トニー滝谷のレビュー・感想・評価
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かつてこれほど成功した村上文学の映画化があっただろうか
「トニー滝谷の本当の名前は、本当にトニー滝谷だった」。西島秀俊のナレーションがこの原作の書き出しを作品内に響かせる時、一瞬にして透明感に満ちた世界が広がった。単なる純粋無垢な透明でなく、どこかひんやりと冷たさが残る、青みがかった白。個人的に原作からは灰色の世界をイメージしていたところがあったので、この色彩は逆に鮮烈だった。出演者は最小限。むしろ言葉と音楽と、人と舞台との親密なセッションを見ているかのようなところがある。ここで舞台と書いたのは、本作が実際の建築物ではなく、丘の上に設営されたセットで撮影されているから。窓の外に余計なビルなどが写りこまず、自然光を十分に取り入れるためのものだ。市川準監督はここまでして世界観を作りこまないと村上文学のあの唯一無二の特殊さは表現できないと考えたとのこと。ただ、ラストは少しだけ変わっている。この映画には監督の優しさと慈愛が滲み出ている。そんな気がした。
ああこの感じだ
孤独に慣れていたイラストレーターのトニー滝谷は、英子に惹かれ結婚。幸せに暮らしていたが、妻は買い物依存症で高価な服を買ってしまう。そんな時に、彼女が急死。再び孤独になったトニーだったが、妻にそっくりな久子をアシスタントにし。
いくつかの作品を呼んでいるだけで、特に村上春樹のファンではありません。村上作品を読んだ時に想像する色や音を、ぴったり表現していると感じました。もしハルキストの人たちが同様に感じているのなら、自分の読み方は間違ってなかったと判断できそう。
孤独
孤独とは何か。
孤独を自覚していなかったのに、特別な他者の存在によって自分の孤独に気づいてしまったら。
でもいつか必ず別れはやってくる。
孤独に気づくことは、幸せなことなのだろうか。
坂本龍一追悼企画として、35ミリフィルム上映を観た。ノイズが新鮮だった。
あー、ちょっと前はこんな感じだったよなぁ。
観終わって、すぐ原作を読んだ。
映画の結末でも、原作の結末でも、どっちでも良い、というか、納得できる、と思った。
【村上春樹氏の作品の世界観を見事に可視化した一品。坂本龍一の美しいピアノ曲を背景に、一人の男が抱えていた孤独感と、美しき妻を迎えた喜びと、喪った悲しみを抑制したトーンで描いた作品である。】
ー 村上春樹氏の作品の映像化作品は、多くない。
勝手な思いだが、作品自体の世界観が屹立していて、映像化しにくい事と、長編が多い事だと思っている。
私の中で氏の映像化作品としては、「ハナレイ・ベイ」「バーニング 劇場版」「ドライブ・マイ・カー」が印象的であり、特に秀逸なのは、濱口竜介監督が、短編三作を編み込んだ「ドライブ・マイ・カー」であると思っている。
韓国で製作された「バーニング 劇場版」も良いし、「ハナレイ・ベイ」も良い・・。(全部じゃん!と言わないで・・)。
で、今作であるが、初鑑賞であるが、とても良かった作品である。-
■孤独でも平気だと思って生きてきたトニー滝谷(イッセー尾形)はある時、1人の美しい女性(宮沢りえ)に恋心を覚える。
彼女が妻となり、彼の人生の孤独な時間は終了したが、束の間の幸福は妻の事故死で失われてしまう。
残ったのは、彼女が虜になっていた、衣装部屋いっぱいのサイズ7の服だけだった…。
◆感想
