廃市のレビュー・感想・評価
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大林宣彦監督の描きたかったこと
1959年に発表された福永武彦の短編小説を
34年後、大林監督が情緒豊かに描いた作品。
低予算、16mmフイルム、2週間弱の撮影、
プロによる自主映画とでもいいますか、
緩やかな映像、耳に残る音の数々、
光の置き方、自身によるナレーション、
監督の描きたい映画なのだとわかる。
水も川も風も草木も美しいところ、
しかし愛ですら動かない町に
ここは死んだ町なのだと
住人の誰もが諦める。
映画は美しい水の町の
ひと夏に起こった
誰も気にもとめない
小さな水紋のような物語
消え去ろうとしている物語を
とても丁寧に綴っている。
大林宣彦監督が何十年も切望し
商業映画ではなく低予算の映画として制作。
丹念に人の心を描いた作品であり
全編を通して映画愛を感じる作品である。
大林宣彦という映画人
その証となる作品。
※
うっとり魅了するような柳川の美しい景色が主人公
1 福永武彦の原作「廢市」について
福永武彦は芥川龍之介の門下生・堀辰雄の門下だから芥川の孫弟子である。その芥川に姉妹が同じ男性を愛する短編「秋」がある。
そこでは姉が妹に男を譲り、自分は平凡で面白みのない銀行員と結婚する。結婚した妹を訪ねていくと、楽しそうで羨ましい生活を送っている。それを見届けた姉は、ただ淡々と退屈な夫の待つ自宅への帰途につく…という話で、そこに若さゆえの希望やら異性愛、姉妹愛が現実の中に埋もれていくという人生の縮図が感じられた。
二人の姉妹が一人の男を愛するのは本作も同じだが、こちらでは姉がその男と結婚する。しかし、結婚後、男がほんとうに愛しているのは妹だと悟り、自分は身を引こうとする。
一方、男は姉を愛していると主張したまま、何故か別の女と暮らし始める…やれやれ。妹は妹で男を愛しているが、姉との結婚を喜びこそすれ、決して邪魔などする気はない。そして三人の関係は、突然の悲劇として幕を閉じる…。
読んでいると、設定は芥川、内容は堀辰雄じみた心理劇、そして舞台は白秋の「水に浮いた灰色の棺」のような退廃し死にゆく町。何とも贅沢な話ではある。
「こんな死んだ町、わたくし大嫌いだわ」
「わたくしたちも死んでいるのよ。小さな町に縛られて、何処へ行く気力もなくなって」
「(この町の人々は)本質的に退廃しているのです」
「この町は次第に滅びつつあるんですよ。ただ時間を使い果たしていくだけです」
こうした耳に残る印象的なフレーズはいくつも散りばめられている。ところが、いくら小説を読んでも、「退廃」のカケラも感じられないのだ。それが感じられるのは白秋のエピグラフくらいなもの。いかんせん深みやリアリティがなく、何だか人形劇でも見ている気になってくる。
また、恋愛心理の劇にしても、例えば男が愛しているのが姉妹のいずれであろうが、女房と別居して別の女と平気で暮らすような男の「純愛」に、果たしてどんな有難味があるのか、大いに疑問なのである。
読後に残るのは、何やら美しいタッチの文体と、空疎で説明過剰な恋愛模様。今風に言えば、ライトノベルを読まされた感じと言った方がいいかもしれない。その意味では、芥川の話を持ち出すなど、お門違いもいいところだったか。
福永の小説は「草の花」を読んだことがあるのだが、内容をからきし覚えていない。その原因は、やはり雰囲気だけで、リアルさがないからではないか。
2 映画化作品について
ずいぶん前に本作を断続的に見て、小生はこれを傑作だと信じ込んでしまった。
たまたまTVで放送されたのを機に見直してみたところ、その思い込みは半分は当たりだが、残り半分は大外れだとわかった。
大林監督はまた、例によって歯の浮くような少女趣味の謝辞を、わざわざ現代詩風の改行まで施しながら柳川市に捧げているのだが、本作に限ってはそれを非難する気になれない。何故なら、本作の主人公は柳川のウットリ魅了させられる景色だからだ。或いは見るべきものがほかにない、といったほうが正しいかもしれない。
縦横に張り巡らされた掘割と、そこを取り囲む豊かな木立、緑の水草をかきわけて進む小舟、薄暮の公園で強い風にあおられる植え込み、夜の大川に浮かぶ提灯を提げた無数の小舟…そのどれもが息をのむほど美しい。
この舞台で繰り広げられるのが上記の恋愛模様なのだが、やはり中身が空疎なので散漫な印象しか残らない。
小説では、姉妹に愛された男は姉を愛していると言い張りながら、心の中では妹を思い続けていて、その引き裂かれた心の苦しさに耐え切れず自殺してしまう。姉が身を引いたのは、その意味で正しい決断だったという設定だ。
