晩春のレビュー・感想・評価
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父の優しさと残酷さ。
◯作品全体
物語が進むごとに紀子役・原節子の娘、女、嫁としての表情変化が素晴らしかったが、なにより、それを全て包み込んでしまうかのような父役・笠智衆の表情に圧倒された。
親の考えたレールに沿って生きなければならない女性が多くいた時代において、周吉は28歳の娘に強く結婚を勧めずに優しく見守っている。紀子が病気がちだったこともあったかもしれないが、夜まで都内で遊んでいても小言を言わずに穏やかに会話する二人の空間は暖かさに満ちている。
前半は確かにそうだったが、叔母のまさに結婚を打診されてからは紀子も周吉も様子が変わってくる。ただ、紀子の主張は一貫していて、「父と一緒にいたい」だ。現状に満足しているにも関わらず変化を求められたからこそ、紀子は周吉と一緒にいたいと思う娘の紀子・妻の紀子・嫁入りする紀子がこぼれ出てきてしまった、というような状況なのだと思う。紀子役・原節子はこぼれ出てきた3つの紀子像を、影を落とすシルエットや寝床でジッと一点を見つめる微妙な表情で完璧に表現していたのが素晴らしかった。
周吉にとっては名残惜しさから後回しにしていた紀子の縁談と向き合う、という変化があった。不機嫌な紀子に対して優しく諭す姿は、周吉の元来の性格を描き出すかのように周吉演じる笠智衆から溢れる包容力がある。ただ、その裏には紀子の嫁入りという幸せを願う感情があって、そこは曲げられないという周吉の想いがある。嫁入りに駄々をこねる紀子に周吉は優しい表情を崩さず、そして意見を曲げない。お見合い後に二人で話すシーンでは、それぞれの表情を正面からアップショットで素早く切り返すことで、娘を想う厳しさと優しさ、その両方の強さが表現されていて、心に刺さるシーンだった。
憶測になってしまうが、戦後間もない時代に「嫁入りをする」という当然の行為に対して28歳の娘が父親に反発するというのは考えられない状況だと思う。そしてそれに対して話し合いを遮断することなく娘の話を聞いて、父自身の言葉で納得させるということは尚更だろう。周吉にはその両方を許容できる優しさがあり、娘の話に流されない厳しさがある。
ラストで周吉自身が語る「一世一代の嘘」はすごく誠実で優しく、そして残酷な「突き放し」だった。
◯カメラワークとか
・紀子とアヤのシーンとか紀子と周吉のシーンでアップショットの短い切り返し演出があった。フルショットでローポジのカットが多いからそれだけで凄く目を引く。コメディチックにもできるし、二人の感情の衝突の強調にもなっていた。特に紀子と周吉のシーンは結婚する、しないで真っ二つの衝突だけど、周吉の表情が終始朗かだから、ヘタしたら周吉がいなしているように見えてしまわなくもない。そこを短い切り返しで真正面からの衝突を強調しているのは、上手いなと思った。
・結婚に揺れる紀子が東京で周吉から離れていくシーンが良かった。車道の反対側へ駆けていく紀子と杖を突いてゆっくりと歩く周吉。バックショットだから周吉の表情はうかがい知れないけど、揺れる紀子を優しく見守っているようにも見えるし、静かに見送ってるようにも映る。周吉の背中から感じる寂寥感がラストの周吉への伏線みたいなカットでもあった。
・ウィキペディアにある壺のカットの演出。個人的には紀子の中に閉じ込めていた周吉への感情を壺に仮託して、誰にも触れられないまま壇上に置かれた感情、みたいに感じた。月光の強さは紀子の感情が影に隠れても強く放ってるイメージ。性的なイメージも確かに含んでいそうだけど、それだけじゃなくて紀子の中にある周吉への愛情がメインで存在するシーンだった。
◯その他
・原節子も良かったけど、やっぱりこの作品のMVPは笠智衆だなあ。アヤにキスされた時のびっくりした表情とか、あんなに可愛くできるオッサンいないでしょ…
献身的秘書への解雇通知ーー『晩春』再考
1947年公開の「紀子3部作」の第1作だ。30年以上前に、銀座の並木座で鑑賞した記憶がある。20代に見た時より、味わいと感動が深くなった。何度でも見たい大傑作である。
今回、本作の印象は大きく変わった。
