EUREKA ユリイカのレビュー・感想・評価
全21件中、1~20件目を表示
またバスに乗って
青山真治監督作品。
凄い作品をみました…。
とにかく凄い。物語が、語られ方が、カメラワークが、省略が、、、凄い。
大きな物語が失墜してしまったポストモダンで私たちはどう生きるか。
私たちは沢井がバスの運転をするように、取るに足らない日常を往還して生きている。そんな日常にバスジャックという〈出来事〉が到来しても、バスジャック犯を撃退するようなヒーローにはなれず、トラウマを抱えて「以後」を生きざるを得ない。しかも家族には疎まれ、古き良き共同体の中で生きることもできない。私たちはあまりにも孤独に一人で生きないといけない。
そんな生き方は、バスジャック事件を生き残った兄妹のように、死へと放棄されていく。しかしそれでも生きなければいけない。ではそれはどのようにか。それが沢井と梢、直樹の邂逅と生への営み、バスでの旅によって「発見」されていく。
その「発見」について言うには、全てのショットについて言葉で語らなければならない。だがそれは不可能な営みだ。だから〈私〉が〈私〉自身で本作をみて、〈私〉の仕方で「発見」をしなくてはいけない。とにかくみなければならない。
ひとつ言えるとしたら、「哀悼すること」だろう。絶えず哀悼する旅に出向くこと。けれど日常に帰る道筋はあるのだろうか。そしてどのような日常に帰るのだろうか。
その答えにはたどり着けていない。私の「発見」の旅は往路の途中でしかないのかもしれない。
小説を映像で読む
2023
89本目
長いので心を委ねて観る作品。
編集すれば2時間に収まるだろう。
しかしそれでは意味がない。
これは見た人しかわからないだろう。
3時間半を超える作品にほとんど台詞は無く、役者の表情と音だけ。
故に役者は物凄く大変だっただろう。
宮崎あおいさることながら、ナオキ演じる宮崎将さんの目が本当にすごかった。
バスジャックに巻き込まれて生き残った3人を軸に再生物語だが、まあ台詞が少ない分、頭で考える時間が非常に疲れてしまった笑
セピアカラーなので、エモショーナルな印象だが他に目がいかないので役者の演技にどっぷり集中できる。
最後まで見切るも、満足感などは無い。
あの後、幸せになれるのだろうか??
おそらく、沢井さんは遠からず…
彼女を信じるしかない。
と色々と考える作品でした。
映像が醸し出し時間に身を委ねる。
見ててしんどい映画である。映画の長さもさることなが別所の咳が後半になるほど酷くなり聞いていてしんどいのである。勿論その震度は差は計算済みのものである。音が重要になる。音は目の前に起こった拳銃で人を殺害する情景のシンボルである。「帰ろう」の最後の言葉が救いとなる。帰るところがある。見る者も映像の呪縛から解放される。物語はトリックスターの斉藤陽一郎演ずる秋彦に委ねられる。役所と宮崎あおいの演技は突出してる。
「北九州サーガ」
秋彦を演じる斉藤陽一郎が登場しカメラでパシャり、同じような経験を忘れた頃に語り始め『Helpless』で感じた無機質な雰囲気が漂いながら光石研は新たな役で、必要が無くなったみたいに感情を捨てたような兄妹に寄り添い自分を取り戻す旅なのか、奇妙に思える三人の関係性が良い方向へと進んでいるのかすら半信半疑のまま。
