「時代と男の犠牲になった薄幸女性の生きた証」浮雲 Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
時代と男の犠牲になった薄幸女性の生きた証
女性映画の名手成瀬巳喜男監督の代表作として今も語り継がれる名作。原作の林芙美子に脚本が水木洋子、そして主演が高峰秀子と日本映画史に遺る三名の女性が揃い、女性の立場から見た男女の抜き差しならない愛欲関係を率直且つ綿密に描き上げています。今回46年振りに見直し、漸くこの映画の良さを理解出来て、とても満足しました。と言うのも、若い頃の洋画偏重から日本映画の良さにも関心を持ち、フィルムセンターによく通っていた1978年に観た日本映画の傑作選(溝口健二の「西鶴一代女」「近松物語」「残菊物語」「雨月物語」「山椒大夫」、小津安二郎の「東京物語」、黒澤明の「羅生門」「生きる」、木下惠介の「二十四の瞳」、内田吐夢の「飢餓海峡」)の中で、この成瀬作品の完成度の高さにとても感心しながらも、他の名作と並ぶような感動は得られませんでした。思うに二十歳の若さからか、好きな男をひたすら追い掛ける女と浮気男の腐れ縁の内容が面白いと思えず、また愚かな女とズルい男のよくあるストーリーに葛藤や感情の激しさは薄く、大人のための穏健な映画という印象でした。それから翌年に「おかあさん」「稲妻」「山の音」「鰯雲」を観ています。特に「稲妻」の演出に感銘を受けて、一気に成瀬巳喜男監督のファンになりました。
最初のシーンは昭和21年の初冬、敗戦から1年以上経って漸く本土に引き揚げてきた幸田ゆき子が向かうのは、3年前の仏印(インドシナ)で一緒の職場で出会い知り合った農林省技師富岡健吾の東京の家。後から分かる妻と離婚して待っていると期待したゆき子が最初に挨拶を交わすのは、母親と妻邦子のふたり。そこで富岡の着替えを待つゆき子が2人の馴れ初めを回想する。タイピストとして赴任した初日、不愛想な富岡に戸惑うも、次のシーンで2人が行くのが闇市の裏町通りからの連れ込み宿。戦時下とは思えない平穏でエキゾチックな仏印の居間と古びて薄汚い内地の部屋の対比で分かる、2人の関係と置かれた状況描写の巧さと無駄の無さ。異国では自信に満ち溢れ女性を蔑視する嫌な男だった富岡が、敗戦国日本ではうだつが上がらず妙に物分かりが良くなっている。温暖で開放的な異国の地で男女の関係になってしまったゆき子と富岡の出会いと再会が、この冒頭の約20分で簡潔に巧妙にモンタージュされている。しかも、この富岡という男の嫌らしさを決定付けるのが、仏印の事務所で働く現地の女中が富岡に注ぐ怪しげな視線のワンカット。表向きは女性に興味がない仕事人間に見せかけて、実は無類の女性好きな富岡に、何故幸田ゆき子は夢中になり騙されたのか。結婚を口約束したのは、現地で二人の関係を継続させるための男の詭弁ではなかったのか。
この幸田ゆき子の過去をワンカットでフラッシュバックしているのが衝撃的だった。それは東京の親戚を頼りに義兄の留守宅に入り込み布団とマフラーを拝借したゆき子が、再会した義兄の伊庭杉夫とラーメンを啜りながら会話する場面です。伊庭から性被害を受けていたゆき子は、富岡に裏切られた失意もあって(元どおりの娘にして返してもらいたい)と言う。ゆき子はこの一生消えない心の傷を抱えたまま富岡と出会い、自分から人を愛することで記憶を消し去りたかったのかも知れません。しかし、その一方的な愛は叶わず、どう生きて行くのか思案中に啜るラーメンの味は、決して旨いとは感じない。仕事も決まらず、行きずりに出会ったアメリカ兵の情婦になるゆき子。