東京物語のレビュー・感想・評価
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子供は親が思うようには育たない…
自身そうなんだろうし、子もそうなんだろう‥親子は甘えがあり、他人の方が思いやり、大事にする。誰しも生活があり忙しいが、生きているうちに親孝行、それに気付けた人が幸せ。映画は派手さはなく、淡々としながらも何気ない親子の会話や、生活を通して、メッセージ性があった。
戦死した次男の嫁(原節子)が聖女のようでいて人間くさくもあり素敵だ...
戦死した次男の嫁(原節子)が聖女のようでいて人間くさくもあり素敵だった。人物描写が細かくて時の流れが凄い伝わる。
尾道から東京に出てきた老夫婦、息子たち側で何かしてやらねば、なんだけれどそれぞれ家庭の事情がある。三男は大阪。
「誰だってみんな自分の生活が一番になってゆくのよ」っていう台詞があって大きな流れはそんな感じ。
「いいえ、私は一人で生きていくんですの」っていう原節子。
「一人になっちゃったなぁ」の笠智衆。
どこにでもあるようなこの話に、二人が深みを与えている。名作です。
いつ観ても傑作
今にも十分通じるストーリー
一言「地味だけど、最後心に沁みる」。
小津安二郎監督作品、初めてです。
デジタルリマスタリング版を見たので、画像も綺麗で新鮮でした。
正直シンプルな内容で、人によっては「単調でつまらん」かもしれません。
これは私のように地方在住、東京へ行くなんて一大事!。
な方には、時代は違えども両輪の気持ちがわかるかと。
東京に住む子供たちのところへ行ったけれど。
子供たちもすでに親になっていて、家庭がある。
そういつまでも相手はしていられない。
両親の会話の奥には「もう子供たちは、大きくなった。それでいい」。
2人のおっとりとした会話の中に、そういう意味合いもあったのかな。
最後に笠智衆さん演じる父親の言葉が、良かったなあ。
それまでは「そうじゃのお〜」なんて、のんびり口調だったのに。
原節子さん演じる義娘にかけた言葉に、ジーンとホロリ。
ちゃんと義両親は、未亡人になった義娘のことをしっかり見てたんだなあって。
東京から尾道へ帰る「鉄道乗り場」のようなシーンなど、時代を感じさせる箇所が。
どこか懐かしい描写でした。
⭐️今日のマーカーワード⭐️
「そうか、もうみんな帰るかい」
見るごとに映像が綺麗に
尾道で末娘(香川京子)と暮らす老夫婦(笠智衆、東山千栄子)が、東京に住む息子や娘を訪ねる。
長男夫婦(山村聰、三宅邦子)は開業医をしており、家が狭いので子供部屋を取り上げる。
長女(杉村春子)は美容院をやっている。
次男は戦争で亡くなり、未亡人(原節子)は今も一人で暮らしている。
三男(大坂志郎)は途中、大阪で会ってきた。
みんなそれぞれの生活を守るために一生懸命だが、両親には出来るだけの事はしたいと思っている。
今も同じで、日本の家族が抱えている実態をソフトに突きつけてくる。
素晴らしい
老夫婦の幸福
東京における子供たちの暮らしぶりに直に触れ。老夫婦は子供たちの今現在一番大切なものが親である自分たちではなくなったことに一抹の寂しさを覚えるものの、その数倍の幸福を感じたはずだ。そこにはまっとうな営みがある。大切な幼子たち、大切な仕事、連れ合い・・・。守るべきもののために奮闘する子供たちの姿がかつて自分たちがそうであったことを思い出させ更に老いて一線を退いたことを再確認させたに違いない。自分たちの手を離れ子供たちは各々立派に城を築いたのだ。 逆に言えば上京した自分たちを相手する余裕がある紀子にはその守るべきものがないことの証左。寂しくとも気楽であると気丈に女の一人暮らしをしていたところに未来の理想図ともいえる優しく仲睦まじい老夫婦が訪ねてきては穏やかではいられなかっただろう。さらに肉親同士の遠慮抜きに言いたいことを言い合える様など見せられれば尚更である。どんなに強い人でもおっぱいが恋しくなる。それを見取った老夫婦に再三次男のことは忘れて新しい人生を歩みなさいと言われれば言われるほどまた紀子は切なくなる。自分が老夫婦を大切にすればするほど彼らは自分のことを心配する構図があるからだ。自分のことに心を砕いてくれた義母に安心してもらう間もなく逝かれてしまう紀子の口から「仕方ないのよ皆そうなるのよ」と京子を諭させるシーンは心動かさずにはいられない名場面だ。
戦争そして家族からの二人の旅立ちの物語?