「老いた父と、結婚で家を出る娘の物語」というのが、本作の一般的理解だと思う。父は寂しさを押し殺し、自分を犠牲にする嘘をついたーー。日本人的な諦めの美学が表現された、切ない物語という文脈だ。「女性の幸福は結婚にある」という社会通念が強固だった時代の悲劇でもある。いずれも「娘の結婚による家族の解体の物語」という見方である。
しかし、本作は「父娘関係の物語ではないのでは」ーーこれが今の僕の感想だ。
では、どんな物語か。「仕事で自己実現する有能な女性と、部下の貢献を承認しない上司の物語」に見えたのである。「有能な個人秘書の強制リストラ」の物語だと感じたのだ。
本作の原節子演じる紀子のアイデンティティはプロの秘書ではないだろうか。公開から約80年経った現代の再解釈として、まとめてみたい。
笠智衆演じる大学教授の父、周吉は57歳だ。当時一般企業では55歳定年のようだ。定年後に名誉教授になったのではないだろうか。
以前は文京区片倉に住んでいたというから、東京大学教授かもしれない。定年で、授業を持たなくなって北鎌倉に引っ越したようだ。原稿執筆の依頼もあり、教授会にも出席して、現在も学問の世界でかなりの地位があるようだ。
妻は戦時中に亡くしたのかもしれない。男手ひとつで娘を育ててきたーーという状況だ。周吉は、家族の経済面の責任を負っている。娘を気遣いつつ、子育てらしきことはあまりしなかったようだ。仕事では優秀だが、生活面では無能で、妻に甘えてきた好人物だ。妻の死後は娘に面倒を見てもらっている。
原節子演じる紀子は27歳。戦時中なんらかの病気を患い完治していないことと、父の面倒を見る必要から、当時の結婚適齢期が過ぎている。
この親子の内実は「学者と秘書」という成分が相当入っているというのが、今回の見立てである。
周吉は現実でも学者で紀子は娘である。ここは単純だ。しかし、紀子の内面は「有能な学者を支える秘書」というアイデンティティがかなりの部分を占めている。無意識の内面的真実がそうではないかと感じたのだ。
紀子は、あまりに生き生きとしている。父の着替えなどのサポートも、父の友人や助手のあしらいも素晴らしい手際である。
その姿は、僕が仕事で接してきたベテラン秘書や、非正規社員の補佐的業務に携わる女性と重なった。彼女たちは、職場の陰のキーパーソンだ。業務、文化、ルールの伝承役で、頼りにされるムードメーカーでもある。
その重要性は地位や給与には反映されないが、待遇に不満を漏らさず、驚くほど献身的である。自分が職場の重要人物であることを認識し、仕事に誇りを持っている。
「晩春」の紀子の姿は、そうした献身的なプロの姿に見えた。実際その職責と機能を十分に果たしている。
まずは父の助手の佐竹との関係について。
2人のコンビネーションは抜群だ。だからお手伝いさんには「必ず将来結婚する2人」に見えている。
七里ヶ浜への2人のサイクリング場面で、紀子の表情は輝いている。そして「(紀子は)嫉妬深いか?」といった踏み込んだ話題で盛り上がっている。本作が〝失恋の物語〟でもあるという印象を強くする場面だ。
しかし、佐竹と紀子は同じ上司に仕える同僚のようなものだ。身分の違いはあっても、職能においては対等な仲間である。恋愛の可能性がないことは2人はすでに承知していた。だからサイクリングは仕事の合間の息抜きであるし、今でいうチームビルディング活動でもあるはずだ。
周吉の原稿執筆の手伝いで、佐竹が自宅にいる場面も印象的だ。帰宅した紀子は佐竹を見て「あら、助かっちゃったわ」みたいなセリフを言う。
普段は紀子の仕事なのだ。紀子は、佐竹を同格の同僚として見ていること、自分は正式な助手と同レベルの仕事ができるプライドがあることも伝わってくる。
この場面で周吉は「ほとんど執筆は終わった」などと言って一息入れようとする。しかし、紀子は応じない。「ダメよ」と笑顔で、周吉に仕事を続けさせる。
ベテランの秘書や営業補助は、こんな感じで上司に仕事にコミットさせる。上司をマネジメントできるのは、業務に自信があり、上司の仕事の遂行にコミットしているからだ。これは佐竹にはできないことで、紀子のほうが格上となる。紀子の「秘書室長宣言」のようにも見えるのだ。
同じ上司の元での、同世代の部下同士は、友人や恋人以上に、理解しあい連帯できるものだ。20代30代にはそうした経験を多くの人がすると思う。
