「恋愛結婚へのアンチテーゼ」喜びも悲しみも幾歳月 よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
恋愛結婚へのアンチテーゼ
主人公の灯台守(佐多啓二)とその妻(高峰秀子)は見合い結婚。しかも見合いのその場で結婚を決めて、郷里から遠く離れた文字通りの地の果てへ赴く。
初めての二人の夜を前に、お互いに慎み深く挨拶を述べ合う二人。どのような辛いことがあったとしても最後まで一緒だと誓い合う姿は、神や人々への誓いよりもずっと固く結ばれていく二人を描いている。
そしてある日、二人の暮らす灯台に一人の女が妻を訪ねてくる。この女が恋い焦がれる相手の男が、昔、高峰に熱を上げていた男で、その男がいまだに高峰への思いを断ち切れずにいる。だからその男と、彼を慕う女の二人が不幸なのは全部高峰のせいだという恨み言を聞かせるために、その女はここに来たというのだ。
ここには、恋愛感情による男女の不安定な関係と、お互いへの責任を約束しあった男女の堅牢な関係の対比が提示されている。
感情というものは移ろいやすく不安定で、映画の前半ではそれに基づく結婚を批判的に描いている。これとは対照的に、主人公ら夫婦をはじめとする灯台守たちの結婚生活は理性で固く結ばれている。
理性で結ばれているといっても、理知的なばかりで感情が通い合っていないということではない。お互いへの思いやりが極めて理性的に交わされるということだ。
感情は理性によってこそ保護される。だからこそ僻地での苦難の連続を乗り越えていく力強さがあるのだ。
後半に入り、若い頃の田村高廣演じる、佐多の後輩灯台守の恋愛にこの夫婦は知らず知らず巻き込まれていく。この恋愛も最初は周囲に取り合ってもらえず、田村は恋の相手との結婚を断念するのだが、何年かの後にきっかけをつかんで結婚を成就させる。
そして、佐多・高峰の娘も下宿先の息子と恋愛結婚をする。
しかしこの二組のなんと頼りなげなことか。若い二人だから頼りないのではない。この二組の夫婦それぞれの結びつきが弱弱しく見えてしまうのは、その幼さゆえではなく、夫婦の将来像やモデルが自分たちの中にないからである。
では、彼らを結び付けているものはどこにあるのか。
それが佐多と高峰の夫婦の理想化に他ならない。この二人を理想としていることは、一見主人公の人生賛歌として素晴らしいことのように見えるが、当人たちの中に約束すべきものが希薄であることを示している。
このようにこの作品を通して、恋愛結婚への懐疑的な視線と、時代の流れの中で恋愛感情による結びつきが増えてくることへのあきらめが見えてくる。