ゴジラ(1954)のレビュー・感想・評価
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ドメスティックな恐怖
初めてみたのはたぶん2015年。
山岸凉子のエッセイ漫画に描かれていた「ゴジラが山の端から顔を覗かせるシーンの恐怖」を味わいに劇場へ行きました。
ゴジラ映画はまだ10本ほどしか観ていない新参者ですが、結局この1本目が初代にして決定版だと思ってしまいます。
やっぱりゴジラの怖さも、ドラマも、映画全体の出来映えとしてもベストで、そもそもゴジラという仕掛けが極めてドメスティックな存在だったことを痛感させられます。
終戦から10年も経たない、記憶や傷跡の生々しい段階で公開された初代ゴジラの、街を破壊する場面が当時の観客にどれだけの衝撃をもたらしたかは、その後の続編とは一線を画すものだっただろうと想像します。
この初代だけが持っている暗さ、怪獣が暴れるような荒唐無稽な企画でありながら独特の静けさは死者に向けた弔いの様相。
これだけ沢山作られていながら、結局災禍の後のその時限りの企画でしかなかったことを示しているように思います。
だからこの初代のインパクト、ゴジラという仕掛けが真価を発揮できるのは戦争や水爆といった現実の災禍が起きた後に、その傷を再びフィクションの中で再現する以外にないのだろうとも。
その点で震災の直後に作られた「シンゴジラ」は奇跡的な一作だし、アメリカ版としてはレジェンダリーよりも「クローバーフィールド」の方がより正統なアプローチだったことになります(俯瞰のショットを作ってしまった後半はいただけないけど)。
レジェンダリー版もこれはこれで好きですが、せっかく怪獣たちのワールドツアーするなら現実の地震やハリケーンなどの被害があった場所を舞台にしてその被害を再現したらいいのにと思います。
ニュースや映像を通してであれ、現実の被害を共有している観客にこそゴジラは真の姿を現す。人間の無力さの象徴として。
1954年(昭和29年)の作品
ゴジラVSコング公開記念
これは何度も観た
一度でいいから映画館で観たい
戦後間もない娯楽といえば映画しか無かった時代
今と当時の人では受け止めかたが全く違うだろう
「長崎の原爆から命拾い」「また疎開か」「もうすぐお父ちゃんのとこに行くの」
民衆の一言一言に時代を痛感する
BGMとゴジラの鳴き声がとにかく素晴らしい
特にゴジラのテーマは聴くだけでテンションが上がり魂が揺さぶられる
1954年(昭和29年)
3月1日遠洋マグロ漁船第五福竜丸がビキニ諸島近海でアメリカによる水爆実験によって核の灰を浴びる事件が発生した年である
それから約8ヶ月後の11月3日に公開された作品がゴジラである
ゴジラの出現は水爆実験の影響によるものという設定は3月の悲劇で急遽盛り込まれたものだろう
リベラルの解釈では反核や環境破壊がテーマらしい
それならなぜ初代ゴジラは日本じゃなくてアメリカ本土を襲わないのか
GHQも解散してしばらく経つ時期だし遠慮する必要もあるまい
それにしてもなぜゴジラは都市を破壊するのだろうか
海の生物が激減しお腹を空いたから人間を食べにきたというわけでもないようだ
古代生物の生き残りらしいがなぜか火を吐く
