人生劇場 飛車角と吉良常のレビュー・感想・評価
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絶えず入れ替わる語り手
高倉健・鶴田浩二という東映の2大スター俳優のセンセーショナルな邂逅が目玉の「人生劇場」を、『土』『血槍富士』『飢餓海峡』の内田吐夢が新解釈で撮り上げた一作。
戦前の名作『土』を見れば明らかなように、内田吐夢は常に社会の最下層にわだかまる無名の人々にアイレベルを合わせてきた。その点ヴィットリオ・デ・シーカやサタジット・レイあたりの悲壮なリアリズム映画と共通するものがある。
ただ、本作はあくまで「東映任侠映画」であり、ゆえに『土』のようなあからさまなリアリズムとは遠く隔たっている。登場人物たちの性格もかなり戯画的だし撮影も基本的にセットだし、いかにも劇映画といった具合の体裁だ。
そうした中で「内田節」はどのように発露されているのか。注目すべきは劇中の「語り手」ポジションの目まぐるしい変容だ。飛車角と吉良常、とはタイトルにあるものの、物語の牽引役はその都度都度で入れ替わる。
中でも面白いのは、飛車角が投獄されている間におとよが知らず知らずのうちに彼の義兄弟である宮川といい関係になってしまうくだり。すべてに絶望したおとよを救うべく立ち上がったのは、同じ遊郭に勤めるお袖。この今までちっとも表に出てこなかった登場人物は、いきなりおとよの腕を掴むと、そのまま二人で東京から出奔してしまう。
任侠映画でありながらその周縁の人々にも等しく語り手としての権能を与えるというノンフィクショナルな演出には、彼の生来のリアリズム志向が反映されているといえるだろう。
最後の殺人シーンで突として画面がモノクロに切り替わるのも印象的だ。飛車角は並み居る敵を次から次へと斬り伏せていくが、その太刀捌きはひどく人間離れしている。まるで明晰夢の中を自由自在に動き回る夢の主人を見ている心境。そしてそれを強調するかのようなモノクロ画面。
敵の首魁を討ち取ると、モノクロがカラーに戻り、飛車角はおとよと共に闇の中へ消えていく。彼らの行き先の闇は赤と紫の入り混じったなんとも異常な色彩をしている。果たして本当に夢は明けたのか明けぬのか、それともそこは既に死者の世界なのか。曖昧模糊で不可解な感触を残して映画は幕を閉じる。
任侠オペラ雛形シリーズの完成形
人生劇場飛車角の1963を何度か観た。他の人生劇場シリーズは観たことがないのだが、この二作を知る限り比較しながら観た。
基本的なプロットは同じだが、この1968制作の飛車角と吉良常は内田吐夢が監督。あの『飢餓海峡』を撮った後だという。
同じ話を何度も映画化していて俳優さんもすこし変更しているがだいたい同じ面子。それでも客がはいった時代。芝居小屋でみるお芝居が映画になった感覚だろうか。そんなオペラ的ともいえるヤクザものの芝居だから客もつぎにどのような展開になるかわかっていて観ている筈。
後半宮川と飛車角を小金の墓前でひきあわせるなど、1963版よりも演出が洗練されてかなり見やすくなったように感じた。
とはいえ5年前の鶴田も高倉ももうすこし色っぽい印象だったのだが。ノリノリでやってる辰巳柳太郎がいい。ヒゲも程よく白くなっていて様になっている。
全体的に俳優たちのモチベーションというかエネルギッシュさがつたわってくるのは1963の飛車角のような気もする。が、改良はされているのもよくわかる一本だ。1963のラストシーンはノワールぽい終わり方だったので後味がかなり悪かったが、これはもうすこし観やすい。
暇があればヤクザ映画の原点、人生劇場シリーズを見比べてみてはいかがだろう。
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