敗戦直後の貧困からその身に堕ちた女性の歴史の事実。そのお蔭で一寸したおしゃれが出来る最低限の生活になった時、心配した富岡が訪ねてくる場面では、工面したお金を渡そうとするが、もう遅いわと言う。連れ込み宿では手切れ金として渡されたお金を拒否したゆき子は未練を残したままで、今度は機嫌を取る男の狡さに辟易する。ゆき子の富岡に抱く愛には、お金の価値が最優先でないことが分かります。この小さい炬燵に当たりながら交わす会話には、ゆき子の本音と悟り、富岡の下心と偽善が良く表れている。それでも出て行った富岡を追い掛ける幸田ゆき子の一途さは変わらない。心と身体のバランスが崩れた女性をさり気無く表現したシーンです。
そして、千駄ヶ谷駅で恋人同士のように待ち合わせしたゆき子と富岡が思いついた伊香保温泉に流れ行く展開で、2人の関係を更に暗転させる脚本の構成は(序破急)の破にあたり、女性にだらしない富岡の本性がここで露になります。宿泊費に困った富岡の時計を高額で譲り受けた上に、宿の面倒も世話する飲み屋「ボルネオ」の主人向井清吉。その善人の持て成しを裏切る形で清吉の若妻おせいと関係を持つ富岡の身勝手さが救われない。しかし同時に、この時代の温泉が男女混浴の風俗にも驚きを隠せない。これは古来より続く性に開放的な日本の文化なのだろうか。翌日の朝湯に向かう富岡に連れ添うとするおせいと、疑念を抱き同行しておせいに遠慮させるゆき子の、この3人のやり取りと微妙な心理描写の細かさ。成瀬監督の演出が見事です。石階段の行きと帰りの使い方の映画的な表現もさり気無く巧い。2人で東京に戻った後のゆき子の家で会話する場面では、富岡の欠点や悪いところを鋭く指摘するゆき子の言葉が次々に出てくる。恋愛とは相手の欠点を許せるかどうかで決まるとはいえ、富岡の見た目と内側の隔たりは大きい。それは男女関係で言えば、相手を騙しやすいことにつながる。ここで富岡はおせいと恋仲になったことを正直に告白するが、きれいさっぱり分かれてきたと付け加える。そして次のカットが家出したおせいを探し求め、ゆき子宅を訪ねる清吉と、富岡の家を訪ねて引っ越したことを初めて知るゆき子の短い説明ショット。富岡の葉書から高瀬という人の住所を探し辿り着くが、この高瀬という名字がおせいの旧姓だったというオチのゆき子の驚き。ここで下心をもったままおせいと別れたと嘘を言った富岡の狡猾さが浮き彫りになる。それはおせいと富岡の同棲の過程を描写しない省略による効果でもある。観客の視点をゆき子の視点と一緒にさせて、ゆき子の心理に観る者を惹きつけるから、同棲の痕跡を確かめるように部屋を見回すカットも生きる。それだけでなく、このシークエンスでは、ゆき子の体調が思わしくないことと妊娠したことが分かります。富岡にどうするか相談するために訪ねたら、別れたはずの若い女性と一緒に生活している衝撃。だが、ゆき子の人の良さが、富岡の置かれた立場を理解します。妻の病気が悪化して、仕事も転職したばかり、おせいも正式に清吉と別れた訳でもなく、そこへ我が子を身籠ったゆき子が現れる。富岡の自業自得とは言え、愛する男が惨めに見えるゆき子は根は優しい女性です。
後半は再び伊庭杉夫が現れて、戦後の荒廃した社会不安から派生した新興宗教を扱っているのがユニーク。人の弱みに上手く付け込んで、楽して金儲けする杉夫に1万円を工面してもらうのは中絶費用だった。その病院で痴情のもつれからおせいが清吉に絞殺された事件の紙面が目に入ってくる。そこで富岡の元を訪ねて、ゆき子の感情が爆発する場面がいい。出産か中絶か悩んだゆき子は富岡の無関心に呆れ果て、彼の心にまだいるおせいに女として嫉妬しながらも憐み、ひとりの女として富岡の男としての不甲斐なさを責め立てる。この嘆き泣き崩れる悲痛なシーンにインサートされるのが、長屋の中でままごとに興じる子供たちのショットです。ゆき子の本当の願いに寄り添い、女の幸せとはを可視化した表現のモンタージュ、それによって今現実に生きて苦しむゆき子の感情を深く描き出します。これこそ映画ならではの表現と言えるでしょう。