職場では、それを恋愛関係に発展させようとしないのがマナーだが、その境界線はしばしば破られる。一緒に働くのは、相手を理解し、心理的につながる強力な方法だからだ。
部下のマネジメントに無頓着な人物の元で働く場合には、部下の上司マネジメントが重要で、その場合、連帯関係はさらに深くなる。上司から精神的サポートや承認を得られないからだ。
佐竹は紀子には、自分に婚約者がいることをずいぶん以前に知らせていた。これも同僚同士のマナーでもある。相手を傷つけることを防ぐことができるからだ。恋愛なしの同僚は、恋愛・結婚問題まで話し合える相手として、さらに連帯を深めることになる。
婚約者がいても、恋愛感情がなくなるわけではない。佐竹も紀子も、自分に最も相応しいパートナーとしてお互いを見ている気配は濃厚だ。
だからこそ、2人の関係は切ない。都心での2人の時間の後、食事を断り、それぞれ1人となった紀子と佐竹の無表情に、どうしようもなかった切なさが強く漂う。2人が結婚したら、家庭生活をプロジェクトのように切り盛りする現代的なパートナーシップを築いた可能性は高いはずだ。
佐竹の次に、親友の綾について考えてみたい。
彼女は、女子校時代の同窓生だ。離婚後タイピストとなり、英語の仕事もあるという。当時かなりの少数派の高学歴である可能性が高い。
同窓生たちはほとんどが結婚している。結婚で仕事をやめ、専業主婦となるのが、高学歴女性でも当たり前の時代だ。
同窓生の中で、綾は数少ない働く女性だ。綾が親友であるのは、独身職業女性という共通のアイデンティティによるのではないだろうか。要は価値観が近くて話が合うのである。ただ、紀子の方は職業として認められず、給与も支払われてない。現代の目から見ると、搾取と言わざるを得ない状況でもある。母が早逝していなかったら、そして、紀子が体を壊していなかったら、紀子も就職して力を発揮していただろう。
次に周吉の友人の小野寺について。周吉の学問上の仲間のようだ。
紀子の小野寺への立ち回りは絶妙だ。「オヤジ転がし」というか、親密さと絶妙な距離感と、相手への尊敬を漂わせている。
これは、上司の人間関係のメンテナンスを紀子が行なっているということでもあって、子供の頃から知っているおじさんというだけではないと思う。
若い妻と再婚する小野寺に、紀子は「なんだか嫌だわ。汚らしい」と言う。これも微妙な嫉妬で好意を伝えているようで、絶妙な振る舞いに見えた。
しかし、紀子は、この発言を物語の最後まで、後悔し続けている。
紀子がこれほど後悔する理由は、父の職業上でも重要な相手に、葛藤する自分の感情をぶつけてしまったからだ。秘書の職業倫理として反省しなければならないーー紀子はそう感じて、深く恥入ったのではないだろうか。
職業人のアイデンティを持った紀子という仮説仮説で見ると、父周吉はどのように見えるだろうか。
紀子は、周吉が出かける際の替えや原稿執筆、人間関係のメンテナンスまで、家事労働の範疇を超える仕事を、非常に優秀にこなしている。しかし、周吉は、その職業部分に対して、給与を支払うことなど思いもよらないし、感謝も承認も伝えない。家事労働の一環だと見ているのだ。
母を亡くし病気がちで婚期を逃した娘を思いやっているのだが、とんでもない勘違いではないかーーそう言いたくなってしまった。
そう考えると、父の再婚と紀子の結婚話は最悪の流れである。「新たな〝秘書〟が来るから、君は結婚でもしてくれたまえ」、紀子にはそう感じられたのではないだろうか。
ここから紀子の表情が一気に変わる。視線は鋭くなり、批判的でもある。プロとしての誇りと尊厳を傷つけられた表情ではないだろうか。
能を鑑賞中に再婚候補の女性を見る目は「あんたに(私の仕事を)やれるもんならやってみなさいよ」…そんな気持ちがこもっているようだ。
紀子の職業上の誇りは誰にも認識されない。それが、この物語の最大の悲劇ではないだろうか。
そして有名なラストシーン、笠智衆演じる周吉は、深くうなだれる。孤独をかみ締めているというのが、普通の理解なのかもしれないが、ここまでの文脈からは違って見えてくる。