尾道、東京下町、熱海と、舞台の移動テンポがとても小気味よい。家の中の縦に狭められた構図は好みではないが、風景の切り取り方は何らかの角度がついていて、とても素敵。
映画全体に関しては、1回見ただけでは主題は勿論、原節子の紀子の人物像がさっぱり分からず、2回強見てようやく少し理解ができた様な気になった。説明が最小で、なかなかに手ごわく且つ奥の深さがある映画である。
義母がアパートに泊まった夜の紀子の覚醒は、義父との最後の会話のイントロであり、変化への熱望の自覚なのか?翌朝、義母の頭上にガラス戸の割れ目が来るのは、勿論偶然ではなく、暗号、即ち死の病が頭内で起きてることの象徴か?
ラスト、義母の時計を貰い受けた紀子はそれをしっかりと手で包み込む。時計の音らしきものが響き渡り、同時に笠智衆の周吉も家族から離れ孤独を噛みしめ一人立ちするやに、出航する船の映像と時を刻む音が重なる。戦争で夫を亡くし言わば時間が止まっていた紀子と過去としがらみに縛られ惰性で生きてきてる平吉、もしかして小津監督?の心の琴線が言わば共鳴し合って、時が動き始め、細々と、しかしけなげに音をたてて前に進んで行く素敵なエンドに思えた。
人類を説明している映画
個人的な認識ですが、小津映画といえば、役者がカメラをまっすぐ見据えて、ほとんど表情を変えず、まるで抑揚のないセリフ回しをする映画群のことです。ほとんど状況描写のない、世界中どこを探してもない、妙な映画たちです。
個人的にいちばん好きなのは戦前の「淑女何を忘れたか」だと思います。むろんソースがなくて未だ見ていない映画もありますが、腰位置のスタイルが完成する以前の映画のほうが好きかもしれません。ただ東京物語は別格です。
紀子(原節子)のセリフ「誰だってみんな自分の生活がいちばん大事になってくるのよ」が東京物語の白眉です。この言葉に集約された物語だと思います。
母の葬儀が終わると、実子らはとっとと東京へ戻ってしまいます。義子である紀子が残って、周吉(笠智衆)を甲斐甲斐しく世話します。
それを悪びれた次女(香川京子)が「ずいぶん勝手よ、言いたいことだけ言ってさっさと帰ってしまうんですもの」──「お母さんが亡くなるとすぐお形見ほしいなんて、あたしお母さんの気持ち考えたら、とても悲しうなったわ、他人どうしでももっと温かいわ、親子ってそんなもんじゃないと思う」と愚痴ります。
それを受けての紀子のセリフでした。「でも子供って大きくなるとだんだん親から離れていくものじゃないかしら……誰だってみんな自分の生活が~」
二人の会話は「いやねえ世の中って」「そう、いやなことばっかり」ということに帰結します。
だからといって、小津監督は家族のつながりなんて無情なもんだと言いたかったのではないはずです。
子が成長し、親元を離れ、生活基盤を据えてしまえば、それぞれの屈託をかかえて、とうぜん親子関係なんて疎遠にならざるをえません。誰だってそうです。そうならざるをえない社会のやるせなさや寂しさを、東京物語は描いているのだと思います。
でなければ、世界中の人々が、東京物語に共感する根拠がありません。ここにはひとつも無情なんて描かれていません。「孝行したい時分に親はなしや」「そうでんなあ、さればとて墓に布団は着せられずや」というセリフ通りの、遍く人間社会のモデルケースの話です。
私たちは、久々に故郷に帰ってきて、思いのほか老いてしまった父母の後ろ姿を見たときのような哀愁を、東京物語に見るのです。ほんのいっときにせよ父母への不孝にさいなまれるのです。その感慨には国籍がありません。だからIMDBが8.2なのです。本質を突いていることを、誰もが認めざるをえないのです。
宇宙探査機には、地球人がどんな生き物なのか、未知なる宇宙人に説明するためのSETI情報が備えられています。
もしその用途に映画を一本選ぶとしたら、私は東京物語だと思います。
いい映画とはこういうものなのか。
人間の「生」
どんなに大切な人であっても、他のすべてより優先してその人との時間を過ごせるわけではない。
物語の中では、薄情だと思われることでも現実に生きているとそんなことは往々にしてある。
綺麗な心のまま大人になりたいという理想を静かに打ち砕くようなこの映画は、なかなか残酷だなと思った。
悪や正義のような対立はある領域においてはあるかもしれないが、「生」においてはヒーローも悪役もいない、ただ人が生きている時間がある。それは、尊いものである。
観る人によって様々な思いを抱く作品である。
観る人の年齢によっても感じ方が大きく違うのだろうなとも思える。
もう少し年をとった時、もう一度観た自分がどのように感じるのか楽しみである。
嫁入りものの変種?