・率直に書くが、坂本龍一の美しいピアノ曲を背景に、孤独だった一人の男が抱えていた孤独感と、美しき妻を迎えた喜びと、喪った悲しみが見事に可視化されている作品である。
・西島秀俊の抑揚のない、ほぼ原作に忠実なナレーションも効果的である。
ー 当然、「ドライブ・マイ・カー」を想起させる。-
・登場人物は、イッセー尾形が演じるトニー滝谷と滝谷省三郎、そして美しき妻と妻に似た女性のみである。シンプルであるが、それが良い。
ー 村上春樹氏の作品も、そうではないか。-
<私は、ハルキストではないが、学生時代から氏の作品を愛読している。(全てではない。)
が、つい最近も書店に行った際に「猫を捨てる 父親について語るとき」を見つけ、速攻で購入した。
(コロナ禍以降、アマゾンでCDや本を購入する事は止めた。本屋に行って、多くの本の中から時間を掛けて本を探す喜びを思い出したからである。)
今作は、村上春樹氏の作品の世界観を、ミニマリズム的に表現した作品であると思う。
モノクロームに近い色彩、過剰な演出を抑えた作風。
シンプル・イズ・ベストという、手垢の付いた表現があるが、今作はその垢を落とした”シンプル・イズ・ベスト“な作品である、と私は思います。>
ストーリーテリングが巧み
村上春樹の短編が原作です。
この独特のストーリーはやはり天才のもの。
主人公のトニー滝谷。その名の由来を聞いただけで、
掴みは完璧です。
トニー滝谷は日系2世か3世の日本人で、実在する高名な芸術家である。
殆ど信じそうになりました。
トニー滝谷(イッセー尾形)の父親は、渡米もしたことのあるジャズ・トロンボーン奏者。
母親はトニーと名付けられる前、出産後3日で亡くなります。
省三郎の友達の進駐軍の将校がトニーと名付けてくれる。
幼少期、トニーの父親は巡業で殆ど留守です。
孤独な少年を慰めたのは絵を描くこと。
幸い絵の才能があり、トニー滝谷はイラストレーターとして成功します。
孤独癖は相変わらず抜けずに、中年になります。
そんなある日、《風のように洋服をまとう女性》蓉子(宮沢りえ)が編集者として、
トニー滝谷の作品を受け取りに来ます。
トニー滝谷は蓉子に恋をします。
幸運にも結婚に至り、トニー滝谷は孤独をしばし忘れることに・・・。
しかし、妻を失ってまた孤独になったら耐えられるか?と新たな恐怖に駆られます。
蓉子は洋服に精神を蝕まれた女でした。
ブランド物の洋服を際限なく買い漁るのです。
やがて部屋を建て増す程に増えて、蓉子もトニーも、途方に暮れることに。
トニーが、・・・買い物を控えたら・・・と遂に言いました。
洋服を返しに行った蓉子は、返したコートとスーツのことで頭が破裂しそうになります。
そうしてハンドルを切り、車は今来た方向へ急転回します。
事故でした。
蓉子は事故死してしまいます。
2005年。監督:市川準。74分と短いです。
この映画はイッセー尾形と宮沢りえがふた役を演じています。
イッセーはトニーと父親の滝谷省三郎を。
宮沢りえは妻の蓉子と、トニーが妻の身代わりに残した洋服を着る女の、ふた役を。
市川準は宮沢りえの顔を左半分を写すことが多かった。
宮沢りえは佇まいの美しい妻の蓉子と、素朴で心優しいアルバイトに応募する女性を、
見事に変化を付けて演じています。
イッセー尾形は孤独で心を閉ざした中年男性にはピッタリでしたが、
宮沢りえには不釣り合いな夫に見えてしまった。
愛し合っていないから心の隙間を埋めるために、買い物に依存する?