この場面は、周吉の中の電源が切れた、あるいはエネルギーがスッと抜けていくようでもある。この日まで、周吉は、亡き妻や娘の紀子に、マネジメントされて働いてきた。彼女たちがいなければ、働くエネルギーは生まれない。それに、初めて気がついたのではないだろうか。
紀子も、そして紀子が手本としたであろう亡き妻も、家事労働を大きく超えて職業面でも支えてくれた。それを家事の範囲と認識していたから気づけなかったのだ。
紀子がいなくなって初めて、自分の〝右腕〟をもぎ取ってしまったことに気がついた。自分の中には、独自の熱源、学問への情熱とか働く喜びとか、そんなものはないことに直面した。そして、スイッチを切ったロボットのように項垂れてしまったのではないかと思うのだ。
ここまでの見方は現代から見た視点が強すぎるかもしれない。
周吉は57歳と中年なのに、途中でも「僕の人生はもう終わりだ…」みたいなセリフをいう。これに違和感があった。僕はすでにその年齢を超えたが、そこまでの実感はないからだ。
しかし、当時の平均年齢を調べてみると、1950年の男性の平均年齢は約58歳だ。周吉は、平均的な寿命の年齢だったのだ。定年が55歳とすると、社会的寿命と、実際の寿命がほぼ重なっている。働き終えたら、一生を終えるという時代だったのだ。
僕らが今考えるような、悠々自適な老後などなかった。当時は公的年金制度が始まっていないから尚更だ。
周吉は、現代なら80歳くらいの実感なのかもしれない。そう思うとこの映画のラストはまだ別の周吉の姿が見えてくる感じがする。
娘も嫁にやって、私は全ての役目を果たしたーー。こんな感慨が、ラストの脱力し項垂れる姿になったのかもしれない。
周吉は、役割に忠実な人物だ。戦前の教育を受け、もしかすると皇軍兵士として出征し、戦後は大学教授という役割に徹して、大黒柱として家庭を経済面で支えた。時代の変化の中でも、役割に忠実に、良き人間であろうとした人物である。その彼の、役割を果たしきって、一人になった孤独と感慨はちゃんと受け止めないといけない。
過去を現在の価値観で裁のは、キャンセルカルチャーのようなものでもあって、この運動には僕は違和感を感じてもいる。しかし、現在の感覚で過去を見るのは避けられず、だからこそ歴史を学び、同時に虚心に見ることが大事だと感じた。
80年経ってもこれだけ気持ちを動かされるのは、本作が、時代や場所に左右されない普遍的な真実を描いているからだ。普遍的な作品ならば、今回のように現代視点での見方も許されるかもしれない。
僕も今年還暦で、周吉の年齢も越し、また還暦の誕生日に亡くなった小津安二郎の年齢も越してしまった。彼らはすでに年下だけど、映像の中の笠智衆、そして小津監督から学ぶことは尽きないと感じる。
とにかく、何度でも見直して、噛み締めたくなる最高傑作だ。あと何回劇場で見ることができるだろうか。
かつて日本にあった生活文化の真髄
面白い
三部作のトップ
あたたかい晩春の夜‼️
父は婚期を逸しかけている娘が気にかかる。娘は母を失って久しい父を一人にはできないと思っている。ただそれだけの、父と娘の、日本映画における根幹、小津安二郎監督が最も得意とする物語であります‼️この父と娘の感情の起伏とささやかな葛藤を、叔母役の杉村春子さん、父の親友の三島雅夫さんや、その娘の桂木洋子さんなど、個性的な周囲の人々との交流を交えながら、鎌倉や京都の素晴らしい風景の中にじっくりと描いています‼️笠智衆さんの父親役はホント日本映画の名物ですよね‼️世界に誇れるな‼️ようやく結婚することになった娘が、父と水入らずで一夜を過ごす京都の宿の場面、花嫁姿の娘が父に手をついて挨拶するシーン、結婚式がすんで帰宅した父が独りで眠りにつくラストへと、思わずタメ息が出るような、小津安二郎監督の名人芸が堪能できる名作ですね‼️あのまったく動かないカメラ‼️格調高すぎですね‼️ "紀子" に扮した原節子さんの美しさもホントに別次元‼️
ワンシーン・ワンカットが絵葉書や絵画のように美しく、様式美があるので長さを全く感じさせませんね。
早稲田松竹さんにて『小津安二郎監督特集 紀子三部作 ~NORIKO TORILOGY~』(25年1月4日~10日)と題した特集上映開催中。
本日は『晩春』(1949)、『麥秋』(1951)、『東京物語』(1953)のそれぞれ4Kデジタル修復版を英語字幕付きで鑑賞。
