東京物語のレビュー・感想・評価
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喪失と合理主義について
私なんぞがグダグダ言う必要のない、問答無用の世界的傑作。グダグダ言いますけど。
小津の代表作でもあるわけですが、その理由として、本作には小津が描こうとしてきたであろう頻出する2つのテーマが過不足なく、きちっと描かれているからだと思います。
【小津の頻出テーマ】
①喪失と向かい合うこと
誰かを失うということは、本当に苦しく悲しく辛いです。離別もそうですが、死別はなおさらのこと。だから、我々は悲しみから目を逸らそうとします。
しかし、小津は悲しみから逃げても何も変わらないことを静かに、しかしきっちりと描こうとする人だと感じています。そして、喪失が描かれる作品では、必ず小津はポジティブな印象を与える人物に悲しみと直面させます。
小津が喪失の物語を繰り返す理由は、おそらく戦争体験でしょう。不条理に悲惨な現実に巻き込まれ、大切な人々との関係を断絶させられる。小津自身も大切な人を亡くしているのかもしれません。喪失との直面を描くことは、小津にとっての癒しの作業、つまりサイコマジック(byホドロフスキー師匠)の実践だったのかもしれません。
本作では、未亡人・紀子が相当します。彼女は先の戦争で夫を失っており、8年もの間ひとりで暮らしています。
終幕近くにて、紀子は「私は狡い」と独白します。亡き夫を愛しているが、彼を思い出さない日が増えてきている、と。愛しているが忘れていく罪悪感、そして将来の自分の生活の心配や展望を描きたい気持ちがないまぜになり、彼女を苦しめます。
小津は、このように苦しみ悩むことこそが、拭いきれない悲しみを真の意味で癒し、そのプロセスが人間を人間たらしめている、と強く主張しているように思います。身を引き裂かれるような痛みを超えることが、その人を成長させると考えているのではないでしょうか。
また、悲しみを語り痛みに向かい合うためには、誰かが必要です。しかし誰でもよいわけではなく、心のつながりのある人でなければならない。本作では老夫婦に当たるでしょう。東京にやってきた老夫婦に対して、紀子だけが心の交流を行ってました。だから、紀子は彼らに語れ、彼らも紀子を受け止めたのです。
このような心のつながりがあるからこそ、人は人として営めるのだ、と小津は語っているように感じます。だからこそ、彼はつながりの象徴である家族を描いてきたのだと思います。
②合理主義・プラグマティズムへの怒り
本作では二項対立が描かれています。それは、人間的なつながりを持ち、悲しみと向かい合える紀子や京子、老夫婦のポジティブサイドと、日々の忙しさに追われ、悲しみと向かい合うことのできない兄や姉のネガティブサイドです。
ネガティブサイドの人たちに対しては、紀子に「仕方ないのよ、私たちもああなるのよ」と言わせてますが、小津は仕方ないなんて微塵も思っちゃいない。明確に「フザけんじゃねぇ!」と怒っています。
小津は合理主義を、自身が考える人間的な営みを破壊するものと捉えている様子が窺えます。人から時間を奪い、その結果余裕を奪い、人間にとって最も大切な人とのつながりと情緒的な生活を奪う。すなわち、合理主義に人間性を奪われた人は、喪失の痛みにのたうち、悩み苦しむこともできなくなるのです。
兄と姉は喪失ができない。一瞬悲しむも、悲しみを抱えることはない。確かに忙しいし、常識的には致し方ないことです。しかし、小津はこの価値観にはっきりとNoと言っているのです。
だから、小津は終生サラリーマンをdisったのだと思います。
しかし、本作はネガティヴサイドの人々をdisったりしません。兄や姉は、悪でも虚無でもありません。そのあたたかさが本作を大傑作にたらしめているのでは、と感じています。
作中にて、兄と姉は昔は優しかったと語られます。つまり、彼らは合理主義によって人間性を奪われた存在、として描かれています。システムを憎んで人を憎まず。
美しいタイトルですが、表題の東京とは、もしかすると合理主義を象徴させているのかもしれないな、と思いました。小津の抵抗・反抗のアティテュードを感じざるを得ません。
本作は家族のつながりの崩壊を描いていると思います。合理主義に侵食され、その結果核家族化が進み、つながりが失われる世界を予言していたようにも感じます。小津映画は古き良き日本を描いているというイメージが流布していると思いますが、それって合理主義以前の豊かな情緒的つながりのことなのかなぁ、なんて想像してます。
しかし、小津が嫌うような人間性を奪うイズムはいつの時代にもあるし、戦中なんて命を奪う軍国主義があった訳ですし。小津は懐古主義というより、理想郷とか人のあるべき姿を描きたかったのかもしれません。
したがって、本作は単に昔を懐かしむような作品では決してなく、現代にも通用する普遍的な物語だと感じました。だから世界的に評価されているのかもしれません。
仕方がないこと
ドメスティックなようでインタナショナル 洋の東西、国も人種も超えて普遍的なものを表現できている作品です 永遠の名作、世界の映画遺産そのものです
言わずと知れた小津安二郎監督の代表作です
世界的にも評価は高く「映画監督が選ぶ史上最高の映画ベストテン」で1位になったこともあります
というか毎年その上位の常連です
小津安二郎監督自身も世界一の監督に選ばれたりして、近年ますます評価が高くなるばかりです
