破れ太鼓のレビュー・感想・評価
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こうして、日本経済は形の上で脱亜入欧へ向かう
テレビのおやじ太鼓のオリジナル。
僕はこの映画自体は初見。
我が親父はテレビのおやじ太鼓が好きで、元々の映画の題名とテレビの題名が違う事をよく言っていた。
言うまでもなく、この破れ親父は明治の男。そして、
アバン ゲール対アプレゲールを表している。
オルゴールなんて、箸にも棒にも引っ掛からない。土建屋をやめてオルゴール?果たして日本経済はどうなる。『箱物の箱が小さくなっただけではないか』
『なんとなく愛し合っている。それが、家族です。自由があってなんとなく愛するんです』『わが青春に悔い無し』『セントヘレナのナポレオン』
現在の家族の絆と解く理屈からは考えられない本音。
『ああ悲劇だね。尼寺へ行くなら台所へ来てよ』
オルゴールの不協和音
家族の不条理を戯画的に描いた映画といえば川島雄三『しとやかな獣』や森田芳光『家族ゲーム』などが挙げられるが、本作はそれらの先駆け的な存在だ。
…などと目算を立てながら見ていたのだが、それにしてはどうにも話が軽い。家父長制主義的な成金オヤジとそれに隷属する家族と、西洋的な男女平等のもとで誰もが自由を謳歌する清貧家族の鮮やかすぎる対比。モノクロじゃなければ胸焼け必至なくらいわかりやすい二項対立に一時は失笑が浮かびかけもした。しかしラスト数十分の展開は凄まじかった。
オヤジが唯一家に残った息子に向かって愚痴をこぼすと、息子は「人間はどこまでも孤独なものです」と言う。それならば家族に意味はないのかとオヤジが問うと、息子は「だけどやっぱり家族は家族。だからこそ一番自由な関係じゃなきゃ」とオヤジを諭す。
血縁は単に医学的なものであり、家族などという単位はしょせん共同幻想に過ぎない。言ってしまえば誰も彼もが等しく他人だ。けれどそういうニヒリズムの終着点に断絶がある。思えばオヤジが粗暴な性格になってしまったのも、若く孤独な彼を助ける者が誰一人いなかったからだと思う。彼は誰かに寄りかかる術を終ぞ知らないまま、身に余る経済的成功を収めてしまった。
また、このニヒリズムは家族神話への盲目的執着とも紙一重だ。オヤジは人間の孤独を誰よりも深く理解しているからこそ、妻子を自分のもとへ強制的にとどまらせようと横暴な態度に出てしまう。
そこで息子はその中間域を指差すのだ。全き孤独とも暴力的結合とも異なる、曖昧で両義的な領域。しかしそこにこそ家族のありうべき姿があるのではないか、と彼は言う。
面白いのはここでオヤジが「ハッ」と反省するにもかかわらず、行動は以前のままなところ。彼は出奔を謝罪する女中に対して「そうだ。悪いことをしたらすぐ改めなさい」と諭すのだけど、いや、それお前完全にブーメランじゃん!という。
でもそこにはある種の不器用な愛おしさ、憎めなさがある。今はダメでもいつかこの人は立ち直れるだろうという予感がある。「反省」において重要なのは、ドラスティックに思想を転換することではない。再生の可能性が存在することだ。
ラストのオルゴールのシーンはとりわけ印象深い。妻子との和解が成立し、長男坊の興したオルゴール製造所には、福音のように数多のオルゴールの音が鳴り響く。それは家族が再び一つになったことを示すようだ。しかしその音色は美しいというよりはむしろ不協和音に近い。
家族離散→家族再生という戯画にも程がある戯画は、オルゴールの不気味な音色によってほんのりと憂いを帯びる。
オヤジの親子愛は本物なのか?はたまたしょせんはその場限りの気まぐれか?一抹の疑念を孕んだオルゴールの旋律は「完」の一文字によってあえなく封印される。
一時はどうなることかと思ったけど、やっぱりこれは『しとやかな獣』『家族ゲーム』へと連なっていく戯画的家族映画の先駆けなんじゃないかと私は思う。
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