「もろく崩れさるもの」砂の器 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
もろく崩れさるもの
長く重く複雑な砂の器の映像化は難産で、ウィキにいくつかの逸話が記されていたが、なかんずく山田洋次の回想が興味深かった。
橋本忍とともに脚本を担当した山田洋次は──、
『「最初にあの膨大な原作を橋本さんから「これ、ちょっと研究してみろよ」と渡されて、ぼくはとっても無理だと思ったんです。それで橋本さんに「ぼく、とてもこれは映画になると思いません」と言ったんですよ。そうしたら「そうなんだよ。難しいんだよね。ただね、ここのところが何とかなんないかな」と言って、付箋の貼ってあるページを開けて、赤鉛筆で線が引いてあるんです。「この部分なんだ」と言うんです。「ここのところ、小説に書かれてない、親子にしかわからない場面がイメージをそそらないか」と橋本さんは言うんですよ。「親子の浮浪者が日本中をあちこち遍路する。そこをポイントに出来ないか。無理なエピソードは省いていいんだよ」ということで、それから構成を練って、書き出したのかな」』
(ウィキペディア「砂の器」より)
──と語ったそうだ。
言説どおり、映画砂の器は父子の浮浪者のイメージが常につきまとう映画になった。
病におかされた本浦千代吉(加藤嘉)が子を連れて行脚の旅に出る。当時ハンセン病は不治の病とされ、徹底した隔離・排除がなされていたので、行脚には世捨てと祈りの両義があったと思われる。
映画内では乞食という古い呼称が使われる父子は、文字通り行く先々でおめぐみに頼りながら、ぼろぼろになって津々浦々をあてもなくさまよい歩く。
薬や治療が確立されていなかった時代、ハンセン病は外見の変貌が人々から怖れられた。皮疹をもたらし兎眼から角膜障害へいたり激痛、脱毛、潰瘍、手指と足指は摩滅するかのように変形していく。
それは創作のなかでタタラ場の病者や大谷吉継のように描かれてきたが、ハンセン病の言語化可視化の原始は広く認知された砂の器と映画砂の器であったにちがいない。
その暗いハンセン病のイメージがつきまとうことで映画砂の器は推理ものでありながら深く黒々とした暗渠を見つめるような禁忌的重々しさをともなった。
また物語においてハンセン病はそれを差別しなかった者の善や正義を表象する機能を併せ持つ。タタラ場の病者を保護したのはエボシ御前であり大谷吉継を庇ったのは石田三成であり千代吉ら父子に慈悲をもって接したのは三木謙一(緒方拳)であった。
ただしハンセン病や行脚の父子がでてくるのは半ば過ぎからで、前半はずっと「カメダ」の謎を追う丹波哲郎が描かれる。
砂の器の推理の中枢は方言であり、方言が主役のドラマと言っていい。
松本清張が砂の器の着想としたと思しいエッセイがウィキに紹介されていた。
『雑誌『旅』1955年4月号に掲載されたエッセイ「ひとり旅」で、著者は以下のように記している。「備後落合というところに泊った(中略)。朝の一番で木次線で行くという五十歳ばかりの夫婦が寝もやらずに話し合っている。出雲の言葉は東北弁を聞いているようだった。その話声に聞き入っては眠りまた話し声に眼が醒めた。笑い声一つ交えず、めんめんと朝まで語りつづけている」。この経験が、のちに本作の着想に生かされたと推定されている。』
(ウィキペディア「砂の器」より)
筋が豊富かつ複合的で、推理が主知的で、ストーリーが独創的で、登場人物が多彩で、そこにハンセン病というトラウマチックな重みが加わり、こういうのを書ける人が今いるのだろうかと思わせる松本清張の凄みを感じる映画だった。
その凄みを色づけをせずに仕上げた野村芳太郎もさることながら、わざわざプロダクションをつくって書いた橋本忍の執念の映像化だったと思う。
ただし後半の演奏会描写がくどかった。
「宿命」は砂の器のために予算を投じて書き下ろした楽曲なので、大フューチャーしたい理屈はわかるが、加藤剛が演じるピアノ兼指揮者とオーケストラが、まさにオーケストラルな盛り上がりを構成するのは、大仰さと古さを感じた。悲愴な楽曲をバックに、悲劇的回想がフラッシュバックされるのも、今見ると大時代的だった。IMDB7.3。