英語字幕付きのためか外国の方や若い方の来館者も多く、70年以上前の作品にも関わらず150席の館内はほぼ満席でしたね。
『晩春』(1949)
小津安二郎監督が原節子氏と初めてコンビを組んだ作品。
妻と死に別れた初老の父親・周吉(演:笠智衆氏)と父親を想い結婚を躊躇する娘・紀子(演:原節子氏)との親子の情愛を描いた監督初のホームドラマ。
戦後間もない鎌倉や京都が舞台ですが劇中では一切戦後を想起させるシーンやカットはゼロで時代背景に左右されない作品の普遍性を感じましたね。
とはいえ公開当時の婚姻率は80%、女性の平均初婚も23歳前後、婚姻以外の「女性の幸せ」の選択肢がない当時と令和の今では隔世の感がありますね。
空舞台と呼ばれる風景カットの挿入が本作から本格的に採用されたようですが、このゆったりとした間と余白が、観客ひとり一人に登場人物の心象風景を感じとらせることに奏功、ワンシーン・ワンカットが絵葉書や絵画のように美しく、様式美があるので長さを全く感じさせませんね。
個人的には紀子の周吉に対してほのかなエレクトラコンプレックスを抱いていると解釈していますがどうなのでしょうか。
ラストは周吉が紀子に婚姻させるため『自分も再婚する』と告げる「一世一代の嘘」、そして周吉が一人リンゴの皮を剥きうなだれるシーンで終わるのですが、劇中に登場人物が激情、大きな出来事もなく淡々と話が進む108分ですが、全く最後まで退屈させないところは監督の演出力、配役の力量、誰の人生にも起こりうるストーリーの普遍性がなせる業なのでしょうね。
春の終わりのエレクトラ
ゆったりしてるのに、びっくりするほど無駄がない…
けっこうビターな通過儀礼の話。しかもじわじわ、ヒタヒタくるタイプの。
諸事情から実家を出たがらない娘(原節子)のモラトリアムを、父はじめ周囲が終わらせようと躍起になる。娘はかなり頑強に抵抗するのだが…という話。
これ父が笠智衆じゃないと成り立たない気がするので、実質的なヒロインは笠智衆では?
「東京物語」における原節子は、おそらく永久にこの状態なんだろうなー、と思わせる現実感のないキャラクターで、笠智衆たちは心配するふりをしてそのモラトリアムを愛していた。
その点この「晩春」の原節子はそれに全力でケリをつけることを求められており、ストレートな成長譚の主人公になっている。
清水寺でノリコたちのシーンの終わりで、画面を女学生の集団が横切る。
これから春の盛りを迎える人たち、つまり主人公の「春の終わり」を強調するための対比…鳥肌が立った。
観客は知っている。リアリストの叔母さん(杉村春子)言うところの「きれいなお嫁さん」はしょせん一瞬の状態で、その後にはただ無情な現実が続くってことを。結婚が女の幸せなんて欺瞞だし、下手すると地獄の始まりかも知れないってことを。
なぜなら前半で出戻った友人にその経緯を語らせ、あらかじめ観客に提示してあるから。
一見ただの家父長制全肯定のようで、けっこうモダンな視線が入ってるんだよねー。
まあ確かに生活ぶりは割とリッチで現実感はないけど。
あと「壺」の意味は「百万両の〜(山中貞雄)」説がおもしろかった。
精神分析的な解釈以前に、あの場面の原節子は強い決意を感じさせるし、その後の流れからして、言えない本音を床の間に置いてくることにした、って感じかなぁ。
つまり棚上げ、封印、途絶の象徴としての壺。活けられた花が枯れても、壺は変わらずにそこにある。
もしそこに亡き山中貞雄への思いが重ねられてるとしたら…もう何も言えないですハイ。
親離れ子離れ
終盤、紀子は父周吉に離れたくないと言う。
今が楽しいということを幸福と同列に表現する紀子。外の世界を漠然と恐れ、与えられた今の環境の中で永遠に子供でいたいと願っている様に見える。だからこそイノセンスな自分の世界からはみ出す小野寺には悪びれる様子もなく不潔だと言ったのだろう。自分の世界を決定的に破壊する父の再婚に対しては、親の愛情を取り戻そうとする幼子の様に振る舞って見せたのだろう。
そんな紀子を諭す周吉。紀子は新たな家庭で、幸せな世界を作っていけるだろうか。空の花瓶は、まだ定まらない彼女の将来を思わせる。
