劇場公開日 1955年1月15日

「二人の情念のさまよいを、見事に描ききった作品。」浮雲 とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5二人の情念のさまよいを、見事に描ききった作品。

2023年8月17日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

悲しい

小津監督が「俺には撮れん」とおっしゃったことが有名な映画。
 小津監督の映画は『東京物語』『早春』『秋日和』しか鑑賞していないけれど、確かに、この映画は小津監督には撮れないと思う。小津監督の様式美に合わないと思う。『早春』にも不倫は出てきたけれど、グダグダさが違う。
 コメディチックな要素のある小津監督作品。
 この映画では…。描かれていることが廻り回ってブラックコメディだとしても、それは、自分の心を、普段の生活を覗き見て出てくる、シニカルな笑い。

成瀬監督作品初鑑賞。
 評価の高い作品と聞く。だが、初見では、高峰さんを見る映画かと思った。
 高峰さんの映画も『二十四の瞳』しか観ていない。だから、その役柄のギャップに驚き、こんな情念を表現なさるんだと食いついてしまった。
 そして、その高峰さん・ゆき子を際立たせる男が二人。
 一人は富岡。世の中を斜めに見ていっぱしのことを言うが、結局、流されるだけで、何も生み出さない。演じる森氏の映画は『羅生門』『雨月物語』しか観ていない。『雨月物語』でも不実な男を演じていらしたが、キャラクターが全く違う。『雨月物語』の源十郎は不実の中にも、源十郎なりの”実”を見せるが、この映画の富岡は陰キャラで厭世観をばらまき、”実”の中に”不実”を匂わせる。
 もう一人はゆき子の姉婿・伊庭。行儀見習いに来た、妻の妹・ゆき子に手を付け、その後も悪びれずに、ちょっかいを出す。戦後の時流に乗って、インチキ宗教の教祖になるという陽キャラで即物的な男。演じる山形氏の映画は『地獄門』しか観ていないが、こちらもキャラクターが全く違う。『地獄門』では清廉潔白で、袈裟がこの人の妻であることを誉と思うような御所侍を演じていらした。『地獄門』の主人公・武者盛遠がどうやっても、武もふるまいも、性格もかなわない人物。なのに、この映画での伊庭は…。このギャップ。
 役者って、すごいなあと身震いさせられる。

情念。
 「おせいに勝った」みたいな、ゆき子の台詞。
 人が必死になると釣られて、バーゲン会場でとにかく何か手に入れなければと争う人々を思い出してしまった。粗悪品か、本当に自分にふさわしいものかを吟味することなく、とにかく手に入れることに価値がある的な。
 ゆき子にとっては、それでも、周りの男の中では富岡と、選んでいるつもりなのだろう。伊庭は論外。逃れて、インドシナに赴任すれば、同僚の加納が部屋に忍んで来る。ならばと、富岡を選ぶ。インテリゲンチャに憧れる気持ちはわかる。ところが、帰国すれば、日本の惨状は。富岡が、苦労しそうな妻を見捨てなかったところは評価したいけれど。ゆき子にしてみれば、裏切り。
 見捨てられた口惜しさと、自分の方が女としては上と思いたい気持ち。自分の存在価値を確認したい気持ち。「一人になると日が長うなりますわ」とは、小津監督の『東京物語』の中の台詞だが、恋に破れても同じであろう。自尊心が低い人ほど、一回でも自分を認めてくれた人・ものに縋りつく。
 惰性とその中にちらつく相手への愛おしさと。怒り。富岡にだけでなく、こんな人生になってしまった運命への怒り。ごく平凡な関係をうらやましがる様。愛・恋なんて言葉では説明しきれない様々な気持ち。
 女一人で生きていくことの難しさ。家を借りるのも、”会社”に勤めるのも、まだ”保証人”が必要な時代。姉婿と関係を持ってしまったら、故郷も頼れなかったのかもと思う。とはいえ、戦後のドタバタの時期。『砂の器』のように、経歴詐称だって、その気になればできた時代? でも、ゆき子はもしかしたらの希望を捨てきれずに、富岡との縁を完全には断ち切れない。
 そんな女の、その時々の心情を表現する高峰さん。馬鹿な女と思いつつも、愛おしくなる。

そんな女に見込まれた富岡。
 初めは拒絶するようなことをいうところが、責任を取りたくないと防御しているようで、今の二股・三股男の手口と同じで腹が立つ。
 思っていたよりもひどい、帰国後の日本の現状で、妻を捨てられなかったように、目の前にいる困っている人を袖にできない。その場しのぎの短絡的な手助けや言葉が結局、その人を苦しめることは考えればわかることなのに。言い訳を連ねて、相手のせいにするかと思えば、自虐。最低男なのに放っておけない。
 そんな色悪を見事に演じて下さる森氏。富岡がメフィストフェレスのように影を体現してくれるから、ゆき子が際立つ。

そして、この二人だけだと底なし沼に沈んでいく様子だけで、見ているのがつらくなるが、程よく、伊庭がかき回してくれる。

メロドラマはそんなに観ていないので、この映画が日本で一番かどうかは何とも言えない。
 反対に、メロドラマをそんなに観ない私だが、気が付けばリピートしている。
 おせいの存在とか、二人に関わっていく登場人物もいるが、ドラマチックに盛り上げるようなエピソードがないにも関わらず、最後まで見せてしまう。

リマスターの映像の質なのか、この映画の高峰さんの、岡田さんの肌のきれいなこと。高峰さんの肌は、きめ細かく柔らかそうだ。岡田さんのは若くてプリプリしている。高峰さんが大事そうに来ている毛糸のカーディガンの手触りのよさそうなこと。光と影の使い方に唸ってしまう。

そして、いろいろな解説でも読んだ”視線”の使い方。
 インドシナでの食事の場面。メイドが後ろを通った時の視線だけで、二人の関係をほのめかす。
 一目ぼれとはこういうことかと、富岡とおせいの出会いで思う。それを横で見ているゆき子の表情・視線にもゾクゾクする。
 富岡が来るまで、旅館の別の客を見ているゆき子。ここも胸を締め付けられるシーンだ。
 ラスト、病床から富岡とお手伝いさんを見ているゆき子。何を思うのか。胸を締め付けられる。
 他にも、他にも。キリがない。
 視線が交わらない小津映画では絶対に表現できない。

不倫というより、グダグダな二人の腐れ縁を描いた話。好き嫌いが分かれそうだ。
 安易なリメイクでは、このような完成度にはならないと思う。
 映画としての見せ方は、たぶん映画通や映画に関わる人々には教科書なのだろう。
 そう考えると、評価が高いのも頷ける。

とみいじょん
琥珀糖さんのコメント
2023年8月18日

今晩は
お邪魔します。

懐かしい名作に共感ありがとうございます。
シーンの幾つかと高峰秀子、森雅之、岡田茉莉子、金子信雄の顔が
浮かんできます。
男と女の腐れ縁。
でも高峰秀子も森雅之も、本当に相手を必要としていたのでしょうね。
忘れられない・・・から、
やはり名作なのでしょうね。

琥珀糖