多分それでは普通すぎると思う。
トニー滝谷は妻の衣類を売り払い・・・
2年後に亡くなった父親省三郎の形見の古いジャズレコードも売り払う・・・
その結果としてどうしようもない喪失感と孤独に襲われるのだった。
自分がすっからかんの空っぽに思える。
洋服、レコード(着物、本、靴、バッグ、宝石などなど・・・コーヒーカップのコレクションや、
その他、茶道や華道のお道具など心を砕いた品々)
物質とは心の隙間を埋める《なにか》かもしれない。
あまり断捨離などを進めると心も空っぽになるのかも知れない。
不思議な余韻の映画でした。
よく分からないけれど、トニー滝谷の孤独が、身に染みました。
村上春樹のパブリックイメージをそのまま落とし込んだ作品、まるで鉱物の様に
原作未読。私にとって初の村上春樹原作の映画。彼の作品のパブリックイメージそのまま落とし込んだような深い作品。1万円はしそうな舞台を観ているような気分だった。
孤独な男、トニー滝谷。彼に滲む孤独の背景と生き様を淡々と綴る。語りとセリフ、音楽がモノトーンでありながら、咀嚼できぬ重みを乗せてストーリーを彷徨っていく。右から左へ流れる映像は、過去から未来へと続いていく無情さに写り、思い出して立ち止まった時の彼の背中は、どこか儚くも思えた。
そんなトニー滝谷を演じるのはイッセー尾形。なんだか不気味でありながら、作品の色を作れてしまう天才的な俳優だと惚れ惚れする。そんな滝谷の相棒となる女を演じるのは、宮沢りえ。透明感の中に潜む空っぽな心が時々顔を覗かせる。行動に意味ありげなモノすら感じられて、ますます重い。また、語りが西島秀俊だったことが意外だった。『ドライブ・マイ・カー』の予習がてらこの作品を選んだので、ラッキーとは思った。ただ、ホントに異質な匂いのしてくる作品。
このあと色々と考察を漁ってみようと思う。なぜこの作品が評価されているのか、漠然とした感情しか掴めていない自分に問いながら観てみたいと思う。鉱物のような硬い映画だった。
【遺された…】
今日、2021年8月20日夕方に観に行く予定にしている村上春樹原作の「ドライブ・マイ・カー」も、この「トニー滝谷」も、妻を失うという話がベースになっている。
この「トニー滝谷」は、なかなか上手い表現は見つからないが、村上春樹作品の雰囲気を非常によく伝えているように感じる。
短編をモチーフにして、物語の幅を大きく広げて作られた作品はあるが、これに対して、「トニー滝谷」は、雰囲気が非常に村上春樹作品的なのだ。
そして、この作品を特徴付けるのは、故人の遺したものと向き合うというところではないのか。
妻の遺した膨大な洋服。
父の遺した貴重なレコード。
それらは、故人そのものなのだろうか。
それとも、故人の何か生きた証のようなものなのか。
或いは、故人を補完するもの…。
家族を失った喪失感、或いは、故人と向き合うというより、遺されたものに囚われてしまうことで感じる孤独。
処分してしまったところで、その意味を考え続けることからは決して逃れられず、それは、まるで、亡霊のように付き纏う。
そして、もう一つ、残された自分自身は、彼等にとって、どのような存在であったのか。意味はあったのか。
自分も遺されたものであることに違いはないはずだ。
ずっと、考え続けなくてはならない。
洋服やレコードは、実は、遺された自分自身のメタファーではないのか。
村上春樹作品に、よく取り沙汰される喪失感や孤独といったものと少し異なるフレーバーが加えられた作品のように感じる。
オウムのテロや、阪神淡路大震災を経たから、少し作風が変わったという人もいたりするが、それは、作品を読んだ人や、こうした映画を観た人が、それぞれ感じるものだろう。
ただ、エピローグに加えられた原作にはない部分に、映画としての解はあるのかもしれない。
結局、答えを見出せず、愛した人の幻影を、人混みのなかに探してみたり、見つけてしまうことは、僕にはある。
トニー滝谷の名前は、本当は“トニー谷”を参考にしたのではないのか?予告編を初めて見たときには、すっかり“トニー谷”の伝記だと勘違いしていた