しかし、本当に心配なのは周吉ではないだろうか。再婚話が芝居でなく、本当であれば良かった。そうすれば、娘の友人に対して、きっと遊びに来なよと念を押すような醜態を見せずに済んだと思う。
紀子に拗ねたように「お茶、お茶!」と声を張り上げたり、服部と出掛けてきたと知ってソワソワしたりしていた周吉。途中放心するように独り座り込む痛々しい姿の周吉。どれも人間味を感じられた。
しかし、林檎の皮がぽとりと落ちたときの周吉からは、そうしたものを一切感じられなかった。まるで、人として大切なものが林檎の皮と一緒に抜け落ちていった様だった。そしてその後映された夜の海は、一見穏やかだが、抜け殻となった周吉を黙々と暗い海底へと連れ去ろうとしている様に思えてしまった。何て恐ろしいシーンだろうか。
…
原節子の笑顔はとても素敵だったが、彼女の怨めしげな表情のインパクトに上書きされてしまった。
…
周吉が紀子の友人から額にキスをされるシーン。ヴィム・ヴェンダースのパーフェクトデイズで、主人公が後輩の想い人である若い女性からキスをされるシーンはここから来たのかなと、ふと思った。
原節子の見せた表情には唸るしかなかった!
BS260で拝見する機会を得たが、大変驚いたことが二つあった。
一つは、父親の笠智衆と娘の原節子が、週日の午後、連れ立って東京で能を鑑賞したときのこと。
斜め向かいに、父親の後妻の候補に擬せられている三宅邦子が座っている。彼女に気付いた時、原の顔がみるみる般若に変貌する。この映画では原の美貌が引き立つ場面がいくつもあったが、10から20歳近く一挙に老けるとは。原に潜んでいた本質を引き出した小津の力量には感服するしかない。しかし、それが根底にある以上、映画の延長上で、どんなに素晴らしい男性と出会ったとしても、本当に心許す関係になったのだろうか。原は役の上では27歳、実年齢だって29歳にしか過ぎないはず。なぜ、あのような年齢を超えた成熟を得るに至ったのか。それには戦争の影響しか考えられない。戦時中は経済的に恵まれず、栄養も乏しく、結核に罹患し療養を続けていることが、さりげなく描かれていた。しかも原は、実生活の上でも、この般若の思いを心底に秘めて、引退後50年余りを過ごしたことが知られている。つまり、原はこの映画「晩春」の中で自分の一生をも演じきっていたのだ。小津がシンガポールに行く前、中国戦線で本当の戦争を経験していることが効いているのだろう。
もう一つ、小津のローポジションがどこから来たのかわかるような気がした。それこそ能を鑑賞する時の視線である。もともと能舞台は野外にあった。観客席を組むことにも限界があったろうから、どうしても多くの観客は舞台を見上げざるをえない。それが、あのローポジションにつながったのではなかろうか。もちろん、日本映画では座った演技が多いことが反映しているのだろうが。この映画には、のちの小津の映画につながるアングルがいくつも出てくる。
何れにしても、あの傑作「東京物語」は、この「晩春」の延長上に築かれていたのだ。
鑑賞者が物語に共感し、シーンごとに自分の体験を小津のスクリーンと重ねることで台本の意味が完成する、その比重が最も大きい部類。
映画とは、洋の東西を問わずだが、そのストーリーの歴史的背景や、その物語の起こった時期、その国における文化、そして習慣・習俗を前段階の知識として持っておかなければ十分な理解が難しいことが多い。
制作陣は当然の共通理解と思って、ベースを定め、その土台の上にオリジナルのシナリオを構築していくわけだが、
映画館の客席でアメリカ人だけが大笑いし、日本人の我々がキョトンとしてしまうことなどしばしばあることだ。
「晩春」は、
セリフも俳優の動きもぎりぎり最小限までに簡素化されているが故に、日本の文化に通じていない海外の鑑賞者にとっては、いったい何が起こっているのかが終始意味不明なまま 話が終わってしまう
これは最難解作品の部類だろう。
アメリカの映画学校でこの「晩春」がテキストとなったそうだ。講師が自信をもって名作を上映した後、参加者たちがコメントを述べ合うわけだが、このディスカッションで学生の感想を聞いて先生が腰を抜かしたというエピソードが面白い。
講師
笠智衆と原節子の長い沈黙の場面で、床の間の生花の長写しがあったが君たちはあれをどう捉えるかね?