山根博士役の志村喬が貫禄の存在感
良い味を出している
チョイ役だが志村喬以上に良い味を出していたのは野党の国会議員役の菅井きん
蓮舫もTwitterに夢中になってないでこのくらいの気概を少しは見習って欲しいものである
命を張って報道するラジオアナウンサーに大感動
今の新聞記者やテレビ局員にこんなことができるわけがない
さようならがせつない
なんとかデストロイヤーなるものでゴジラを退治するわけだがゴジラの最期としてビジュアル的にはシンゴジラの方が好きだな
このORIJINを超えるものは作れまい
シンプルな人間ドラマ。明確で力強く突き刺さるメッセージ。
1954年3月に起きたビキニ環礁での核実験。
それに巻き込まれた第五福竜丸の被爆事件の悲劇+汚染マグロ等の風評被害。
(1954年9月23日に、第5福竜丸の久保山愛吉無線長が「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と遺言して亡くなった)
この映画からわずか9年前の東京大空襲。
(大空襲は各地でも被蓋にあった)
広島・長崎の原爆の悲劇。
戦争の爪痕の記憶が久しいうえに、またもアメリカ等の核の恐怖が呼び起こされる。
1952年にはGHQは廃止されたものの、
この映画の10年後(1964年)には東京オリンピックが開催されるものの、
スカイツリーどころか、東京タワーもまだなく(1958年竣工)、
新幹線だってまだまだ(1964年)で、
まだ復興途上。
当時の世相。
これらがベースになっている物語。
ドキュメンタリーのようにとった部分と、怪奇物の演出を取り入れた部分の融合。
(徹底的にリアルにこだわった部分、
恐怖を煽る音楽、楳図かずお氏の漫画かというような河内さんの大仰な演技等、恐怖におののくさまや被害の概況はリアルに見せるのに、その恐怖の実体はなかなか見せない等の演出)
宝田氏は、ニューフェースらしい「存在がさわやか」という立ち位置で、この重苦しい映画の一種の清涼剤。
河内さんの可憐な佇まいもこの重苦しい映画での華。それなのに、わざと?随所で見せる大仰な演技。
芹沢博士の出で立ちも怪奇物を踏襲。そこに平田氏が悩める若き科学者の繊細さと影を添え、物語がどう動くか、ドキドキさせてくれる。
(芹沢博士の研究室も、怪奇物ぽさ全開)
新吉の朴訥さ。
田辺博士の、らしさ。なのに、意味ありげに、意味不明な画面の隅での佇まい。不思議な存在感。
この映画がフィクションであることを思い出させてくれる。
それでも、
避難者・被災者の様子がリアル。
次々に破壊される街の様子が徹底的にリアル(Wikiによると、銀座の街を実際にロケハンしてsizeを測ってミニチュアを作ったそうだ)。
(崖から、ビルから覗くゴジラの怖さ。炎をバックに、ビルの向こうに見えるゴジラの美しさ…)
スーツアクター・中島春雄氏は、動物園に通って動物の動きを研究し、ライオンの持つ威圧感に、クマの直立する動き、ゾウの脚運びを参考にしたそうだ(Wikiより)。
志村氏の、根底に怒り・悲しみを秘めた演技。
国会での、情報を開示すべきか、秘すべきかの論争。ー戦争についての正確な情報を全く知らされないままに参戦させられたことへの怒りをここに見るのは、読みすぎか?