父正三郎のシーンや、全編に渡るオフィスと小高い丘を上手くとらえた外の映像。孤独を表現するかのような坂本龍一のピアノのメロディ。これがトニーに内に潜む心理変化(孤独の時代と、幸福であっても孤独になったときの恐怖)に妙に合っていた。また、衣装部屋のブランド物で埋め尽くされた華やかさと、売り払った直後のがらんとした様子の対比。一瞬、独房で臥していた父正三郎のシーンをダブらせるところでは、座席の後ろから“孤独”という幽霊に抱きつかれたような奇妙な感覚に陥ってしまいました。75分という短い映画であるにもかかわらず、登場人物の心の波が押し寄せてくるとは、見事な映像表現でした。
原作も脚本も知らないのでわからないのですが、募集広告でやってくる久子(宮沢りえ二役)は妻英子と瓜二つだったのでしょうか?彼女を面接したときのリアクションから察すると、驚きの表情が全く感じられなかったのでそっくりじゃないと思ったのですが、もしそっくりだったのなら、ラストのシーンでのトニーの思いきった行動も若干違った心理になると思うのですが・・・
「2005年5月映画館にて」
えがお泣き顔
満たされた幸せな生活は恐怖である
永遠には続かないから
幸せも不幸せも自身の受け取り方で度合いが変わる
他人の目はその他の自身の受け取った感情でしかないし
一般的と言われてもよく分からない
トニー自身もどっちが幸せで不幸せだったのか
「やはり君はつまらない人だ」という奴がいる
どちらも変わりないのかもしれない
確かに温もりのある暖かい家庭もいい
クソ真面目でクスリとも笑わない一家だって安定していれば「幸せ」と感じる人もいるだろう
笑うことが「人」なのか
真面目が「人」らしいのか
多分その両方なのだと思う
孤独にいたっては最初からひとりぼっちならまだ辛くはない
彼のように経験してしまうと後の孤独は地獄だ
温もりを忘れられなくなり求めるようになる
機械ではなく思い悩む「人」になったのではなかろうか
過小評価されている映画
市川準監督の『トニー滝谷』を観た。観るのはこれで恐らく三度目になる。七十分ほどの小品だが、その分細部まで細かく作られているという印象を受ける。私はかつて村上春樹氏のファンだったことがあるので原作となる短編小説「トニー滝谷」も読んでいたのだけれど、それでもなおこの映画化に関しては「失敗作」「駄作」という印象は感じなかった。手放しで褒められるほどの出来か、と言われれば返答に困ってしまうのだけれど、少なくともつまらなくはない。村上春樹氏の上品な世界を卒なく映画化しているな、という印象を感じさせられたのだった。
スジを改めて荒く紹介するなら次のようになる。終戦直後に生まれた主人公は、父親の滝谷省三郎と親交が深いアメリカ将校によってトニー滝谷という名前をつけられる。その風変わりな名前によって孤独な少年時代を過ごし、青年になってから後にイラストレーターとして活躍することになる。彼は相変わらず孤独を愛好する大人として育つのだが、運命的な女性との出会いを果たして結婚することになる。しかし、彼女は病的なまでに洋服を買い漁る悪癖を備えていた。トニー滝谷はその買い物依存症を窘めるが、ある日彼女は自動車事故で亡くなる。トニー滝谷はその心の空白を埋めるべく、妻と同じ体型のアシスタントを雇い妻の服を着ることを条件として働かせる……これがプロットである。
改めて観直してみたのだけれど、やはりイッセー尾形氏の演技が冴えていると言えるだろう。良い意味でも悪い意味でもアクのない、マッチョらしからぬ(村上春樹作品特有の)男の主人公を巧みに演じていると思う。それでいて繊細に過ぎるというところもない、イッセー尾形氏らしい存在感を湛えている。役を食っているというか、原作の雰囲気を台無しにすることなく、しかしそこはやはりイッセー尾形氏らしい演技で魅せるのだ。大した起伏のあるスジではないが故に、その「何処を切ってもイッセー尾形」という安定した演技はなかなかのものと思わされる。
しかし、やっぱりこの映画を支えているのは宮沢りえ氏ではないかと思う。今回改めて観直してみて彼女がひとり二役という非常に難しい演技に挑み、要求されているハードルをクリアしていることに驚かされるのだ。初見の時はなんの予備知識もなかったため別人だと思っていたということは以前にも書いたが、今回観直してみても同一人物だとはなかなか信じ難い。役割をドラスティックに変えているというのではないのだけれど、それでも二面性が巧く引き出されているように感じさせられる。これは監督の腕に拠るものなのだろうか?