善悪の判断がつかない、全てを黙認しながら微かな表情や行動で意思表示をしている宮崎あおい、あの兄妹を見ていると原因となったバスジャックが本当に致命的だったのか、全てを投げ出した役所広司の行動は大人だから、まだ子供である兄が逃げ出す術はあの方法しかなかったのかもしれない。
純粋無垢だからこそ見え隠れする狂気性と変な方向で観てしまう、自分の人生を振り出しに全てをやり直す為には兄妹の側にいる事と、何かしらの責任感では無いように、わかり合うことはないにしろ、強く引かれあっている三人に思える。
余白たっぷりの最長映画体験
評判が良かったのは聞いていたので、早稲田松竹にて上映されるとあり、映画館で鑑賞。
3時間半を超える映画鑑賞は過去最長。
フィルムでの上映だったので、乱れがあるも、久々すぎて懐かしいと共に心地いい。
作品全体の雰囲気は、セピア色調なのもあいまって終始暗い雰囲気である。
登場人物がひたすら話さなかったり、引きの長回しが多かったりと、鑑賞者の感じる余白がたっぷり。
流石にウトウトしたタイミングがあったが、あれこれ考えながら観ると自然と頭が冴えてくる。
セリフが少ないからこそ、兄妹ふたりの演技はさすが。
宮崎あおいは小さい頃から不思議と吸い込まれる表情である。
秋彦が浮いてはいるが、思い返すと暗くなりすぎないようにアクセントになっていたか。
再生の物語、ということはわかるものの、一度見ただけでは到底理解できないものではあるので、考えを深め、干渉を重ねたい。、
他人を守る
この長い上映時間を実際耐えられるだろうかと戦々恐々とした作品である。
もう、20年以上も前の作品であり、今作品の感性に触れることが出来るか、丸で純文学を読むような覚悟で鑑賞した。
果たして、正直、欠伸の連発は否めない。退屈が怒濤のように押し寄せる。セピア色の画質も相俟って、ストーリー展開の鈍重さと俳優陣の抑えた芝居にその裏側を読み取ろうと脳はフル回転。それが却って疲労感へと繋がる。
しかし、そういうことを意図しての作品なのだからそのプロセスは大事な事なのだ。バッサバッサと編集することが必ずしも正解ではない。総合芸術としての映画は、こういう作品も又評価されるべきである。
沢山の"発見"が得られる事自体、今作品の題名そのものを体現できる事を経験できた作品である。
それにしても、あの年齢で完成形であった宮崎あおいは、希有な存在だと確証させられる。
キング・オブ・ムービー
世の中の名作は膨大でとても追い付けないが、これはやっと初観賞。
セピア色で遠方からの構図など、演者を知らなければもっと昔の映画かと思うような錯覚にも陥りそう。
カラーだったら長丁場疲れたかもしれないが、余計な情報は風景や空気として排除したようになったのは色が邪魔しなかったからだろう。
ホントに映画館で観れたのがラッキーで、テレビやスマホだったら違った印象だったのではと思う。
出逢えたことの感謝!
今夏の最高の思い出!
出てる人たちすげーえ
みんな若い、特に光石研笑
田舎町のバスジャック事件が、たくさんの人の人生を狂わせた。あんなくだらん犯人のせいで。
従兄弟が唯一一般的な立場?として突っ込んでくれると思ったけど、殺されかけエピソードはいるか?
多分兄を迎えにいくことは無理だろう。でも喋ることができるようになった妹を見て、自分も安心して死ねる、てな具合か。
それにしても長い。
コンコン コンコン
自転車グルグル映画というジャンルがあるけど、元ネタなんでしたっけ?