学生
花が小刻みに揺れているように見えました。あの二人が被写体から外れている時間に近親相姦が起こったのだと思います。
これですよ。
嘘のような本当の笑い話だが、
無口で不器用な男やもめ と、控え目で身を慎む孝行娘との間に流れる、結婚式前日の語らずとも流れるその想い、風、畳の匂い、
・・これらは日本文化の血と肉なのであり、大和魂の珠玉の結晶なのだと思います。
「花嫁の父」(1952アメリカ)では娘を手放す父親のドタバタが愉快でした。
しんみりと言葉少なな小津安二郎も、賑やかさしきりのアメリカ映画も、「父親たちのその心中」については実は一緒で、ボリウムの強弱こそあれ、そこにある心情はグラデーションであることは確実でしょうけれど。
能面の如き原節子の表情に、黒澤作品での役柄だったらと想像も膨らみ…
小津安二郎に関しての書籍紹介の中で、
彼の「紀子三部作」への言及があったのを
切っ掛けとして、
「晩春」を先ずは、と再鑑賞した。
小津監督の「東京物語」は
私の生涯のベストテンの一作だが、
本来、私にとっては、このような淡々と描く
作風の作品は苦手の分野なのだが、
何故か小津映画は全くその範疇に入らない。
登場人物の心象を写し取ったかのような
合間合間の静止画的風景カットの挿入など、
全てが計算され尽くされた演出のためか、
最初から最後まで
作品世界に浸ることが出来る。
そして、この作品では、
父の娘を想う芝居の告白に涙が。
それにしても、原節子という女優、
にこやかにしているうちは良いのだが、
時折見せる彼女の、
観ている側が凍り付いてしまうような
能面の如き表情を見ると、
小津映画の女優陣の中でも
特異なキャラクターに感じ、
そんな彼女が演じるのが、
黒澤明作品での、「蜘蛛巣城」の山田五十鈴や
「乱」の原田美枝子のような、
妖艶さを醸し出す役柄だったら、
と想像も膨らんだ。
風情ある複雑な親娘関係。親の心娘知らず。
内容は早くに母を無くした父親と独身27歳の1人娘の親子関係にフォーカスした静かで、何処となく寂しさと幸せを感じる作品。原節子主演の紀子三部作を楽しみに鑑賞。好きな言葉は『ねぇ!お父さん!私お父さんの事とても嫌だったんだけど‥zzz』本当の事は伝えられない切なさは目が醒める場面でした。嫁に行かないと心配だし行くと心配だ。とも父親同士の会話。『そんな事ならお前と方方行っておくべきだったよ』小津安二郎節とも言える積年の後悔は誰しもが多少感じるのではないでしょうか?!自分が気になったのは妹は拾ったがま口財布👛は本当に届けたのか気になります。捨てる神有れば拾う神ありなんでしょうか?!そして旅の最後に、これが人間世界の歴史の順序なんだよという台詞通り、最後の寄せては返す鎌倉の浜辺で終わるシーンを其々の立場で共感する事の出来る素晴らしい作品でした。
【娘が父を想う心。父が娘を気遣い付いた優しき”嘘”。低迷していた小津安二郎監督の名声が一気に上がった作品。但し、現代社会では自由恋愛を基本にして欲しいなあと思った作品でもある。】
ー 妻を早くに亡くした曽宮周吉(笠智衆)は、大学教授をしながら娘・紀子(原節子)と2人で暮らしている。
紀子は27歳になるが、身体を害したこともあり、父を置いてよそへ嫁ごうとはしなかった。周吉と彼の実妹・田口まさ(杉村春子:コミカルな演技で作品にアクセントを与えている。)は、結婚を渋る紀子の相手を何とか見つけようとするが…。ー
◆感想
・私事で恐縮であるが、一昨日娘が”お父さん、今年も京都に行かないんだ!”と言いながら帰省した。愉しき二晩を過ごし、彼女は旅行に!行った。
今作では、娘が27歳になるのに嫁に行かない事を心配する父や実妹の姿が描かれ、最終盤で、紀子は父の説得を聞き入れ、嫁に行く。
- 名作であるし、父娘で京都に行った時の紀子が父に掛けた言葉、”私は、ずっと父さんの傍にいるわ・・。”という言葉には、素直に感動した。-
・今作は、20代に一度鑑賞している。だが、当時、何が面白いのかサッパリ分からず・・。40代になり、年頃の娘を持つ身になって初めて響いた作品である。
- 映画って、観る時の年齢、境遇によって全く感想が違う事を体験した。-
・但し、今作の後半の流れは余り好きではない。