TV塔アナウンサー役の橘正晃氏の危機迫る演技。
音楽や効果音で煽られる危機感・高揚感。
静かに力強く響く鎮魂・祈りの歌。
企画から公開まで半年くらいの短期間に作られた映画なのに、それぞれの知恵と己の力量を最大限に投じられている。
なんだかわからない恐怖・困難がじわじわと迫ってくるドキドキ感。
今の災害情報の先取り?自然に?突然に的確にスイッチの入るTVとラジオが伝えてくる惨状。
見せるときにはとてつもない破壊力パワーが炸裂する。
そしてなすすべのない絶望感に叩きのめされるシーンへと続く。
その緩急。
と、演出・映像・音楽等々、一級品であることを褒め称える事柄は枚挙にいとまない、
とはいえ、この点だけでいえば、今後、この作品を超える映画が現る可能性はある。
けれど、この映画に関わっていた人々の思いは超えられない。
この映画から、とてつもない怒りを感じるのは私だけであろうか。
DVDのコメントで伊福部氏が「テクノロジーの技術の圧倒的な差で、日本はアメリカに負けた。そのテクノロジーが、原始的な生命体のゴジラにはなすすべない。気持ちよかったですね(思い出し引用)」とおっしゃる。
終戦間際は、宮内省帝室林野局林業試験場にお兄様と同じく戦時科学研究員として勤務され、放射線による航空機用木材強化(木材!!!)の研究に携わって(Wikiより)いらしたから余計にそう思うのだろうか。
伊福部氏と同じように思うかどうかは別にして、この映画の製作者も、公開時の観客も、皆”当事者”だった。圧倒的な破壊・惨状。命の危険。状況への怒り。恐怖。生き残った者としての責務等様々な気持ち…。何らかの形で戦争の傷を負い、この映画に思いを託していた。ある者は、戦争を早くに忘れて、復興にまい進したとしていても。
鎮魂・祈りの歌を歌う音楽学生も。だから、あんなに心に響くのだろう。
「核反対」「戦争反対」と頭で考える私たちとは違い、体験・心の底・魂からの訴え。
ましてや、核の本当の恐ろしさを知らないアメリカなんぞがこのメッセージを語るとしたら、単なるコピーにしか過ぎない。
体験したものにしか伝えられない迫力。それを、明確なメッセージ・思いとともに、史上最高なエンタテイメントとして昇華させた作品。
息詰まると、実際の生活を破壊する代わりに、この映画を見てすっきりしてリセットするとともに、
山根博士のラストの言葉を深く胸に止め、人為的なこのような破壊を二度と起こさないよう、何ができるのか。
この映画を見るたびに考えてしまう。
《蛇足》
Wikiによると、のちに、手塚治虫先生・水木しげる先生・淀川長治先生、小津監督が絶賛したものの、最初はジャーナリズム系では不評だったそうだ。その中で三島由紀夫氏だけがドラマ部分も含めて絶賛したのだとか。
手塚先生・水木先生・淀川先生・小津監督がこの映画を観るのは納得するが、三島氏も観ているとは。私の中で、三島氏のイメージがちょっと変わった。
(美輪明宏氏や坂東玉三郎氏をいち早く認めたのも三島氏と聞く。絶対的な己の美意識の持ち主。そんな方に『ゴジラ』は認められているんですね)
傑作の誕生は不幸なことかも知れぬ。
今更ですが今更じゃなかった
理由なく破壊しつくゴジラにより焦土となる東京
戦争体験者による戦死者への鎮魂歌としての怪獣映画ゴジラ
太平洋戦争終戦から9年経ちサンフランシスコ平和条約から3年後の、自衛隊が正式に創設された1954年の日本人を震撼させた歴史的事件が、アメリカ軍により行われたビキニ環礁での水爆実験で被爆した第五福竜丸事件でした。敗戦の荒廃に続いてGHQの占領下から独立国として自立しようとしていた時に、広島・長崎の原爆投下による非人道的攻撃の悪夢を再び呼び起こす出来事に日本人が激怒したことは、至極当然に想像できます。この1954年に制作された日本映画の特撮怪獣映画の金字塔である「ゴジラ」シリーズの原点が、その事件を批判する動機から反核と反戦を主題とした娯楽映画に転化したことは、特別な意味を持っていました。それは怒りのメッセージを秘めながら、子供から大人まで楽しめる映画の特徴を生かして、これまでにない恐怖体験を観衆に与えたに違いないからです。その創造性の豊かさは、特撮監督円谷英二と音楽伊福部昭の偉業に象徴されていると言って過言ではないと思います。