スクリーンで観なおし。
色々と新たな発見があり、大変面白かったです。
もっとのんびり落ち着いた映画だと思っていたけれど、やりすぎ?ってくらい、セットも演技も凝っていますね。
特に色々なタイミング、人の出入りや影の使い方など、カチカチと決まっていくようでスリリングでした。
それが映画後半になって、間やセリフが緩むとともに、重さが増してきて、とても説得力がありました。
熱海での逆光の堤防シーンはとても美しく、ずっと眺めていたかったです。
今回のいちばんの発見は、原節子の終盤での演技でした。
この映画は家族の話だと思っていたけれど、小津流嫁入り話の変種、バリエーションとみなしたほうが、腑に落ちやすい気がします。
このことについて、もう少し考えてみたいと思いました。
"家族とは何か"を問い掛ける不朽の名作!
紀子三部作第3作。
Blu-ray(ニューデジタルリマスター)で4回目の鑑賞。
家族。人間ならば誰しもが抱え、関わり続けなければならない普遍的なテーマを扱った不朽の名作。世界中の映画監督が選ぶ映画ランキングの第1位に輝いています。
本作で描かれているテーマがどんな時代であっても変わらないものであるが故に、世界中の人々が揃って共感することが出来ると云うことの証明だと思いました。
笠智衆と東山千栄子が演じる老夫婦の、穏やかな仕種に垣間見える悲しみが、多くを語らないだけに痛ましかったです。
久しぶりに会った我が子たちは、はじめは両親との再会を喜びましたが、日常に追われる中で次第に持て余し、最後は熱海旅行にかこつけて追い出してしまいました。
騒がしい旅館で一夜を過ごす老夫婦は、どのような想いで床に就いていたのか。考えるだけで胸が痛くなりました。
初鑑賞ではとても薄情な光景に思えましたが、何回も観ていくと子供たちにも生活があって、そうしてしまう気持ちも分からなくはないなと云う感想を抱くようになりました。
親は大切な存在であると云う想いは変わりませんが、老夫婦の子らに共感してしまった自分自身に正直驚きました。
そんな子供たちとは対象的に、戦争で死んだ次男の妻・紀子は、体良く追い出された老夫婦に対し、謂わばすでに他人であるにも関わらず、本当の子以上に甲斐甲斐しく世話を焼いて心をつくしていました。私はこの描写を見て、深く考えさせられたのでした。人の心の清い部分が紀子を通して描かれ、それ以外の部分を老夫婦の子らの姿で描き出したのかな、と…
家族とは何か?
考えれば考えるほど、心に沁みる。
味わい深い名画だなと思いました。
[余談]
東京と尾道とでは、流れる時間の速さが全く違う。
流れる時間が人を変えてしまうのでしょうか?
