「宿命なるくされ縁によって繋がれた男女の至高のラブ・ストーリー」浮雲 Chemyさんの映画レビュー(感想・評価)
宿命なるくされ縁によって繋がれた男女の至高のラブ・ストーリー
「くされ縁」とは「運命」以上の「宿命」のようなもので、切りたいと思った時に切ることができず、自然と切れそうな時は、自らそれを繋ぎとめてしまう。
本作は感傷的なメロドラマだが、その感傷を閉口ものにせずに、情感豊かに描きあげた成瀬演出は見事だ。戦中、外地の異国情緒の影響もあってか、ロマンティックな恋を初めた2人は、戦後の混乱と同時に、愛の行方を見失う。どうしようもない男に執着したがために、時代に流され最後には、故郷から遠くはなれた屋久島で病死する薄幸のヒロインの悲恋物語・・・否、そうではない。これは自分を一途に想ってくれる女の心を尊重し、いかに幸福にしてやれるかという、「男の優しさ」を描いた物語だ。このラブ・ストーリーが、特異な形をなしている最大のポイントは、戦後の時代でありながら、男がとてつもなく現代的(平成的)であることだ。この男の優柔不断さ、芯の無さは、公開当時ではどうしようもないダメ男と思われただろう。しかし、この男の優柔不断さ、芯の無さは、今現在の若者の典型であり、今現在の女性が求める理想の男性像(それが虚像であろうと)そのものなのだ。つまりは、ヒロインが彼と別れられない唯一の理由は、幸せにはなれないことがわかっていても、抗えない理想の男の魅力に他ならない。たとえ優柔不断であろうと、甲斐性がなかろうと、いつでも自分を受け入れてくれる男を、何時の時代も女は求めるのだから。
富岡は、ゆき子と初めてあった時、わざと冷たい態度をとる。故郷から離れた外地では、当然、日本の若く美しい女性はチヤホヤされるはずのところを、そのような接し方をされたため、ゆき子は急激に富岡に関心を持つ。ここですでに女は、女使いのうまい男の罠にはまってしまった。富岡には、故国に妻がいることを知りながら、彼女の方から彼の部屋へ行ってしまう大胆さ。勝気だが、マジメな女をこの行動に走らせる男の魅力は、まだこの時点ではわからない。それは、外地でのほんの火遊びで終わらせることのできない「運命の力」だ。ここから2人の流転の人生がスタートする。
戦後、外地から引き上げて来たゆき子は、富岡の実家を訪ねる。そこには男の妻の姿があった。頭では解っていながらも、現実に見る彼の妻にショックを受ける女を、男は妻の見ている前で連れ立って外へ出る。妻の姿を見ても、「俺と一緒になっても不幸になるだけだ」と男が言っても、今、自分のすぐ横にいる男の「大きな存在」をあっさり捨てることはできない。ゆき子の数奇な人生のスタートだ。彼女は生きるため、ある時はアメリカ兵相手に娼婦まがいの生活をしたり、昔馴染みの金貸しの情婦になったりと、女としては最低の生活を送る。ここまで身を落とせば普通なら、身も心もすさんで自暴自棄になるものだ。しかし、彼女には「人生をやり直して幸福になる」という強い希望を実現させようとする不屈のパワーがある。そしてその「幸せ」には「富岡の愛」がセットになっているのだ。たとえ1人の力で成功したとしても、富岡のいない人生は意味がない。しかし富岡との生活は、必ず不幸が付いてくるのだ。
さて、富岡は「優しい男」だと前に述べた。何故優しいのか?それは、「来る者をこばまず」という姿勢だ。一見これは、節操のないことのようにも思えるが、ゆき子のような女にはとても大切なことだ。この時代で、娼婦まで身を落とした女を受け入れてくれる男がどれだけいるだろうか?いや、この時代だけでなく、「女の貞操」など死語となったフリー・セックスの現代でも、男性はえてして、不特定多数の男と交渉を持つ女を嫌うものだ。ましてや男尊女卑の時代では、たとえ自分がその原因となっていようと、他の男に抱かれた女を、男は決して受け入れないものなのに。しかし、富岡は、女の身の上全てを承知していながら、久しぶりに逢った時でも、「やあ、どうしたの?」と、つい昨日別れたばかりのような、さりげない挨拶のできる男なのだ。女が言いたくないことは何も聞かず、当たり前の笑顔を返してくれる男の温かさ。どんな犠牲を払ってでも、それは繋ぎ止めておかなくてはならないものだ。ただ、富岡の場合、その「優しさ」はゆき子だけに向けられているのではないということが玉にきずなのだが・・・。そのよい例が岡田茉莉子演じるおせいの存在である。富岡はこともあろうにゆき子との旅先で、知り合った男の若い妻、おせいに好意を持ち、同棲するに至る。しかもゆき子は富岡の子供を妊娠していたのだ。この行為、富岡が極悪非道のようにも思えるが、私の「富岡=優しい男」の法則から考えると、いたしかたないことなのだ。富岡が一目でおせいに興味を持ったのは、もちろん彼女が若くて美人なこともあるが、「ここから逃げたい」と思っていることを感じ取ったからなのだ。その強烈なSOSサインを、優しい富岡にはとうてい無視できるものではなかったのだ。富岡はおせいを捨てることはなかった。富岡には、「遊び」という付き合い方はできない。その証拠に、おせいの夫は、富岡ではなくおせいのほうに制裁を加えたのだから。そう、「優しさ」というものはこの世で最も恐ろしい行為なのである。
さて、ゆき子はおせいとは違い、富岡に助けを求めたことはない。彼女は決して従属型の女性ではないのだ。彼女は自分の行動には全て自分で責任を持っている。富岡の子供を墜ろす決心をしたのも彼女1人でであった。基本的に彼女は1人で生きていける強い女性だ。だからこそ、富岡のように、ふと気弱になった時に、黙って受け入れてくれる男性が必要なのだ。自分をひっぱっていってくれる強い男でも、始終べったり一緒にいてくれる甘い男でもなく、富岡のような優しさの男でなければならないのだ。
皮肉なことに2人が真の幸福を掴んだのは、ゆき子が病で世を去る時だった。ここまで、一方的にゆき子の富岡へ対する激しい想いしか表立って描かれていなかったが、2人が新たな人生をスタートさせるべく選んだ屋久島への道中で、富岡のゆき子へ対する深い愛がはっきりと感じられるようになる。重い病にかかり、動けなくなったゆき子を献身的に介抱する富岡。ゆき子を置いて、先に島へ渡ろうと思えばできた富岡だったが、彼は彼女を置き去りにすることはなかった。港を出てゆく船を見送り、ゆき子のためにみかんを買う富岡の複雑な心中は察するにあまりある。ようやく2人で島での生活をスタートするも、湿気の多いこの地では、ゆき子の病状は悪化するばかりだ。それでも、2人は絶望することはなかった。最後の朝、軽口を叩き合う2人。そう、このシーンが私はとてもとても好きだ。表面的にはふざけたような軽い会話だが、その中に秘められた2人の深い愛が、たとえ死を目前にしていようとも、幸福であることを物語っているからだ。富岡はゆき子の死に目は会えなかったが、最後に安らかなゆき子の唇に口紅を塗ってやる。そして、それまで飄々としていた彼が、ここで初めて声をあげて泣くのである。この涙、悲しみか?哀れみか?絶望か?それとも安堵か?何であろうとゆき子の前では決して涙を見せなかった彼は、やはり優しい男なのだと私は思う。
これは宿命なるくされ縁によって、愛に流されたのではなく、愛を貫いた男女の至高のラブ・ストーリーだ。