映画ではここがちょっと変更され、男は本当に姉が好きなのに、愚かな姉はそれを信じ切れずに勝手に家を出ていくという設定になっているが…ま、リアリティが感じられないのは大差ないだろう。
出演者には言及しないほうが優しさというものか。ただ一人、峰岸徹だけは落ち着いて、いい演技をしていて救われる。大林監督のナレーションは、声はいいのだが、しょせんは棒読みの悲しさというところ。本職に頼めばよかったものを。
廃市に郷愁と愛を込めて
大林宣彦監督1983年の作品。
古い歴史を持つ小さな運河の田舎町が火事で焼けたというニュースを聞き、一人の男が思い出す。かつてその町で過ごしたひと夏の事、出会った美しい姉妹の事、抱いた淡い想いの事を…。
劇中では“架空の町”とされているが、撮影は福岡県柳川市で敢行。
スタッフと共に夏休みで訪れたこの町の美しさに魅了され、僅か2週間で撮影したという。
本当にそれも頷ける。劇中でも例えられていたが、日本のベニス。
ロケーションや名カメラマン・阪本善尚による映像に陶酔させられる。
水の町。劇中ほぼ終始流れる水の音が心地よい。
ユニークであったり、独特であったりの印象がある大林演出だが、本作ではシンプルかつ詩情豊かに。
登場人物たちの心情も繊細に綴る。
ナレーションも大林監督自ら務め、何処となく主人公とリンク。
ノスタルジーに浸れる作品こそ、大林監督の真骨頂。
10数年前、卒論執筆の為、この町を訪れた大学生時代の江口。一軒の旧家にお世話になる。
広い家には美しい娘・安子、祖母、お手伝い、若い船渡し、そして姉夫婦が住んでいたが、姉・郁代の姿は見えず…。
ある夜、女性の泣く声が…。
暫くしてやっと会った郁代。夫との関係不和に傷付き、身を隠していた。古風な性格。
郁代の夫・直之は他に女性が。しかし、郁代の事を深く愛している。
明るく魅力的な安子。そんな彼女に江口は次第に…。
が、安子がずっと想いを抱く相手は…。
4人の男女の複雑な感情が交錯。
新人の山下規介を小林聡美、根岸季衣、峰岸徹ら大林作品常連キャストがバックアップ。3人がさすがの名演、体現。
尾身としのりも印象的に好助演。
美しい芸術性の高い作品。
その一方、死や廃れゆく陰も。
日本にはどれほどあるのだろう。死んでいった町が。
ほとんどの人が存在すら知らないだろう。
が、あの町で生き、暮らし、僅かでも過ごした日々やそこで触れた淡い想いは永遠に忘れない。
廃市に郷愁を込めて。
プクッと膨れるもち
と拗ねる小林聡美の対比にニヤリ。静かな作品で、ゆっくりと過ぎる柳川の時間。後半に大きな展開を迎え、心のすれ違いと人間模様を描き出す。終始、マークに徹した尾美としのりの最後の捲り。自分の心を大切にしたいもの。
入江母娘が再登場。母たか子の貫禄に魅入られる。娘若葉はまだ若い。
廃市とは今や日本中に広がっているのです
大林宣彦監督の叙情性を煮詰めたような傑作です
冒頭とラストシーンで古びたローカル鉄道が登場して、主人公は外界からこの時の止まったような街にやって来て、去って行きます
彼は腕時計では無く懐中時計で時刻を確かめます
しかしこの街では時の流れが変なのか、動いているのか確かめに何度か耳に当てます
これは幕末太陽傳からのオマージュだと思います
時代を示すものが徹底的に排されています
戦後のいつか、1983年から振り返る少し昔としかわかりません
時折入る大林宣彦監督自らのナレーションでそれが分かります
九州柳川、水郷の街
美しい過去の日本の姿を留めています
それはつまり時が止まっていると言うことです
映画の中では柳川であるとは説明されません
最後の駅のシーンの片隅に写り込む、見逃してしまうぐらい小さな駅票でわかるだけです
あくまで、どこかの遠い古い街であるという設定です
その街を16ミリの粗い画質のフィルムが捉えて、古い街と古い記憶であることを強調する効果を挙げています
本作の公開は1983年ですが、映画の物語はその10年以上昔のこと、いつとはわからない昭和40年代頃のイメージのようにみせています
現代でありながら時代から取り残されつつある街なのです
だから本作には自動車は画面には出てきません
型式から年代のわかるものは注意深くカメラから遠ざけられています
さらにラジオは登場しますがテレビは出てきません
そのラジオも時刻を確かめようとスイッチを入れた際に聞こえた時報の知らせの一瞬だけです
外界から切り離されたように演出されているのです
時折、ピーンと音がします
何の音でしょう?なんで鳴るのでしょう?