私が格闘する怪獣を無邪気に楽しんでいた子供時代のゴジラ映画とは一線を画す元祖「ゴジラ」。特に最終段階のオキシジェン・デストロイヤーと共にゴジラに対峙する芹沢博士の心中を思うと、とても切ない気持ちになりながら、これは幸いにも戦争を体験しないで済んだ世代の限界も感じます。戦争体験者による戦死者への鎮魂歌としてのゴジラ映画として、日本映画史に刻まれたこの名画の精神は、令和の「ゴジラ-1.0」の戦後世代に引き継がれています。どちらも映画を愛して、楽しんで、大切にしているのが伝わり、私には嬉しくて素直に感動してしまうのです。
東宝特撮の歴史は「ゴジラ」に始まり「ゴジラ」に終わる。
今更、内容の話は言わずもがな。
当時、東宝が熱心に製作を進めていたという、日本とインドネシアの合作映画の話が白紙にならなければ、ゴジラは誕生しなかった。
第二次世界大戦終結から9年。国民の傷は深く残ったまま。
それでも終わることのない核兵器の脅威。
スタッフは未曾有の大作に奔走した。
本編の本多猪四郎監督は、ゴジラが劇中で破壊する実在のビルを一件一件訪ね、頭を下げて回った。
激怒されようが、門前払いを喰らおうが諦めなかった。
特撮の圓谷英二監督は、映画美術としての評価が低かった特撮をフルに発揮しようと、考え得るアイディアを全て投入した。
ゲテモノ、キワモノと呼ばれた特撮映画の汚名を返上したかった。
ゴムの塊で出来た着ぐるみは重さと暑さを極め、アクターを務めた中島春雄氏は何度も失神した。
当時デビュー1年目の大部屋俳優で、この作品が初主演となった宝田明氏、主演のプレッシャーよりも見えない巨大な演者を相手にどう演技をするかに頭を悩ませただろう。
東宝の上層部を説得するために、再三の会議を設けたであろう田中友幸プロデューサー。
「こんな在りもしない化け物が街を暴れる映画がヒットするわけがない。」
そして迎えた、1954年11月3日.....
今考えると、世相も人も、ありとあらゆる必然が重なり、生まれるべくして生まれた作品なんだと心から思います。
66年経った今でも、シリーズ全ての作品でオマージュされるのはこの第1作です。
絶望と悲劇を詰め込んだ空想は、全人類への宿題となりました。
この作品で描かれた地獄が現実に起きないことを祈るばかりです。
この映画の時代背景は戦後9年。 今は2020年で東日本大震災から9...
この映画の時代背景は戦後9年。
今は2020年で東日本大震災から9年。
9年前ってのはいい歳した大人ならばつい昨日のことである。
核に殺られた被害国にとってビキニ環礁の被爆事件は、あの悪夢の再現に怯えるに余りある出来事だったろう。
黒澤明の生きものの記録も同じ時代に作られたし、日本人にとって核はとてもセンシティブな題材である。
科学の進歩は人類の幸福と比例しなければならないのに・・
人間は何故、科学という道具を持ってして権力を持ちたがるのか?
他より優位に立ち、己を誇示したがるのか?
相手をたてる、協働することは難しいのか?
メンツがそんなに大事なのか?
何が人間にとって最善なのか、コロナに侵食された今、権力者に問いたい。
(2024.11.18再見)
被爆国としての核への恐怖感
敗戦国としての命を失うことへの悲しみ
核開発による副産物への恐れ
どれをとっても本当に色濃く画かれていて、−1.0にはない戦争に対する悲壮感が凄い。
あの当時の人は、皆が皆、死ぬかもしれないという経験をしているため、戦争や核を語る台詞に重みがある、今の役者には絶対に真似できない。神木隆之介に戦争を表現しろと言っても、所詮は無理があるのも致し方あるまい。
戦後10年経たずに水爆批判と怪獣モノを撮れる着想
50年超の過去においてこの特撮技術、時代考察、まさにあっぱれ!
