麦秋のレビュー・感想・評価
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コミカルな演出の中での、東山さんの表情。 胸を突かれる。
東山さんの台詞はそう多くない。
母としての気持ちを述べ、息子に叱られて複雑な表情をすることもあるが、基本は何気ない日常会話か、夫の言葉の繰り返し、相槌。
だが、時折、台詞なして見せる悲しげな表情。こんなワンシーンだけで、とてもその情感が迫ってきて、胸を突かれる。なんてすごい女優さんなのか。
娘の結婚を巡る話。
1980年代でさえ、女性の結婚はクリスマスケーキに例えられていた。25過ぎると売れ残り。あとはバーゲンセール。
だとしたら、1950年代はどうみられていたのだろう。終戦から6年後。紀子の最適婚期には年齢の釣り合う男性は戦争に取られたか、終戦後は、次兄・省二のように、帰還のドタバタで、縁がなかったのだろうか。とはいえ、作中では、紀子が結婚する意志がなく、周りをやきもきさせていると描かれている。
『紀子3部作』の真ん中の映画。
まだ、『晩春』は見ていないし、小津監督映画もまだ数本しか見ていない。
鑑賞している中では、原さん演じる役の中で、初めて自分の考えをビシバシ言っていた。
他の作品は、”世間”の目を気にしたり、”婚家を含む家族”に遠慮する女性を演じることが多かったのに。『東京物語』ではラスト近くに思いを吐露するが、それ以前・その吐露しているときでさえ、”良い嫁”としての側面を見せ、その本心との揺れを見せてくれる。
紀子だけではない。親友のアヤも自分を貫く娘。他の既婚組も、世間体で無理に結婚したというより、「結婚は良いものだ」と自分の意思をしっかり持っている。兄嫁・史子は家族のために働いているが、夫や舅・姑の許可なく、ホールケーキを買って(しかもかなりの高額!)、自分たちだけで食べているとか、自分の意思を示す。夫唱婦随的に夫婦で協力し合う場面でも、夫・康一は、史子を頼り、史子もきちんと自分の意見を表明する。
この映画では、生き生きとした女性たちが次々出てくる。
大家族。両親世代はすでに隠居して、長男・康一が家長となっているのか。と言っても、康一夫婦は両親を立てているようだが。
上流~中流の家では、結婚はまだ家と家の繋がり。たとえ恋愛でも、形だけでも、仲人を介して、”家”として、家長の承認を得て決める頃。封建的な家では、家長がすべてを決めてと言うところもあったが、間宮家では、娘の意思を尊重している。
そんな世間の風潮と、職業婦人となった娘の想いを描いていく(と言っても、職業婦人としての気概はない)。
うまくまとまるかと見え、最終的に周りの心配をまったく顧みず、紀子は自分の意思を貫き、自分で結婚を決めてきてしまう。
それに面喰い、それぞれの反応を見せる両親・兄夫婦。
兄嫁は「自分は何も考えずに嫁いできた」とわが身と紀子を比べるから、仲人からのお話でまとまったのだろう。
そんな価値観を持つ家族の中で、紀子の結婚はどうなるのか。
そんな戦前・戦中と、戦後の価値観の変遷を描いた映画。
軍部の価値観を押し付けられた時代から、家族の価値観にからめとられながらも、それぞれの価値観で動いていくさま、女性の意思を、喧嘩しながら、話し合いながらも、認めていくさまが、キラキラと輝いてまぶしい。
そんなドタバタを見せながらも、父が繰り返す「私たちは良いほうだよ。欲を言えばきりがないが…」も心に響く。
足るを知る。今あることに感謝する。その価値観が平安を与えてくれる。
戦前・戦中、軍部の台頭を許してしまった両親世代が、父の兄に促されて、隠遁するのも、新しい世への期待と見えてしまう。
というように、社会の流れ、家族の変遷を描いているが、
同時に、1950年代の社会・家族の記録。
上級~中級階級の生活様式が垣間見える。