都会の喧騒と慌ただしさの中にいると、ふとした瞬間、大切な何かをポロッと落っことしてしまうのかもしれないなぁ…
[以降の鑑賞記録]
2019/10/25:Blu-ray(ニューデジタルリマスター)
※修正(2023/07/16)
喪失と合理主義について
私なんぞがグダグダ言う必要のない、問答無用の世界的傑作。グダグダ言いますけど。
小津の代表作でもあるわけですが、その理由として、本作には小津が描こうとしてきたであろう頻出する2つのテーマが過不足なく、きちっと描かれているからだと思います。
【小津の頻出テーマ】
①喪失と向かい合うこと
誰かを失うということは、本当に苦しく悲しく辛いです。離別もそうですが、死別はなおさらのこと。だから、我々は悲しみから目を逸らそうとします。
しかし、小津は悲しみから逃げても何も変わらないことを静かに、しかしきっちりと描こうとする人だと感じています。そして、喪失が描かれる作品では、必ず小津はポジティブな印象を与える人物に悲しみと直面させます。
小津が喪失の物語を繰り返す理由は、おそらく戦争体験でしょう。不条理に悲惨な現実に巻き込まれ、大切な人々との関係を断絶させられる。小津自身も大切な人を亡くしているのかもしれません。喪失との直面を描くことは、小津にとっての癒しの作業、つまりサイコマジック(byホドロフスキー師匠)の実践だったのかもしれません。
本作では、未亡人・紀子が相当します。彼女は先の戦争で夫を失っており、8年もの間ひとりで暮らしています。
終幕近くにて、紀子は「私は狡い」と独白します。亡き夫を愛しているが、彼を思い出さない日が増えてきている、と。愛しているが忘れていく罪悪感、そして将来の自分の生活の心配や展望を描きたい気持ちがないまぜになり、彼女を苦しめます。
小津は、このように苦しみ悩むことこそが、拭いきれない悲しみを真の意味で癒し、そのプロセスが人間を人間たらしめている、と強く主張しているように思います。身を引き裂かれるような痛みを超えることが、その人を成長させると考えているのではないでしょうか。
また、悲しみを語り痛みに向かい合うためには、誰かが必要です。しかし誰でもよいわけではなく、心のつながりのある人でなければならない。本作では老夫婦に当たるでしょう。東京にやってきた老夫婦に対して、紀子だけが心の交流を行ってました。だから、紀子は彼らに語れ、彼らも紀子を受け止めたのです。
このような心のつながりがあるからこそ、人は人として営めるのだ、と小津は語っているように感じます。だからこそ、彼はつながりの象徴である家族を描いてきたのだと思います。
②合理主義・プラグマティズムへの怒り
本作では二項対立が描かれています。それは、人間的なつながりを持ち、悲しみと向かい合える紀子や京子、老夫婦のポジティブサイドと、日々の忙しさに追われ、悲しみと向かい合うことのできない兄や姉のネガティブサイドです。
ネガティブサイドの人たちに対しては、紀子に「仕方ないのよ、私たちもああなるのよ」と言わせてますが、小津は仕方ないなんて微塵も思っちゃいない。明確に「フザけんじゃねぇ!」と怒っています。
小津は合理主義を、自身が考える人間的な営みを破壊するものと捉えている様子が窺えます。人から時間を奪い、その結果余裕を奪い、人間にとって最も大切な人とのつながりと情緒的な生活を奪う。すなわち、合理主義に人間性を奪われた人は、喪失の痛みにのたうち、悩み苦しむこともできなくなるのです。
兄と姉は喪失ができない。一瞬悲しむも、悲しみを抱えることはない。確かに忙しいし、常識的には致し方ないことです。しかし、小津はこの価値観にはっきりとNoと言っているのです。
だから、小津は終生サラリーマンをdisったのだと思います。
しかし、本作はネガティヴサイドの人々をdisったりしません。兄や姉は、悪でも虚無でもありません。そのあたたかさが本作を大傑作にたらしめているのでは、と感じています。
作中にて、兄と姉は昔は優しかったと語られます。つまり、彼らは合理主義によって人間性を奪われた存在、として描かれています。システムを憎んで人を憎まず。
美しいタイトルですが、表題の東京とは、もしかすると合理主義を象徴させているのかもしれないな、と思いました。小津の抵抗・反抗のアティテュードを感じざるを得ません。
本作は家族のつながりの崩壊を描いていると思います。合理主義に侵食され、その結果核家族化が進み、つながりが失われる世界を予言していたようにも感じます。小津映画は古き良き日本を描いているというイメージが流布していると思いますが、それって合理主義以前の豊かな情緒的つながりのことなのかなぁ、なんて想像してます。
しかし、小津が嫌うような人間性を奪うイズムはいつの時代にもあるし、戦中なんて命を奪う軍国主義があった訳ですし。小津は懐古主義というより、理想郷とか人のあるべき姿を描きたかったのかもしれません。
したがって、本作は単に昔を懐かしむような作品では決してなく、現代にも通用する普遍的な物語だと感じました。だから世界的に評価されているのかもしれません。
仕方がないこと
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