おかあさん(1952) : 映画評論・批評
2020年11月3日更新
1952年6月12日よりロードショー
「浮雲」への絶頂期を予感させる成瀬巳喜男・成熟の一作
「おかあさん」を撮った1952年は、成瀬巳喜男復活を印象づけた年となった。それまでは敗戦と戦後の混乱、そして東宝の労働争議の影響で退社しフリーになるなど、環境が激変したこともあり、10年超の長きにわたるスランプの時代を送っていた。
潮目が変わったのが、千葉泰樹の代役として前51年に監督し年末に公開された「めし」だった。急逝し未完となった林芙美子の原作を映像化、見事にヒットを記録しキネ旬ベストテンでも年間第2位に輝いた。再び脚光を浴びる成瀬。そんな中、本作は5月から撮影に入った。
主役・正子は山田五十鈴から交代した田中絹代。彼女も「投げキッス事件」で人気がどん底まで落ち、「西鶴一代女」でようやく評価が戻りつつある時だった。物語を見つめる長女・年子役には「銀座化粧」に続き、田中・成瀬ともに2本目となる香川京子。そして、彼女の恋人役となるパン屋の息子を演じた岡田英次と、正子の妹・則子役の中北千枝子は、中断の不運もあり成瀬の不遇を象徴する「白い野獣」で共演して以来の顔合わせとなった。また、後期作品には欠かせない役者・加東大介の成瀬組デビュー作でもある。
さらに本作は、後半の成瀬作品を支えた2人の女性脚本家のうちの1人、水木洋子との初めての作品でもある(もう1人は田中澄江)。全国の小学生から公募された作文をもとに、水木が書き下ろしたオリジナル完成版だったが、成瀬が突然ラストシーンの書き直しを要求。すでに多くの舞台や今井正作品を手掛けていた水木は、プライドを傷つけられ不満は漏らしたものの期日までにキッチリ仕上げてきたそうだ。それは成瀬を驚かせるに至り、このコンビは3年後にあの「浮雲」を生むことになる。ちなみにこの作品では中盤にちょっとした映画的フェイクがあるのだが、これは脚本家の仕掛けというより、監督のイタズラか。
本作は題名からして当時流行っていた「母もの」のように思われる。しかし監督は成瀬、単なるジャンル映画には堕しない。冒頭の家族紹介ナレーションから、病床の兄と甥っ子のおねしょが一緒くたに語られる。この後も兄や父の突然の死と、日常の細々としたトラブルや人間関係が時系列で淡々と並べられる。夫が死の間際に話す思い出話も、客から預かった帽子の染色に失敗するエピソードも、年子が店の手伝いに来る男と母親の仲を疑うシーンも、緊張感の度合いはさして変わらない。
象徴的なショットがある。手前に床に就く余命わずかな夫、中程の居間には世間話をする正子と則子、奥にはクリーニング店のカウンターで黙々と働く手伝いの男。庶民の何気ない暮らしの中にある死と日常と労働の3層を縦に配置、奥行きのあるセットを使い同時に収めることで(美術は加藤雅俊)、人間の業や世の無常をさらりと映し出す。この成熟した感性が映画史上屈指の名作「浮雲」を生んだのかと、ハッとさせられる。
細部に宿る死や喪失の影、時代性や運命に翻弄される女性といった、普遍的な要素を備えた作品として、フランス・パリでも公開され話題を集めた一作。初心者にはまず最初に見て欲しい成瀬入門作だ。
(本田敬)