なんか、建家のなかで画面左でグルグルしている映画立った気がする。
役所広司の立場だったら、結構楽しそうだな。松重のデカさは映画映えする。どのぐらいネイティブ九州なのか、わからないが確か光石研は九州人だった気がする。乗り物映画として、ドライブマイカーなどにも続く。
エロDVD屋のエサ箱で買って家にあるけれど、見たことがなかった。
無言で、心へのノック
文中にURLを貼ったために(=当サイト規則違反) レビューが削除されてしまいました、
共感とコメントを下さっていた皆さん、ごめんなさい。
・・・・・・・・・・・・
言葉を失う凄惨な事件を共有した、中年のバスの運転手と、乗客だった遺児たちのロード・ムービーです。
事件から受けたPTSDをば、お互いに言葉にして話し合うとか、慰め合うとか、それさえも出来ないあの3人が、虚ろな視線ながら、3人を繭のように包むバスの車内で、窓辺をコンコンと叩きます。
モールス信号のように小さくノックをし、心臓にパルスを与え、命に心マを加えるあのシーン、
見ているこちらの胸をも激しく揺さぶり動かしました。
「扉を叩くひと」を思い出しました。
ノックは打楽器。
魂に直接響く原始の鼓動。
・・・・・・・・・・・・
ジョルジュ・ルオーの絵に「郊外のキリスト」という作品があります。
誰もいない村の通り。月が出ていますが逆光です。表情はよく見えません、
立ち尽くしている、子供だろうか 2つの小さな影に、いつの間にか後ろからそっと誰かが寄り添って立っている絵。
でもお互い顔も見ず、同じ方向を向いて、うつ向いたまま3人のシルエットが並んでいる絵。
この映画を見ながら思い出していました。
(2018年頃鑑賞)
コン、コン。・・・コン、コン。 コン、コン。・・・コン、コン。(生きてるか?生きてるよ。大丈夫か?大丈夫よ。)
あどけない宮崎あおいのアップから映画は始まる。22年前かあ。そりゃあまだ少女だものな。とにかく、ストーリーよりも出てくる役者を鑑賞する喜びが先にたった。肌も若々しい役所広司、すらりとした松重豊、ちょっとやんちゃそうな光石研、なんか印象が変わらない塩見三省とでんでん、おニャン子からどれだけ経ったのか国生さゆり、途中で気が付いた尾野真千子、、、。みんな若いなあ。と、そっちの楽しみを味わいながら。
話は、バスジャックに遭って、生き残った三人のその後狂わされた人生。ちょっと設定に無理あるも、無理があるからこその奇妙な人生なのだともとれる。ラスト、大観峰のショットは、どこか行き止まりの、最果てを感じた。この三人は(いや四人か)、この先どんな人生を歩むのだろうか。セピア色した世界に色がついて、それはせめてもの希望の証なのだろうか。
ただ、ちょっと長い。だけどこの長さがなければ伝わってこないものもある。
ユリイカ、、我発見せり。
最近はアニメのせいかついついエウレカと読んでしまいます。
題材がPTSDで興味が有った事と若い頃の宮崎あおいを見たかったと言う理由で2001年公開の3時間以上ある本作に挑みました。その他キャストも今見ると超豪華で皆んなキラキラしてて若いです、光石、松重、椎名、小野、、それだけでも観る価値あるかもしれません。
バスジャック事件の生き残り3人が物理的、精神的にも崩壊した状態から這い上がろうとする結構重い内容ですが張り詰めた緊張感、リアルな演技。色を失った世界に取り残されたようなロングショット。手足の長い宮崎あおいが可愛いし、カッコいい。どれをとっても素晴らしくて全く退屈せずに最後まで観れました。
エンドクレジット後拍手があり、ようやく青山真治監督の追悼上映である事に気付くほど、自分は彼の作品を見たことがありませんでした。まあ、あの当時は本当に日本映画に興味が無かったんです、、最後の方の海のシーンも「ベニスに死す」思い出して、かってに脳内で役所広司殺してました、すいません。
タイトル、、そして彼らが発見したのは何だったんでしょうか?コツコツと響く壁の音が孤立した自分が誰かと繋がっている、この世界に繋ぎ止めてくれている、自分独りではない安心感、あのシーンがそれだったのかなぁ、、、
個人的には青山真治と言う素晴らしい監督を発見した事でした、、、いささか遅過ぎましたが、、、南無。
テアトル新宿でデジタル・マスター完全版を鑑賞しました。以前レンタル...