私は映画をどうしても「スジ」からしか語れない弱みを備えているので、次々と紙芝居のように場面が転換して行くこの映画特有の語り口についてはなにも語れないのだった。だから結局はこの映画をどう解釈するかという方向に話が向かってしまうのだけれど、この映画は(他の村上春樹作品と同様に)「孤独」であることをどう描いた作品なのかというところに行き着くのではないかな、と思うのだ。トニー滝谷は孤独な人物として生きて来て、妻との出会いにより「孤独」であることからは逃れられる。だが妻の事故死によりまた「孤独」であることを強いられる。その「孤独」を際立たせるものとして妻が残して行った夥しい数の服が描かれるのではないかと思うのだ。誰からも着られることのない衣服。これほど存在価値を失った「孤独」を象徴するものもない。
若干ネタを割るが、アシスタントとして雇った女性も解雇されてしまい、父親の滝谷省三郎とも死別してしまう。あとに残されたカビ臭いヴィンテージもののレコードを売り払うと、今度こそトニー滝谷は独りぼっちになってしまう。その途方もない空虚感が、この映画の鑑賞後の気分を重くさせる。明確な希望が描かれるわけではなく、絶望というものも描かれない。まさにどっちつかず……という印象で、解釈はこちらに委ねられている。余韻の重さは只者ではない。「孤独」から始まった物語は「孤独」で終わる。円環……というわけでもないにせよ、喪失感だけがこちらに残るエンディングとして成立しているのではないかと思う。
村上春樹作品の映画化は非常に難しい。これほどまでに国民的なベストセラー作家として読まれていながらも、恐らくは村上春樹氏が了承しないからなのであるだろうけど、そもそも作品が映画化されるということも非常に珍しい。私が観た範囲でそれでも辛うじて成功していると感じさせられるのはトラン・アン・ユン『ノルウェイの森』ぐらいだろうか。そして、この『トニー滝谷』もまたその「成功」した部類に入るのではないかと思う。過小評価されていることがもったいなく思われる一作だ。この作品をハルキストだけに独占させるのはこれもまたもったいない。坂本龍一氏のミニマルな音楽も相俟って、小ぶりだがなかなか魅せる作品として結実していると思う。
忘れられない作品の一つです。
この映画が観たいと思ったのは、題名にメインキャストのイッセー尾形と宮沢りえ、宣伝美術が気になって。村上春樹作品は殆ど読んでないままで。どこかグレイッシュな淡々としたものなのだろうという予測だけつけていた。
75分という短い上映時間中、本当にすっきりとして静かできれいな映像の中にぽつぽつと交わされる朗読含む言葉たちに耳を傾け、表情に、その時は深くもなく孤独というものの存在
を眺めていた。
観終わって少ししてから作品を思い出すと、やっと追いついたかのようにじわじわと来るものがあり、自身が得るようで得ないよな果てしない寂しさに襲われポタポタ涙が出てきた。これは自分だけだろうか。
そして今、原作が載っている短編集「レキシントンの幽霊」を手にし読み、活字としてのそれの空気と重ねあわして目を閉じ浸っている。しばらく続きそう、こんな感じ。
トニー
アンダーめのトーンで映像は静かにはじまります。
トニー滝谷は、、という西島さんの声で物語へリンクしてゆく、、
そして、朗読と会話が混じり合い、映像がスライドしてゆくことにより、私はまるで村上春樹小説のページを捲っているように、映画を見ている。
その感じがとても好きです。
イッセー尾形さんの孤独なトニーの演技は、言い得て妙という感じで。宮沢りえさんの最後の手袋についてのちょっと投げやりな会話が好きです。
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