日本人誰もが芹沢博士の決断をする日が訪れることが無いことを祈るばかりだ
正に映画のイノベーションだ
世界の映画史を塗り替えた作品
直接的にはキングコングが源流だろうが全く違う
何もかもが斬新で新しい、誰も観たことの無い映像を作り出して映画のジャンル自体を作り出したのだ
もちろん原水爆の恐怖、核戦争の恐怖がテーマだ
冒頭の漁船遭難シーンは第五福竜丸事件をそのままデフォルメされている
劇中でも何度も原水爆への恐怖、戦争がまたも日本に及ぶ恐怖を登場人物が語る
正に当時は核兵器の開発競争のデッドヒートが新聞の一面を占めており、次の戦争は核戦争になると誰もが認識し始めた頃だったのだ
しかし、久しぶりに21世紀の人間の視点で観ると、当事者にも気付いていない違うニュアンスが含まれているように聞こえた
それは無理です、水爆の洗礼を受けながらも、なおかつ生命を保っているゴジラを何を持って抹殺しようというのですか?
山根博士の言葉は逆にいうと原水爆以上のものに依らねばならないとも取れる
そして芹沢博士も苦悩の末にこの惨禍を絶つには禁じられた兵器を使うほかないと決断する
もしゴジラの襲来を現代に置き換えて、某国による核攻撃であるとしたら、どうだろう?
考え過ぎだろうと思う
しかしそのような決断をしなければならない日は刻々と近づいているように思える
日本人誰もが芹沢博士の決断をする日が訪れることが無いことを祈るばかりだ
東京が火の海になった以降は涙がとまらなかった
当時でも本作公開の僅か4ヶ月前に自衛隊が発足したばかりだったから、自衛隊が無ければ所詮叶わぬだけでも組織だった抵抗も、住民達の避難も出来なかったであろうということは十分読み解けたハズだ
作り手の思いと気概の詰まった傑作映画
ゴジラが単なる怪獣映画ではないというのはなんとなく耳にしていたが、宝田明のインタビュー記事を見て第一作だけでも見ておかなければと思い視聴。
こんな作り手の平和への思いが詰まった映画を54年に作っていたこと。見ている方が誇らしいような気持ちになる映画だった。
シン・ゴジラより面白い!
『ゴジラ』鑑賞。
*主演*
宝田明
*感想*
これが初代ゴジラか…凄いな~。。。
初代ゴジラを初めて見ましたが、かなり面白かった。今は数多くのゴジラシリーズやハリウッドなど続々と制作されている中で、やっぱり原点が面白い。
最近見たゴジラは、「シン・ゴジラ」でしたが、個人的に全然ダメで、初代のゴジラは脚本と演出が素晴らしかった。
ゴジラが山の陰からひょっこり「こんにちは」した時は、あまりの突然のことだったので、思わず笑ってしまいましたが、街に上陸してビルや国会議事堂を破壊したり、炎を吹いたり、大暴れするシーンはなかなか見応えがありました。
あと、脚本が全体的にシリアス。芹沢博士が真島吾朗にしか見えなかったw オキシジェン・デストロイヤーってどこかのプロレスラーの名前みたいw
総じて、面白かったです。「シン・ゴジラ」より全然面白かったです。(^^)
宝田明さんがイケメンでした!
原点
昭和29年というと、戦争、原爆の恐怖がまだ冷めやらぬ日本である。高度成長経済の時代を迎え物質が豊かになった反面、人々の深層心理には不安感が見え隠れする。ゴジラの存在自体が広島・長崎の原爆と同じような恐怖であり、唯一の被爆国日本でしか作れなかった映画だとあらためて思い知らされた。
自衛隊が発足(警察予備隊から改編)された年と、ゴジラ誕生の年が同じというのも皮肉なものだと感じます。また、ゴジラに焼き尽くされた後の映像が戦争で焼け野原となった東京のイメージそのもの。病院でのシーンも同じです。
芹沢博士(平田昭彦)の作ったオキシジェン・デストロイヤーを使用するかどうかで苦悩するシーンが最高。そして女学校の合唱団が歌う“平和の祈り”によって、悩める科学者が決断する。。。ラストの海中でのシーンは涙なしでは観られない?!
パワーの源
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