テアトル新宿でデジタル・マスター完全版を鑑賞しました。以前レンタルで見たことがあったのですが、今回の体験は全く別物でした。登場人物の表情、光と影、広がる風景など全編ほぼ限られた色彩で映し出されているにもかかわらず、デジタルでより鮮明になったことでまたなんともエモーショナルな視覚を体験をすることができました。長めの映画ではあるのですが、最後まで見通すときっと何かしら心に残るものがあるかと思います。
みずみずしい14歳の宮崎あおい
東京国際映画祭で鑑賞。
役所広司・宮崎あおい・宮崎将
バスジャック事件の生き残りの運転手と兄妹。
心に深い傷を追ったまま、子供だけで暮らす兄妹を連れて旅に出る。
北九州から阿蘇へ。
前半のスピーディーな展開に比べると、旅の様子はゆったりと進む。
長いと感じるかもしれないが、丁寧に撮っている。
14歳の宮崎あおいが台詞が少ないながら、透明感溢れる演技がみずみずしい。
よくわからない
セピア色の映像が非常に印象的。最悪な状況の中、兄の代わりに海をみると、梢がついに声を発し、「帰ろう」という沢井の呼びかけに戻ってきてから映像がカラーになった。これは、そこになにか(希望?)を発見(EUREKA)したからなのだろう。
最初の方はいろいろ人が出てきてよくわからないし作品自体が長すぎる。もっと短くまとめられなかったのだろうか。咳をしている時間も長く、うっとおしい。
この作品、いくつか疑問点が残る。
・沢井が「帰ろう」と言ったのは、どこに帰ろうと言ったのか?
・梢はなぜ倒れたのか?(最後以外にも倒れたシーンがある)
・壁をこんこん叩くのは何か意味があったのか?
・時々緑色をカラーで出していたのは何か意味があったのか?
お目当ての宮崎あおいはまだあどけなさが残るものであり、彼女の真の魅力はまだ発揮できるほどではなかった。
凶行の意味は?
【40点】
悪い意味でサブカル的です。必然性を作品内で明らかにできていないような設定が数多く、非常に軽薄な印象を受けました。例えば、まったく大人の保護を受けずに兄妹だけで暮らす小中学生という設定には、どれほどの意味があったのでしょうか? 少なくとも現実的ではありません。現実的でないなら、作品内でその特殊な状況に理由をつけなければならないと思うのですが、両親が去ったという以外の理由付けが、果たして作品内でなされたでしょうか。
あるいは、バスジャックで殺害されかけたことがトラウマとなった被害者たちが、今度は加害者として殺人に関わるという設定に、妄想以上の価値はあったのでしょうか? そして、その心理に至った理由は、そういうこともあるだろうという創作者の勝手な憶測以上のレベルで明かされたでしょうか? 殺人というデリケートな問題に対して、我々は真に理解することなどできないはずです。だから、勝手な拵え話で娯楽作品に仕立て上げずに、分からないことは分からないこととして認めて、謙虚に遠くから事件に向かいあう姿勢だけが、(娯楽作品以外の)創作者の取るべき態度なのではないかと私は思います。別に娯楽作品は悪くありませんが、私が言いたいのは、この作品の題材は悪趣味だということです。
冒頭の「大津波がくる。いつかきっとみんないなくなる」という、こずえの独白から、海のシーンに至るまで、被害者たちの純粋さの象徴として水が登場し続けます。さらに被害者に対する外部世界の象徴として登場するのが酒です。単純に酒を飲んでいる人間が水の人間を傷つけるという構図です。しかし、海に行ったところで、役所広司がわざとらしく白い布巾を口に当てて咳き込むだけで、作品を総括するような出来事はそこでは何も起こらず、ラストの大観峰を待つことになります。果たして水対酒の構図にグループ分け以上の意味があったのでしょうか。
犯人の言った「違う人間になりたくないか」という言葉の解決だけは、面白味があったところかも知れません。役所広司演じるバスドライバーが、かつて思い描いていた理想とは異なる現実、「色のないセピア色の日常」に悩むなかで、バスジャック事件が起き、放浪の末、こずえという希望を発見(ユリイカ)して「色」を取り戻すという構成です。ちなみに、このシーンを「事件から再生」の象徴と捉えると、事件前からセピア色の画面であった理由が付かずにおかしいです。
しかし、どうしてこずえが希望だったのでしょうか? 賢いから? 可愛いから? どうして少年では駄目だったのでしょうか? 役所広司は何で死にそうになっているんでしょうか? 少年が殺人に至った理由付けが希薄な上、新たな被害者に対する責任というのが、司法に委ねるだけで何も試みられていないので釈然としません。(少年の犯行に拘るなら)彼らはバスを引き返して被害者家族に頭を下げに行くくらいのことをしなければならなかったのでは? 設定先行で陳腐な印象が拭えない作品です。
全21件中、1~20件目を表示