いながら踊るシーンは本当にカッコ良く見える。!
後のアーティストに強い影響を与えたのも頷ける。
背徳的なシーンだが見いってしまいこのシーンは良くも悪くも映画史に残るシーンと思う。!
ラストの銃撃で倒れる二人は、それまでの愛憎劇の報いなのだろうか?
でも、切ないが美しい死に方に見えました。!
※ジョニーデブさんへ
リクエストに答えて頂きありがとうございました。!
まさに禁断の愛
この映画を見て「近松物語」と「聲の形」を連想した人はまず私ぐらいしかいないと思う。でも、特に「聲の形」については、いじめられる者といじめた者が恋愛関係になる点が、「愛の嵐」では、迫害を受けた者と迫害をした者が惹かれあうという点で似てると思う。
原題はnight porterで主人公の職業のことだ。ホテルの夜警として働いている主人公(ダーク・ボガード)は、実は元ナチス親衛隊であったが、それを隠すためにひっそりと生活しているのであったが、ある日シャーロット・ランプリング演じる女性と再会してしまう。実は彼女は戦争中に彼によって性的な迫害を受けていたのである。彼女は再会最初は彼を拒否していたものの、次第に彼に溺れてしまう。この展開は私には理解できない。ただ、この展開こそがこの映画のメインテーマなのであるが。ちなみにこの映画の監督は女性である。
彼女(シャーロット・ランプリング)は、彼と同じ元ナチス親衛隊たちにとっては招かれざる客だった。彼らにとっては彼女の存在そのものが、自分たちの存在を脅かすものだったのである。
全編退廃的ムード満載の中で物語が進行していくが、結構引き込まれてしまう。 若い頃のシャーロット・ランプリングは、この映画と「地獄に堕ちた勇者ども」が彼女の良さをよく引き出していた映画だと思う。映画史上、退廃的ムードがいちばん似合う女優ではないだろうか。その次がドミニク・サンダかな。
最後、ある程度は想像していたものの(心中か殺されるか)、やはりちょっと切なかった。雰囲気的に「聲の形」のようなハッピーエンドにはなるわけないが。
安易に高評価してはいけない危うい作品
1974年にイタリアで制作された映画。
倒錯した愛に溺れる男女が描かれていて、題材を無視すればストーリーは良い。ただ、取り上げられた題材、制作国を考慮すると素直にこの作品を人にオススメできないし、話題に出すのは危険な作品。
間違いなく今の世の中では制作できないし、仮に公開されたとしても非難の嵐になってしまうだろう。ホロコーストを扱い、ナチス側の人間とユダヤ人の恋愛をイタリア人が描いているからだ。
しかも、舞台はオーストリア、主人公の名前もドイツ的なので、加害者国の監督が自国は題材にしないでナチス側の人間ととユダヤ人との恋愛を描いたことになる。ついでに言うと男性側が女性に対して非人道的暴力をふるっている中で女性は愛に目覚めているので、まず今の世の中には受け入れられないだろう。
通常は愛情が芽生えない状況下での恋愛物語に観客は惹かれるのだろうか。公開当時はどんな声が上がったのか。観ながらそんなことばかりを考えていた。
日本だと軽く取り上げられ、そしてたまにそれが問題になる「ナチズム」や「ヒトラー」。ドイツ研究をしている人によると、『帰ってきたヒトラー』や『ジョジョ・ラビット』などが公開されるようになったのは、時代の転機だそうだ。一昔前ならありえない、アンタッチャブルな領域。それがナチスだった。(それ故に最近はその動向を研究している人がいて、2019年には『ナチス映画論』が刊行されている。)
1975年に国内の雑誌の特集でこの映画がベストテンに選ばれたことも驚きの一つ。
ロミジュリぐらいの架空のお話だったら(かつ暴力シーンが無ければ)、
好きになれた映画だったけど、ここまで現実を扱ってしまうと好きにはなれなかった。ただ、考えさせられるという意味では一度観て良かったと感じている。
ストックホルム症候群?戦争、強制収容所などの体験でカラダに染み着い...