尤も、私には面喰うことも多いが。
パンを蹴った子どもを叱るのは当然に思えるのだが。
意外に台詞は言い切り短文で、乱暴に聞こえる。演じる役者たちが品が良いので下世話に見えないが。
料亭の有様。
料亭にいる上司の間に挨拶に行くのか。料亭の女将・中居の仲介で人脈を広げていくのか。
などなど。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
≪以下、ネタバレ≫
紀子は、次兄・省二の親友である矢部を選ぶ。
条件の良い(旧家の次男であり、大企業の常務)である男との縁談に気持ちが動いていた家族は慌てる。
やはり、家柄、社会的地位、収入が多いほうが幸せになるという価値観。勿論、世間的に人柄は悪くないらしいという点はしっかり押さえている。
母は母で、紀子くらいの美貌があれば、お手伝い付きで、まるで童話のお姫様が嫁ぐ先のような結婚を夢想していたりする。
それが、バツイチでコブ付きを選ぶなんて、苦労するに決まっていると決めつける。雇われとはいえ、医者なのだから、収入が低いということはないのだが。
しかも、母・しげのたみへの対応や、良家の家屋を比べると、間宮家より矢部家は格下なのか。康一は矢部の人事権を持つ上司であり、その点でも、格が違うという認識なのだろうか。
私からしたら、どんな人柄で、次男とはいえ、どんな親族がいるのか判らない先に嫁ぐより、
長年お互い気性を知っている家族に嫁ぐ方が安心だと思うのだが。
コブ付きだが、紀子には甥っ子たちを世話している実績もある。コブたる矢部の子どもの気性も知っている。
ましてや、同じ小説を読みあう仲でもあり、趣味・嗜好もあっている。
熱烈な恋心はないけれど、安心感はある。
「40歳まで、独身でいた人は信じられない」という言葉には、「貴方だって”行き遅れ”と言われる年齢なのだから、それを言うのはおかしい」と言ってやりたいけれど。
結婚の条件は今も昔も変わらない。
その、「でかした!」というたみの仕事だが、矢部は素直に喜べない。
母に何から何までお膳立てされて、男としてのプライドを潰されたように感じたか。
上司である康一の反応を考えてしまったか。
独身への決別。
世間的に、まだ、女性が独身を通すのは難しい時代。
ましてや、家族は紀子の意思を無視する人たちではないが、もろ手を挙げて大賛成と言うわけでもない。
不安だったり、生き方を変えねばならない気持ちだったり、安心した巣からでなくてはならない寂しさ。
胸にしみた。
家族は最後にはバラバラになってしまう寂しさ
終戦後5年ほどの東京がすっかり復興出来ていたことに感動。大和が実家という事だったが、奈良の大和ではなく神奈川の大和だと思ってしまった。当時は奈良のことを普通に大和と言っていたのだろうか?
「宗方姉妹」は、どうにもならなかった
「宗方姉妹」の翌日、BS260で視聴。
「宗方姉妹」では、原作の時間設定に無理があった。妙齢の主人公たちが満州帰り、少し年上の男がパリ帰りといったら、出かけたのは戦前のこと、帰国はせいぜい昭和15年(1940年)頃か。この映画の製作は1950年だから、10年間のタイムラグがある。どんなに、野田と小津が優れた脚本を書いても違和感が残り、原作の大佛次郎に責任がある。この原作は朝日新聞の夕刊に連載されたそうだ。書き手にも読み手にもノスタルジーがあったのだろう。
もう一つは俳優陣、「宗方姉妹」の主要人物は田中絹代と高峰秀子、田中は何かの理由で内面をうかがわせる演技を見せることができなかった。高峰の秀逸なコケットな様(さま)は、小津の映画には合わなかったとしか言いようがない。
それでは「宗方姉妹」にはなくて、この「麦秋」(1951年)にあったものは何だろう。間違いなく戦争の影、笠智衆の弟、原節子の兄は戦地から帰ってこない。あきらめきれず「尋ね人の時間」を聞いているところがでてくる。東宝のモダニズムでは、この描写ができなかった。
