櫻の園(1990)のレビュー・感想・評価
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【”風に散る 花橘を袖に受けて 君が御跡と思ひつるかも”チェーホフの櫻の園を演じる2時間前の女子高校生達の繊細な瞬間を描いた逸品。】
■吉田秋生氏の漫画に嵌ったのは、高校の時に読んだ「河よりも長くゆるやかに」である。そこには世間的には不良と呼ばれる高校生男女の恋と性が、鮮やかな台詞で描かれていたからである。勿論、お笑いの要素も絡ませながら。
吉田氏の漫画は、人間の心の機微を見事に台詞で具現化した点が魅力であり、〇十年以上愛読している。
勿論、この映画の原作になった「櫻の園」も、その一冊である。
原作では、1.花冷え 2.花紅 3.花酔い 4.花嵐
の4章立て手で、今作でもキーパーソンになっている志水部長、杉山、倉田知世子たちが抱える切実なテーマを描いている。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・今作では、その各章の印象的なシーンが随所で描かれている。
・その中でも印象的なのは、皆から敬語で話しかけられる志水部長(中島ひろ子)が小学生だった頃から、胸が大きく且つ早熟だったことを、男の子たちに揶揄われていた事を、吐露するシーンである。
”だから、あたし許さないの。彼がその後どんなに立派な人間になっていたとしても。”
・更には、背が高く胸がある事から、それを気にしているラネフスカヤ夫人を演じる事になった倉田知世子(白島靖代)と彼女のことが好きな志水部長の描き方である。
漫画では、二人が屋上で会話を交わし、志水部長が倉田に”好きよ。大好きよ。”と肩を抱きながら言い、倉田は涙を流しながら”嬉しい。もっと言って。”と描かれているが、今作では場所は違えど、ラネフスカヤ夫人の衣装を纏って席に座る倉田に対し、隣の席に座った志水部長が”好きよ”と言うシーンである。
二人は、志水がセットした自動シャッターでドンドンカメラに近づいて来て、笑顔でフィルムに収まるのである。
・そして、それを煙草を吹かしながら聞いていた志水に好意を持つ杉山(つみきみほ)は、後輩部員が駆けて来る音を聞いて、二人に聞こえるように”そろそろ始まりますよ。”と大きな声を出すのである。
<今作は、吉田秋生氏の名作漫画をベースに、切実で繊細な思いを抱える少女達を、創立祭でチェーホフの「櫻の園」を演じる2時間前に焦点を絞って描いた逸品なのである。>
櫻の園=女子校を連想... うまい。
私くらいの世代の男性が、女子高とはこんなものかと想像し、それを純化したような女子高の雰囲気が何ともいえない。なんともいえない甘酸っぱさの残る映画。
スカートの裾を摘んでおじぎするのが夢。
少女漫画らしからぬハードボイルドなアクション作品を発表している吉田秋生は、本作の原作である『櫻の園』や、及川中監督で映画化された『ラヴァーズ・キス』など、胸キュンな青春漫画の名手でもある。創立記念式典に毎年チェーホフの「桜の園」を上演する女子高の演劇部員たちの心の機微を情感豊かに綴った秀作を、見事に映像化し青春映画の傑作とした中原監督の手腕に舌を巻く。携帯電話もインターネットもなく、ギャルもいない時代。名門女子高では、タバコを吸っただけ、パーマをかけただけで大問題となる時代。バックに流れるショパンの前奏曲のように、ゆったりと流れる時間の心地良さ。しかしその心地良さを感じるのは観ている我々だけであり、少女たちは決して立ち止まってはいない、彼女たちの心は様々に揺れ動き、時に疾走している。”少女”から”女”になることへの憧れと、それとは相反する強い拒否反応。同年代の男子よりずっと早く”成長”してしまう彼女たちの焦りと恥ずかしさに胸がキュンとなる。この胸の痛みは、この少女たちと同じことを自分も考えていたことの懐かしさと、2度とその時代へは戻れないと思う切なさ。大人になるためには、どれほど沢山のものを捨てなければならないのか。キャストには当時ほぼ無名の少女たちが起用され、等身大の高校生を瑞々しく演じている。達者な演技とはいえないが、そこがかえって初々しい。「桜の園」の上演開始までの時間を様々に過ごす彼女たちの姿が微笑ましくも切ない。演劇部の物語だが、劇中劇を登場させなかったことも効果的だ。開演のベルがなり、何かをふっきったかに見える彼女たちが、明るい照明の舞台へ踏み出すラストカットは爽やかだ。それは大人への第一歩なのかもしれない、そこに少しの”希望”が見え、爽やかな後味となっている。
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