「男と言う生き物の狡さ」浮雲 La Stradaさんの映画レビュー(感想・評価)
男と言う生き物の狡さ
僕がこれまで観た高峰さんの映画と云うのは、『二十四の瞳』や『喜びも悲しみも幾年月』、『カルメン故郷へ帰る』、『名もなく貧しく美しく』と云った比較的前向きな映画ばかりです。木下恵介、松山善三と云った監督のカラーなのでしょう。
でも、高峰さんを支えたもう一人の監督・成瀬巳喜男さんとの組み合わせの作品を観るのは実は今回が初めてでした。デジタル・リマスタリングによって60年前の作品がスクリーンに復活です。林芙美子さんの小説の映画化作品で、僕は原作を読んだことがありませんでしたが、それまで僕が抱いていた高峰さんのイメージと林芙美子さんの『放浪記』のイメージから勝手に「前向きに生きる女の一代記」と思い込んでいました。
ところが、全く違っていました。前向きな姿勢も未来への明るさも何もない陰々滅々具合に腰を抜かしました。
戦争前後の混沌とした世相を時代背景に、妻が居ながら次々と女を乗り替える不実な男と、何度も裏切られながらも結局はその男を追ってしまう女のお話です。と書くと甚だしく古臭い話に思えますよね。「妻とは別れるから」なんて言う男の言い訳は、おそらくこの時代でだって使い古された台詞だったに違いありません。
でも、お話が進んで行くと何だか段々身につまされて来るのです。ここに描かれるているのは「不実な男」なのではなく「男と言う生き物の不実」である事に徐々に気付かされて来るのです。
「都合の悪いことは暫く見えない振りをして、女にそこを突かれると少し面倒くさそうな視線を向け、更に責められると『どうせ僕は弱くてバカな男です』と言う看板を押し立てて謝るでもなく開き直るでもなくコソコソと逃げて行く」なんて云うのは男女の世界では様々に形を変えながらも常に見られる構図ではないでしょうか。
作品で描かれるのは浮気だ妊娠だと云った生々しい世界ですが、その奥に黒々と広がる「男としてのいい加減さ」と云う普遍性を責められている気がして僕は段々息苦しくなってしまいました。
き、きつい、きつい映画だぁ~。60年も前に、ここまでを見据えてフィルムに残されていたのだということに改めて驚きました。
この日、もう一つまずかったのは、これを妻と観た事でした。映画館を出てから、彼女から
「もしかして、自分はあの男とは違うと思っている訳ではないでしょうね」
と、メガトン級の一言が放たれました。
「い、いや、僕は浮気なんてしたことないし・・」
と言いかけて、ここはひとまず黙っておいた方が得策と、またまた「男のずるさ」を発揮して俯いて歩き続けたのでした。
2017/3/8 鑑賞