それから、東山千恵子の扮した母に差している老いと病の影、動作が遅いだけでなく、原への縁談の最初の候補は年を取りすぎていると言い、二人めの候補には子供があると言って涙を流す。これでは娘を手放すことなんてできはしない。しかも、この二つの要素は、やんちゃな(笠の)子供たちを含めて、そのまま「東京物語」につながっている。それにしても子供たちは贅沢だ。鉄道模型をねだるなんて。
それでは、この映画で、どこが一番印象的だったのだろう。
何と言っても杉村春子の演技、大事なところで原に「あんパン食べる?」宗方姉妹では、対照的に高い「ケーキ」を大事にしていたのだろう。原は「晩春」(1949年)ほどの美貌と壮絶さを見せることはなかったが、出てくるだけで映画が安定した。
そうだ、この映画は、見事に「晩春」と「東京物語」をつないでいたのだ。
結婚を決めた後の原節子がテーブルに伏せて涙するシーンの意味合いは…
「紀子三部作」の「晩春」に続いて
再鑑賞したが、共に
“女の幸せ=結婚”的認識に
支配された時代における、
本人及び家族の心象を描いた作品だった。
そんな保守的価値観の中で、
この作品の紀子は、「灯台もと暗し」あるいは
「遠くの親戚よりも近くの他人」的気付きで、
子供のいる幼なじみとの結婚を決断する。
紀子は「晩春」ではファザコン的女性像、
この作品では家族依存的女性像に感じたが、
いずれにしても、
現状から脱却出来ない人物像だ。
そんな中、この作品ではそのハードルを
越えたようにも思える幼なじみとの結婚を
決断した。しかし、
最後のテーブルに伏せての涙のシーンは
そこから完全に脱却出来てはいなかった
ことを示していたのだろうか。
そしてそれは、この作品のテーマとも
評される家族の系譜的なものにも、
各個人の心の痛みが伴うとの
意味合いなのだろうか。
ところで、小津映画はどの作品でも
涙を誘われる場面があるが、この作品では、
杉村春子が息子との結婚を望む心持ちを
原節子に打ち明けるシーンにジーンと来た。
それにしても、笠智衆は不思議な俳優だ。
「紀子三部作」の中だけでも、
この作品で母親役だった東山千栄子とは
「東京物語」で夫婦を演じ、
妹役の原節子とは「晩春」では親子だった。
実年齢の枠を超えて配役されても、
何の不自然さも感じさせない貴重さを
感じる役者だ。
「小津安二郎の最高作は?」「もちろん、麦秋!!」
小津安二郎監督のキャリアを考えた場合、初期のサイレント時代はアメリカ映画を模倣した喜劇をたくさん撮られていて、トーキーに移行してからが世界的にも評価が高い家族、ひいては父と娘、母と娘といったテーマが柱となっているように思います。前者の代表格が「生れてはみたけれど」、後者の代表格が「晩春」「東京物語」であり、特に「東京物語」は世界の映画監督が選ぶ史上最高の映画ベストテンで1位になるなどゆるぎない評価を得ていると思います。しかし私が個人的に考える小津安二郎監督の代表作、そして1番好きな小津安二郎監督作品はこの「麦秋」です。内容としては婚期を逃しかけている娘の結婚に揺れる家族のお話なんですが、全体的に初期を彷彿させるようなユーモラスな味つけがされており、微笑ましく観る事が出来ます。特に笠智衆さんの2人の子供たちや、原節子さんや杉村春子さんの演技にもその傾向が見て取れます。中でも原節子さんが杉村春子さんに選んだ相手が彼女の息子だと告げるシーンは、杉村春子さんの反応のうまさもあって絶妙な名場面だと思います。ただそんなコミカルさだけではなく、ラストに用意された原節子さんの涙は、青春に終わりを告げるようで切なくなります。まさしく小津安二郎監督の名人芸の集大成だなぁ。