紀子の気持ちが蔑ろにされているからだと感じたからである。
結婚は必ずしなければならないものではないと思う。(してくれれば、勿論嬉しいのだが・・。)
- 私の枕頭には、お気に入りの文庫本が10冊程度、月替わりで置いてある。その中には現在、石井妙子著の「原節子の真実」がある。その中の彼女のコメントを記載する。
”親の言う事を聞いて、見合い結婚を選んで生きていく。そういう意味で、今度の「晩春」の役にはちょっと割り切れないものがあり、遣りにくい役です。”
成程。
本当に純正日本人ですか!という美貌、容姿を持った大女優は、意識の面でも時代の先を行く方だったのである。-
<今作は、父娘の感動作ではあるし、小津安二郎の映画監督の地位を盤石のモノにした作品であるし、能のシーンでの原節子演じる紀子の苦悩する表情も印象的な作品である。
少しづつ、日本が世界に誇る大女優、原節子さんの作品を見て行こうと思った作品の中の一作である。>
今にも通じる、父と娘。
優しさと切なさのあわい
家族という温かい人間関係の輪郭を保つものは何かといえば、それはある意味旧来的な「制度」だったのではないかと思う(今は違うだろうけど)。男は外で稼ぐ、女は家庭を守る。あるいは嫁を貰う、嫁に出る。こうした営為の絶えざる反復によって家族というものは大いなる時間の波を乗り越えてきた。
しかしこの「制度」は、同時に家族という人間関係を損なわせる要因そのものでもある。仕事をするかしないか、誰と結婚するかしないか、そういった「制度」をめぐる問題によって家族関係に不和が生じた経験は誰にでもあるのではないか。家族を未来へと繋げていきたいだけのに、そのことによって現在の家族が引き裂かれてしまうアンビバレンス。
娘の紀子は早くから妻を亡くしてしまった父・周吉の面倒を見ているが、周吉はそれによって紀子の婚期が遅れることを危惧している。「面倒を見てくれる再婚相手がいる」という周吉の言葉によって、ようやく結婚へと舵を切りかける紀子だったが、不意に「いつまでもお父さんと一緒にいたい」と本音を漏らす。しかし周吉は「結婚すれば本当の幸せが手に入る」と最後まで紀子の背中を押し続けた。とはいえ紀子が本心から結婚を前向きに捉え直すことができたのか、それを明示する描写は最後までない。
紀子を嫁に送り出した日、周吉は姪と酒を交わす。しかしその表情はどこか空虚だ。姪が「あたしおじさんのとこに会いに行ったげる」と周吉を励ますと、周吉は「本当に?本当に来てくれるんだね?」としきりに訊き返す。家に一人で帰ってきた周吉はりんごの皮を剥きながら静かに肩を落とした。そこで映画は幕を閉じる。
ここには不可避的に自己否定を繰り返すことによって未来へと延命されていく家族という人間関係の哀愁が描き出されている。紀子も周吉も、本当はいつまでも一緒にいたいのに、家族を下支えする「制度」が存在していることによって分断を余儀なくされているのだ。
しかしそこまでして家族などというものに拘泥する意味が果たしてあるのだろうか?「ない」と断じることは現代でこそ簡単だが、それが単に遺伝子学的な結束を超えた何らかの価値を有していることは小津安二郎の生み出した数々の名画が、あるいはそれらに対する市井の評価が示唆している。家族とはいいものです、と全肯定するのでも、家族なんかクソ喰らえだ、と全否定するのでもなく、あくまで単調なトーンの中でその陰陽をつぶさに描き出していく。それが小津映画の本髄だ。
意味の有無という問題圏の手前(あるいは向こう側)でただただ素朴に存在している家族という人間関係についての、ただただ素朴なスケッチ。「制度」という呪いを受ける対価として繋がっていく家族に意味があるかはわからない。けれど少なくとも紀子や周吉にとってそれは、現にそこに「ある」ものであり、これからも「続いていく」ものであったのだ。
映画を見終え、紀子や周吉は今ごろ何をしているのだろうと考えていたところ、ふと夕暮れの情景が頭の中に浮かび上がってきた。
優しさと切なさのあわい。
おそらくこれが家族というものの正体なんだろう、と私はおぼろげながら思った。
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