ファンとしては嬉しいばかりです
つまりドメスティックなようでインタナショナルなのです
洋の東西、国も人種も超えて普遍的なものを表現できている作品なのです
本作は1953年11月3日公開
今年2023年は公開70年の節目の年に当たります
また小津安二郎監督の生年月日は1903年12月12日です
つまり生誕120年目にも当たります
そしてお亡くなりになったのは1963年の誕生日と同じ12月12日
即ち没後60年でもあります
小津安二郎監督が青年期を過ごした松坂市のある三重県など全国各地でいろいろなイベントが開催されているようです
これから本作の公開記念日の11月3日や、誕生日と命日の12月12日に向けて、秋から初冬にはさらに各地で盛り上がりがみられることと思います
自分も今年になって三重県松坂市の「小津安二郎松坂記念館」と、本作のロケ地である広島県尾道市にある「おのみち映画資料館」に観光がてら訪問させていただきました
松坂では小津安二郎監督がどのように人間形成され映画監督を目指すようになったのかの原点を知る旅になりました
また尾道では、本作に登場するさまさなロケ地が公開後70年を経てもなお数多く残されていることをその現場で確かめることができて感激する旅になりました
「おのみち映画資料館」には小津安二郎監督に関する資料も数多くありいくら時間があっても足りないほどでした
「おのみち映画資料館」の建物自体本作の冒頭すぐにちらりと登場する古い倉庫をリノベーションしたものです
本作に登場する尾道の浄土寺や住吉神社の石灯籠は一目でこれだ!とわかります
もう何度目になるのか、また本作を見て感動を新たにしました
永遠の名作、世界の映画遺産そのものです
公開70年、生誕120年、没後60年
この記念すべき年にもう一度本作を鑑賞して、鎌倉だけでなく、松坂や尾道にも足を延ばされ聖地巡礼をされてみては如何でしょうか
自分が育てた子供より、いわば他人のあんたの方が。。。
始めは退屈そうだと思いつつ見てたら、なぜか惹きつけられる独特の魅力があった。綺麗事無しに、実際はこの物語のように親を鬱陶しく思う子供たち、親子とはいえ言葉とは別の本心が垣間見えたりする。この映画の解釈は様々なので、色んな映画批評家達の感想なども見てみたいと思えた。
市井の人の中に宿る神性の如きもの
言わずと知れた世界映画史上屈指の傑作である。その所以は、私の記憶が正しければ、本作監督小津安二郎を敬愛して止まないドイツの映画監督ヴィム・ヴェンダースが評した、本作登場人物の何でもない市井の人々が尊く思われてくるという、秀逸な脚本と演出によるものではないかと思われる。監督の小津安二郎は、観客がこの映画を見て、少しでも親孝行をしようと思ってくれたら嬉しいと語ったそうだが、正に主題はそうなのであろう。しかしこの映画の真価は、観客にそういった感情を起こさせる作品構成そのものにあると言って良い。極めて日本的な作風であるが、世界映画ランキングが更新される度に上位を占め続けるということからしても、世界的普遍性も合わせ持っているのであろう。見終わった後に、人間の心の中の神性の如きものに触れた気がする映画である。
戦後の悲しさ
「日常を描く」映画
東京で働いて暮らす息子たちのもとを訪れる両親の話。両親たちは広島に住んでいて、めったに東京に出ることはない。しかも、映画が作られた当時はまだ新幹線もなかったので、夜行列車に乗って、まるまる1日くらいはかけて行かなきゃいけない状況。今でさえ、ある程度歳をとってしまうと、田舎から東京まで出るのは骨が折れるのに、この時代はなおさら大変。それでも両親は、東京の息子たちの様子を見に行こうと決めたわけです。
ただし、息子たちは東京で日常の生活を送っていて、それを邪魔してやたらと騒ぎ立てるのは息子たちの迷惑になる。東京訪問を通して、もし息子たちに迷惑をかけてしまい、ギスギスした状況に陥ってしまえば、せっかくの一大イベントが台無しになってしまうし、息子たちも東京から広島に帰る機会が減ってしまうかもしれない。だから両親は、絶対に非日常感を表に出してはならない。短い間泊まらせてもらうというだけでも、すでに手間をかけさせているのに、それ以上に気遣いやらなんやをさせてはならない。あくまで日常に溶け込むという形で、非日常のイベントを遂行しなくてはならない。
だからこの映画は、表面的には淡々と進む。しかしそれは表面のことであって、本当のところでは、これは、両親にとっての非日常的なイベントだった。
つまり、映し出されるのは当時の日常だが、描かれるのは、日常と非日常、ホンネとタテマエの間で揺れる両親の感情と行動のその揺らぎである。
本当は彼らにとって色々な思いをもとに動き出した東京訪問だったが、その思いを直接出すわけにはいかず、あくまで自分たちの中でそれを消化していかなければならないという状況の中での、彼らの感情の動きを想像してみると、特にラストの方で使われる何も起こらない風景のショット(空ショット)が実に深い味わいを持ち始めるに違いない。
退屈な上に心が荒む!!
昭和の風景
なにもない。なにもある。
言わずと知れた世界一の映画。ようやく見ることができました。 話はた...
●珠玉の名作。
黒澤映画は何本も観ているが、小津映画は初鑑賞。 大きな事件は全く起...
親と子
前半退屈だったけど
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