【“輪廻と無常。”結婚の価値観を見出せない娘と、そんな彼女に結婚して欲しいと願う家族の姿を優しき視点で描いた作品。相手を思いやる日本人の品性高き、気質が横溢している作品でもある。】
ー 今作を鑑賞前に石井妙子著の「原節子の真実」を読んだ。
そこに記されていたのは、原節子さんが、今作を含めた”紀子”三部作を好んで演じた訳ではなかった事が記されている。
どこまでが真実であるかは今や分からないが、勝手な推測であるが、原節子さんは旧弊の”女性は30歳前に結婚するべき”という考えに反発していたのではないか、と類するシーンが多数描かれている。
実際、原節子さんは終生、独身を貫かれている。-
◆感想
・”輪廻と無常”とは、今作の監督である、小津安二郎さんが今作のテーマとして掲げたモノだそうである。可なり深いテーマである。
■北鎌倉に暮らす間宮家は、周吉(菅井一郎)と妻の志げ(東山千栄子)、長男・康一(笠智衆)夫婦とその子供2人、そして長女・紀子の大所帯。
ある時、紀子の上司である佐竹が、まだ独身の彼女に縁談を持ちかける。
周吉夫婦も康一夫婦も乗り気になり、紀子もまんざらではない様子なのだが…。
◆感想
・今作は、結婚が全てではないと思っている紀子(原節子)と彼女の結婚を願う家族の姿が、コミカル要素を交えて描かれている。
ー だが、紀子は未だ28歳である。時の流れを感じる。終生、独身を貫いた原節子さんが
今作を気にいっていなかった事が、何となく分かる気がする。
原節子さんの先進的な想いが伝わって来る気がする。-
・ゴシップは好きではないが、当時原節子さんと小津安二郎さんの恋も噂として流れたそうである。
<だが、今作はそんな下世話な事を考えずに、一人一人の家族の一員が、如何に家族の幸せを考え、思考し行動する姿を描いている姿を、素直に見たい作品である。
そこには、相手を思いやる日本人の気質が横溢しているからである。
家族のそれぞれが自分なりの考えを持ち、複雑な人間関係を織りなす様を細やかに捉えている作品でもある。>
原節子の存在感
自然体の演技が魅力的である
ずっと彼女の表情を追いたくなる
好きではないけど、
心から安心できるの
こんな台詞、他にあるかね
素晴らしい
にしても小津安二郎の映画は何を観ても
父と娘だ
しかも、いい歳して未婚の娘に困ってる
こんな状態
時代柄仕方ないが、
正直この筋が腹立たしすぎて
もうまともに観れないよ
初夏です。
2022年7月31日
映画 #麥秋 (1951年) 鑑賞
嫁と姑で結婚を決めるとは、しかもその後に「アンパン食べる?」
なかなか渋いシーン
#杉村春子 先生はこの時既におばあさん役をやられてたんだな
女性は幸せな結婚を求められていた時代の作品ですね
若い女性が見たらどう思うのかな?
様々な人間模様と円環の物語。リアルサザエさん。
内容は、小津安二郎監督の紀子3部作の2作品目の映画。原節子演じる紀子を中心に家族の繋がりと周りの環境などに左右されながら自分自身を見つめ直し人生の初夏を考えさせられる結婚観と家族観の物語。好きな言葉は『大和は、まほろばぢゃ』『若い者の邪魔したら悪い』の言葉の対比が奈良の山奥は大和と生老病死の円環から具体的に映像にした所が凄い。『灯台元暗しって言うぢゃない』結婚を決めたこの言葉の裏に、戦争で帰らず終いの紀子の兄の省二の面影を補完するかの様に、その省二の友達に嫁ぐ決心をした所が戦争の色恋し呪われた時代だなぁと感じた。『カナリヤの餌買ってくる』も南方戦線で帰って来ない子供の省二を何時迄も思っている親心が胸を締め付ける。好きなシーンでは、紀子1人お茶漬けのシーンと砂浜のカメラを垂直に上げるシーンが印象的でした。フィックスで撮る事が多い小津安二郎作品ですが、ツケパンやカメラが動く所は特にアクセントが効いて楽しかったです。物憂げそれぞれの心に空いた穴を表している様な余韻のあるシーンは味があって非常に好きです。終始家族円満家庭の中に戦争🪖で、埋められない穴があき、それぞれが手を取り合いながら必死に生きていこうとすると同時に、虚無感や厭世感が覗かれ老人といわれる人生の終焉にあたる人は、人生を振り返り纏める様な寂しくもあり嬉しくもあり作家性のある台詞には名作と言われる所以かと思いました。