あれは琴線の鳴る音なのだと思います
登場人物達の心に何かが響いた音なのです
水郷の水音が絶えずします
安子はそれを、街が死んでいく音なのよと言います
いいえ、今でももう死んでいるのよ
この街何の活気もない
クラシックなお仕事を持った人達が昔通りの商売をして、だんだんに歳をとって死に絶えていくの
若い人達はどんどん飛び出していきます
後に残ったのは年寄りばかり
いずれこんな街は完全に無くなるんだわ
私達も死んでいるのよ
ちっぽけな街に縛られて
私達の気持ちお分かりにならないわ
あなたみたいな他からいらした方には
また貝原直之はこうもいいます
水郷の掘割りは退廃的なものだと
街の者は本質的に退廃しとるです
生気というものが無か
ただ時間を使い果たしているだけですたい
そして、こうもいいます
人間も街も滅びていくとですねえ
廃市、ここはつまりそれですたい
柳川の寂れていく街の様
それは戦後の繁栄から取り残された街の象徴です
尾道は柳川ほど取り残されてはいませんが、日本の古い姿が残されている街でした
そして21世紀の日本
柳川は日本中の地方都市の姿になってしまったのかも知れません
廃市とは今や日本中に広がっているのです
だから大林宣彦監督は街おこしの映画を撮ったのです
美しい街並みは残しつつ、時代に沿った進歩と繁栄もしなければなりません
さもなければ日本が廃市どころか廃国になってしまいます
コロナウイルス禍という国難の果てにそうなってしまってはなりません
滅びの美学に酔ってしまえば、直之と秀のようになるばかりです
姉の郁代のように逃げていてはならないのです
安子のように花火のようには燃えないのとか諦めていてはいけないのです
主人公の江口は、直之を死に追いやったことに無自覚でした
彼がこの廃市に現れて直之と出逢わなければ、直之は、ただただ無為に時を使い果たしていっただけだったはずです
結局、彼はそれに思い至りはしないのです
直之の遺書を駅で読まされた時も、その遺書の言外の意味も汲み取れはしなかったのです
高校生の三郎君が動きだした列車に駆け寄って叫びます
直之さん、それにあんたも安子さん好いとる!
そう言われて初めて彼は自分の恋愛感情に気づかされて愕然としているのです
そして街をでて行く列車の中で、動き出した懐中時計の音に気づきそれを耳に当てます
そうしてやっと彼は、遺書の言外の意味を知り、
駅での安子の会話の意味を知るのです
ラストシーンの走りさる列車を背景にこんな独白がつづきます
しかし安子さんを愛しているからといって、もう一度この夏をやり直すことはできはしない
そしてその時僕は街が崩れ、取り返しのつかない時間が過ぎていく音を心の中を流れる川の音のように聞いているのだった
つまり、その時ようやく彼は、自分が直之の死の引き金を弾いたことに初めて思い至ったのです
そう自分には思えます
そして、この街の様々な音が悲鳴のように鳴り響くのです
まるで水妖セイレーンの叫びのように
それはこの街の死に行く音でもあり、江口の悲鳴でもあったのだと思います
深い余韻がいつまで続きます
薄幸の女性秀さん、入江若葉の40歳の姿でした
1961年の名作宮本武蔵のお通さんを演じた人です
もう若くは無いけれどハッとする可憐な美しさは面影が濃くあります
安子の祖母は入江たか子が演じていました
母娘共演だったのですね!
さすが元子爵の娘です
上品な旧家の老女の佇まいでした
素人歌舞伎の演目は「御所桜堀川夜討 弁慶上使の段」
その名場面での台詞「播州姫路の~」は宮本武蔵の出身地です
その宮本武蔵の映画でお通さんだった入江若葉がこれから登場しますよという前フリだったのですね
そしてもう一つ意味がありました
つまりその歌舞伎の演目の筋とは運命の出逢いが悲劇を生むということです
その伏線でもあったのです
英文科だというのに縦書きの原稿用紙にペンをすべらせる江口。
家の横には運河が走り、どこへ行くにも舟に乗るのが一番早い。日本のヴェニスのような町で暮らす一家。おばあちゃん(入江たか子)は柳川市から一歩も外へ出ていないという。江口は夜な夜なすすり泣く声が安子(小林)なのか、そのお姉さん(根岸)なのかが気になって一家のことに興味津々。
こうした貝原家に婿養子に入った直之。妹の安子とお互いに好きあっていたが、結婚したのは根暗なお姉さん郁代(根岸)。安子とは肉体関係はなかったようだが、郁代は家を出て、そのうち直之も秀(入江若葉)のところへ転がり込む。そして心中・・・
未来も何もない様子を破滅する家族を通して描く。柳川市が廃れていく(実際はそうではない)ことを表現している。大林作品の中でも文芸映画風なので、どうもしっくりこない。それでも主人公江口の視点でみると、ある種のノスタルジーなんだろうけど。
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