ストックホルム症候群?戦争、強制収容所などの体験でカラダに染み着いてしまったのか。デカダンスとはこういうものって感じの映画でした
女性監督の感性と厳しさが描く、ナチズムの亡霊
女性監督リリアーナ・カバーニの粘着力のある愛欲描写が話題になった戦後ヨーロッパが引き摺るナチズムの亡霊。ダーク・ボガードが「ベニスに死す」に迫る名演を見せる。シャーロット・ランプリングの大胆な肉体表現は「さらば美しき人」から更に進化して、女優魂と演技力を兼ね備えた女優として存在する。このような倒錯した愛のドラマを観ると、「ラストタンゴ・イン・パリ」の影響が大きいと思うが、演出の厳しさの点では遥かに上回る。ただ、ラストのふたりの決着の仕方が奇麗事に見えるのだが。愛に殉死する姿を映画的な見世物にした点で評価は少し下げる。
印象的な映画
以前に観た事があり、久しぶりにまた手に取った。10代の少女から30代の人妻を演じ全く違和感のないシャーロット・ランブリングがすごい。
強制収容所で出会った二人が再会して禁断の
愛欲に溺れ込む。二人には周囲は見えない。
もう後戻りできない。
印象に残る映画です。またいろいろシャーロット・ランブリングの映画を観たくなりました。
ダーク・ボガートの名演を堪能するだけでも観る価値のある映画だが、戦争から人間が受ける傷を“性”という面から描いた悲劇。
①戦争の恐ろしさをSEXを通して描いた映画と言えるが、高校生であった私に何より「SEXとは時と場所によっては恐ろしいものになる」というトラウマを与えた映画です。②第二次世界大戦の余韻を深く残すウィーンの夜。あるホテルの夜勤のフロント係(英語題名になった「night porter」ですね)を務めるダーク・ボガート。いつもと同じ夜になる筈だったのに、若き気鋭の指揮者に率いられたオーケストラの一行が投宿してきて、その指揮者の美しい妻を見た瞬間のダーク・ボガートの表情。そしてほぼ同時にダーク・ボガートに気づいた妻のシャーロック・ランプリングの表情。一瞬見つめあい、そして直ぐに目をそらす二人。何故なら二人は二度と会ってはならない筈の二人だったから。この二人の邂逅のシーンがまず忘れがたい。③男は元ナチスでユダヤ人収容所の幹部だった。ナチ狩りを逃れるためにホテルの夜勤のフロント係をしている。女は収容された時に見初められて男の性の玩具となった。当時少女だった彼女が命欲しさに男の要求を受け入れたことは想像にかたくない。④男としては女は自分の前身を知っている。生かしておくわけにはいかない。女としては男は自分の過去を知っている。夫や世間に知れるわけにはいかない。そんな二人なのに、二人きりになった時、驚くことに倒れ込み激しく互いを求めあう。まるで“あの頃”に戻ったように。⑤賛成する人は少ないかもしれないが、私は二人の間に恋愛感情はなかったと思う。逆に女の方には憎しみの感情すらあったかも。しかし、理性や感情を押し退けて互いの身体に刻まれた“官能の記憶”が二人をどうしても求め会わせてしまう。善悪も自己保身の意識も越えて。身体があの頃の性の快楽・快感・悪徳を貪りあった日々を忘れられない。⑥そんな男女の性の機微・生理(そんな言い方が妥当かどうかわからないけれど)を、ダーク・ボガートは最近の表現を借りれば息を呑む“神”演技で魅せ、シャーロット・ランプリングは演技力では敵わないものの、あの“目”あの“顔”あの“肢体”で具現化して見せる。(現在でも第一線で活躍する息の長い女優人生を送っていることに少々驚いているが)。とにかく彼女の存在がなければこんなにsensualな映画にならなかったことは確か。⑦映画のあちこちで挿入される二人を巡るエピソードにもヨーロッパ映画らしい退廃的な描写が散りばめられている。⑧男はが裏切りのために、女はもちろん口封じのために命を狙われることとなり、アパートから出られなくなる。外へ出られない二人は最後には人間の二大欲望である食欲と性欲とを、半ば互いに分け与えるように半ば自分だけ独り占めするように貪り合う。⑨そして、食料も尽きた時、二人は収容所で出会ったときの格好(男は軍服、女は少女もののワンピース姿)で外に出る。勿論、そんな衣服をほぼ監禁状態のアパートの中に持っているわけもなく、イメージ映像だとは思うが二人は結局“あの頃”から逃れられなかったわけだ。そして響き渡る二発の銃声・・・⑩戦争の傷跡をこんな切り口で語るなんて流石ヨーロッパのそれも女性監督と感心した覚えがある。⑪ところで、シャーロット・ランプリングがこの映画に先立つこと2~3年前に出演した、兄と近親相姦した上に婚礼で生きたまま心臓をえぐりとられて殺されるという凄まじい役を演じた『さらば美しき人(原題:哀れ、彼女は娼婦)』を配信してくれる奇特なところや上映してくれる大阪のミニシアターはないですかね(勿論コロナ禍終息の後に…)。
Wenn ich mir was wuenschen duerfte, ... の歌が胸に刺さった
シャーロット・ランプリングに初めて出会った映画。学生の時に友達と見に行った。友達はクールだったが、私は、興奮覚めやらぬ状態で、ずっとしゃべっていたような記憶がある。
イタリアの監督だから、ナチを題材にしても、こういう映画作れるんだろうな。ドイツでは絶対に作れないだろう。
音楽も衣装も、シャーロットの顔も、若いときも指揮者と結婚してからも、全てが素敵。バレエダンサーが、たった一人の「観客」を前にして踊る場面も鬼気迫っていた。
退廃の愛の形
噂には聞いていた本作。ポスターなどで何度も目にしたあの映像はどのようなシーンであろうか?
というような気持ちで映画館へ。
1957年のウィーンが舞台。第二次大戦が終結して12年後ぐらいか。その辺りの歴史認識がないとわかりにくいかもしれない。
ダーク・ボガードの日常と徐々にその実態が明らかになっていく過去がフラッシュバック。
セクシャルでありつつアブノーマル。オペラに乗せた見せ方も上手い。
なんといってもシャーロット・ランプリングの存在感が凄い。
痩せてアバラが浮き出た体躯に控えめなニップルを早々に披露。
ラブシーン(というか愛撫)の長まわしショットなどまさに体当たり。
ナチス将校との視線の絡ませ方で全てを語る演技も素晴らしい。
政治的側面からということで言えば、ナチスを描くというよりは愛欲の形を描くのにそこが必要だった という風に思えた。
調べてみるとこれ製作は1973年のイタリア映画で監督は女性であった。当事どのような評価をされたのか今更ながら気になる。
ヨーロッパの退廃はヘヴィだなと感じる作品です。
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