娘目線、親目線交互に見れる。
・娘が縁談を渋る話ですが。昭和の大家族の生活が垣間見れるし。
親が「今が一番いい時かもしれん」と思いつつも、子供たちのことを考えたら。
元気でいれば離れて暮らしても、また会える。そうだよね。
固定カメラの構図と人の動き、ストーリー展開、職人技で素晴らしい
主人公、独身の妹:原節子、兄:笠智衆と妻:三宅邦子、父:菅井一郎、母:東山千栄子らが繰り広げる20代後半の独身の妹の婿探しが家族中の関心ごとに。登場人物の言葉はそれぞれ少ないものの、頑固で融通の利かない笠智衆だけは声を荒げたり、家族の中でもほかの女性たちが声を出しにくい決めつけた言い方をしたりしている。
そういう中でも原節子はぶつかり合うのを避けながら自分の意思を通そうとする。
年頃の娘を持つ家族の関わり合いがとてもホームドラマチックで安心して見ていられる。
固定カメラでいくつかの部屋を撮影しているが、人物がそこを動いてカメラを変えることにより人の移動により動きを与えている。
一件地味な映画であるが、じっくり見ると、その映像の作りこみに心打たれる。
Amazon Prime
日本映画のオールタイムベストだけでなく、世界屈指の名作とされるのも当然のことだと思います
感動の涙が流れました
主人公は原節子の演じる紀子のようで、実は紀子の父親周吉だったのだと思います
終盤の周吉老夫婦が短く会話を交わし、遠くを見つめるともなくみやるシーン
人生の様々な出来事が二人の胸中に長く思い返されているのです
家族がうまれ育ちまたそれぞれに家族をつくり離れていく
本当に幸せでしたよ
周吉の妻のその台詞にこそ本作のテーマが込められてあると思います
その妻の言葉を周吉は噛み締めています
普通の暮らしをして老いていく、そして子供達はそれぞれに自立して巣立ち、自分たちは生まれ故郷に帰り人生を振り返る
このような幸せな老境に達した幸せ
戦争で次男を失くす不幸はあってもこれ以上の贅沢は言えない
その平和のありがたみがラストシーンの耳成山を背景にした奈良盆地の光景に表されていると思います
空に消えて行く風船は戦地から未だ復員せずもう死んだものと諦めている次男のことを象徴しているのでしょう
踏切で走りさる横須賀線の電車を見送ったまま、遮断機が上がっても動かず遠い目をする周吉
彼の脳裏には過ぎ去った人生の数々のシーン横須賀線の電車と同じように猛スピードで去来していたのだと思います
シーンとシーンの間の登場人物がいない独特の余白の空気感
胸中に渦巻く色々な思いを言葉にはせず、遠くを見つめる登場人物達
友人あやの母親の探し物シーンなどのくすりとするギャグも冴えています
日本人だけに分かる日本人だけの映画のようで、世界中の誰もが共感できる普遍性のある映画だと思います
日本映画のオールタイムベストだけでなく、世界屈指の名作とされるのも当然のことだと思います
紀子は矢部と突然結婚を決意します
その理由は確かに彼女の言う通りだと思います
しかしそれは彼女が自分で自分を納得させている言葉のように思います
ニコライ堂近くのお茶の水の喫茶店で矢部とコーヒーを飲むのですが、戦死したと思われる大好きだった兄の省二の手紙のことを彼女は矢部から聞きます
その時に彼女は矢部に兄省二の面影を見たのは確かでしょう
だから、あやに矢部のことをあなた好きなのよと言われた時、彼女は違う、安心できる人だから結婚するのよと答えたのです
ほら、やっぱり惚れちゃたのよと言われても、そうじゃない!と言い張るのです
