私、違っているかしら
劇場公開日:1966年7月30日
解説
森村桂の同名の原作を「涙くんさよなら」の倉本聰と長広明が共同で脚色し、「夜霧の慕情」の松尾昭典が監督した青春もの。撮影は同じく「夜霧の慕情」の岩佐一泉が担当。
1966年製作/92分/日本
原題または英題:Where There is a Will
配給:日活
劇場公開日:1966年7月30日
ストーリー
白石桂は学習院大学四年の明朗な娘である。就職戦線を迎えてそれまで続けていた施設出身者たちの家“再生会”での仕事をやめ出版社への就職に奔走した。しかし片親の壁はあつく父親のない桂は書類選考ではねられてしまった。娘の苦労をよそに、彼女の母はグループと登山を楽しむという呑気さであった。桂は若い娘のようにはしゃぐ母を駅に見送っての帰り、偶然亡父の親友の製紙会社社長田村に会い、彼の紹介で交友社を受験出来ることになった。ところが論文の内容が危険という理由で落されてしまった。彼女の級友川瀬は保守的な交友社に失敗したことをむしろ喜び、落胆した桂を勇気づけた。彼は就職を意に介さず学生運動に没頭しているのだった。桂は自信にみちた川瀬に尊敬以上の感情を抱いていた。数日後桂は田村の口添えで独創社の臨時社員に採用された。桂は婦人週刊誌の編集記者の仕事にファイトを燃やしたが、二カ月もすると歌手の私生活を追ったり、スターの離婚に血眼となる毎日に嫌悪と空しさを感じてきた。そんな時、桂は学生の谷川岳遭難記事で、先輩の山中とともにトップ賞を貰った。そして追いかけるように新任の冷酷なキャップ小池に、遺族の取材を命ぜられた。遺族の激しい涙の抗議に、桂はいたたまれず取材をやめ、遂に社をも飛び出してしまった。木枯しの吹きすさぶ季節となった。桂は淋しかった。しかし“再生会”のクリスマスで、ゴロや子供らの明かるさに出会うと心もなごむのだった。年があけて桂は婦人文化社へ雇われた。それは桂が呑気だとばかり思っていた母の力によるもので、桂も嬉しかった。雑用に明け暮れたが桂は懸命に働いた。しかし失策続きで三カ月の試用期間が終ると、編集者として不適格と宣告された。卒業謝恩会の日、久し振りで川瀬に会った桂は彼が信念を捨て、就職したことを知って失望した。ひとり歩く街の雑踏の中で桂は、元気で働くゴロに声をかけられて、急に目の前が開けたように思った。桂は再び明かるさを取り戻した。