そして家に帰り独りでつまらなそうにお茶漬けを啜る時の彼女の顔にはいつもの笑顔は無く、少しも楽しそうではないのです
彼女がその年になるまで独身でいたのは、妻子も有るであろう上司の専務に憧れていたからではないでしょうか
序盤での専務との会話はまるで夫人のようです
専務は節度を持って接しており、縁談まで世話しようとしていますが、終盤の退職の挨拶に来た紀子に彼はつい本音を冗談として口にします
もし俺だったらどうだい
もっと若くて独り身だったら・・・
駄目かやっぱりとお互いに笑ってごまかすのですが、彼は痛む腰を無意識に叩き、もう若く無いと自分に言い聞かせ戒めています
そして彼女に東京を良く見ておけと言いつつ、彼女の喪失の重さを今になって思い知っているのです
彼は本当は遊び慣れている男であることは、あやがかれのところに来た時の寿司の会話で分かります
蛤と巻き寿司は好きかい?の問いかけは、実は猥談です
料亭育ちのあやは直ぐにそれに気がつき怒ったのです
もっと言えば、あやもまた専務に魅かれていて紀子にかこつけて何かにつけて彼のところに通っています
密やかな三角関係が水面下にあったのだと思います
そうして家族写真撮影のあと、家族団欒の夕食のシーンでオルゴールを思わせる音楽がなり続けます
これがこの家族の記憶にいつまでも残るであろうことを演出する秀逸な音楽であったと思います
そしてこの大家族がそろって食事するのももう最後になると言う会話になったとき、バラバラになる家族の原因を自分が作ってしまったと紀子が泣くシーンになるのです
実は彼女はそれだけが原因で泣いているのではないと思います
憧れの専務から逃げ出して、手近にあったきっかけに飛びついていただけなのだと、やっと自分で思い至った、その涙だったのだと思うのです
その結果に彼女は今さらながら気がついたのではないでしょうか
専務とあやとの会話のヘップバーンとはオードリーではなくて、キャサリン・ヘップバーンの方です
彼女はフィラデルフィア物語など気の強い現代的な女性を演じるのが常でした
初夏、麦が実る季節
劇中の季節だけでなく、紀子も人生の初夏を迎えているのです
実らぬ恋を諦めて矢部と結婚をし秋田に行った彼女は、これから色々な苦労を経験し乗り越えていくのです
そうして彼女も周吉達のような老夫婦になっていくのでしょう
そのような感慨をもって、花嫁が行くよと周吉は眺めているのです
その花嫁の行列が進む背景にある低いなだらかな山は大和三山のひとつ香久山です
ラストシーンの三角の小さな山はこれも大和三山の耳成山です
奈良盆地の中央、近鉄大阪線の耳成駅の南側1.5kmの辺りでのロケのように思われます
振り返って南を見れば香久山です
ここから北側の耳成山方向は結構都市化して今はもう見渡す限りの田圃の光景は見られなくなっていますが、南側の香久山方向は周吉夫婦がみたような一面の田圃が今も広がっています
残念ながら麦はもう植えられてはいないので麦畑ではありません
そこに点在する集落の中には映画に写るような古民家もまだほんの少し探せば残っていると思います
奈良観光の際は大仏だけでなく、足を伸ばしてこのロケ地辺りまで脚を伸ばして散策されては如何でしょうか
耳成山も香久山も山の姿は今も変わりはありません
藤原宮跡はそこから徒歩で西に直ぐそばです
明日香村にも車で近いです
もしかしたら勇ちゃんが周吉の兄・茂吉のような老人となって大和に墓参りに来ているかも知れません
小津安二郎の映画で一番好き。冒頭の出勤・登校前の朝の風景の演出は素...
小津安二郎の映画で一番好き。冒頭の出勤・登校前の朝の風景の演出は素晴らしい。ラストシーンに耳成山が出てきます。当時は周りにホントに何もなかったんだなぁ、と映画とは関係ないところでジーン。
☆☆☆☆★ 「いいのかね〜、勝手に決めちゃって」 「本当に困ったも...
☆☆☆☆★
「いいのかね〜、勝手に決めちゃって」
「本当に困ったもんですよ」
「う〜ん、どうしたもんかね〜」
小津の描く家族。それは世界にも類を見ない唯一無二な世界。
映画の途中で、楽しい会話の中。いきなり戦争から帰って来ない、消息不明の家族の会話になり。それまでの楽しい会話は暗くなる。
「もう帰らんモノと思ってますよ。これは(妻は)諦めておらんみたいですが…」
『晩春』でも、いきなり戦争の話題が登場し。一気に映画の世界観を一変させ。そして『東京物語』では、映画の歴史上でも驚異的と言えるあの台詞が原節子の口から発せられる。
「あたし…狡いんです」
《もはや戦後ではない》
当時の世の中がそんな風潮の空気の中、小津からの問い掛けは。一見して、映画が描く世界観からは逸脱した隠れたところで。
「忘れる訳が無い!忘れてはいけない!」…と言ったメッセージなのだろうか?
小津が描いた家族は、どうみても中流以上のかなり恵まれた家庭で間違いないのだと思う。
それでもなお、娘(この作品では妹)の結婚相手には、より位が高い身分の人に…と思う。
年齢差が有る事に不安を口にする母。
それに対して「贅沢言ってられないんだ!」…と。
「贅沢なのかね〜…」と母。
嫁を貰う男の立場に反し。嫁に行く女の立場の違いには、延々に相容れない深い溝が在るのかも知れない。
その為なのか?それまでのルンルン気分だった家の中が、まるでお通夜の様になってしまう。
遂に決断する原節子。
それまで、まるで〔サザエさん〕の様な家庭で在ったのに、あっと言う間に家族が散り散りになる運命が待っている。
この辺りの。小津演出による、観客の脳天にズドンとハンマーを振り落とす手腕は恐ろしい。
しかも、その一気に落ち込んだ心を。家族写真で一瞬の内に引き上げる手腕にも、やはりとんでもない程の恐ろしさを感じない訳にはいかない。
ちょっと前のネットの情報で、小津作品に於けるショットの秒数を数えた人が居たらしい。
特に晩年の作品に関しては。、上映時間を総ショット数で割ると。1ショットの平均秒数が殆ど一致していたらしい。
それが本当だったならば。小津は、1ショットの積み重ねで人間の感情をコントロールする事を考えていた事になるのかも知れない。
【行き組】と【行かず組】との人参問答(『晩春』では大根)を始めとする。多くの楽しい会話のキャッチボールの裏で起こるいざこざや、親夫婦の侘しさ等。
常々、個人的に。小津安二郎とゆう人に対して抱いていたのは…時代が時代ならば、ホラー映画作家になっていたんではないか?…と思う事がたまに在ったのだけど。まさに『麦秋』は、その思いを再確認(勝手にですけど)させてくれる作品でした。
初見 並木座
2019年4月18日 シネマブルースタジオ
・子ども2人が出てくるとわくわくした ・杉村春子があまり目立たない...
・子ども2人が出てくるとわくわくした
・杉村春子があまり目立たないなぁ、おかしいなぁと思ってたけど後半の展開で納得
・自分で結婚を決めた紀子に対する家族の反応が時代を表してる。いや、ひょっとして現代も陰でそういう反応してるのか?
一番好きなシーンは原節子と淡島千景が東北弁で会話するところ。後半...
一番好きなシーンは原節子と淡島千景が東北弁で会話するところ。後半になって笑えるシーンがいっぱいでした。
これは身につまされる内容であった上に母親と一緒にと観てしまった(子供が居たほうが結婚できるのかぁ)。と、何かを言われるんじゃないかと、びくびくしてしまいました。
笑顔の裏は?
紀子は本当に矢部が好きで嫁ぐことにしたのだろうか?惚れていた相手に見合いを仲立ちされたところに秋田への転勤が決まった矢部は渡りに船だったのか。自分が独身でいることが家族を繋ぐ鎹に成っていることに気付いていたのか。紀子の笑顔の裏側にある感情は何だったのか。色々と自分にははんだんがつかなかったが、画面の構成や仕草、間の取り方、やり取りの言葉などすべてのがとても印象的。
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