しかし一転、仕事に行き詰まり落ちぶれて妻邦子を亡くし、大日向教の教祖杉夫の世話になっていたゆき子を訪ねて葬式代2万円を借金する富岡。その彼を思いやり見送るゆき子のショットから物語はテンポを加速させ、舞台も南洋に近い屋久島に向かい、ふたりの道行きのような道づれを描きます。ゆき子が選んだのは、ひとり身になった富岡を無理やり自分にもう一度向かせること。それは大日向教の杉夫の大金30万円を横領して温泉宿に逃亡し、そこで自殺を仄めかす電報を打ち富岡を呼ぶという、かつてのゆき子からは想像できない悪徳の行動でした。一緒になりたいゆき子と違う道をお互い進もうとする富岡に妥協点はありません。しかし、杉夫がゆき子を探し出そうとしていることを知って仕方なく新天地の赴任先屋久島まで付いて行くことになる。長旅の疲れからか途中の鹿児島の宿で倒れてしまい不安が過ぎります。当時の医療技術のレベルの低さを想像すると、寝たきりで家で長期療養するのは珍しくなかったので、最後の流れは理解します。ゆき子が元々身体が弱いのは妊娠した時から描かれていたし、中絶もけして上手くいった訳でもない。当時の栄養状態も現代と比べて悪かった。ゆき子の悲劇は、好きな男と一緒になりたいがために、無理に大胆な行動に出て、自分の身体を労わることが無かったからでしょう。問題は、最後遺体を前に泣き崩れる富岡の姿です。妻がいながら占領地の職場でゆき子と関係を続け、内地に戻れば事情が変わったと身勝手に棄て、縒りを戻すかに見せて若い人妻と同棲して死に追いやり、そして屋久島で短い期間なら一緒にいてもいいという無責任さ。結局この富岡という男は、ひとりの女性も幸せにしていない。そんな男の涙になんて、誰も同情は出来ないでしょう。ここは原作と違うようですが、富岡の涙でゆき子を送りたかった映画としての終わり方を選んだようです。
不倫男を愛し追い掛ける薄幸なゆき子と、時代の波に乗れず不安定な生活でも女を渡り歩く富岡の結局は離れられない女と男の関係。この女性作家の厳しい視点で描き通した脚本を、成瀬監督は女性心理に集中して演出し、主人公幸田ゆき子の悲劇を見事に映像化しています。脚本を読んで主人公の破滅的な生き方を演じれるか躊躇したという高峰秀子の演技は、それまでの長い芸歴と女性として美しく魅力に溢れた30歳の年齢から、一つの集大成的な名演を遺しています。最後の死に化粧を施されたゆき子の美しさ。時代と男の犠牲者としてのゆき子を演じ切った高峰秀子の名女優たる存在感が素晴らしい。そしてこの高峰の演技に呼応する森雅之の演技もまた素晴らしい。日本映画では男優の演技に不満を感じるのが時にありますが、富岡の嫌らしさと狡さを見事に表現しています。おせいを演じた岡田茉莉子の鮮烈な美貌と強かな役作りも良く(何とこの時21歳!)、加東大介、山形勲の脇を固める俳優陣の充実度の高さにも感心しました。
採点は文句なしの☆5個が相応しい完成度と思います。ただ描かれた内容の好みから個人的に評価しました。それでも、「稲妻」と「あにいもうと」に加えて、成瀬巳喜男監督の凄さに敬服した愛すべき名作には違いありません。
読みごたえあるレビューを拝読して、ずいぶん前に見た映画とその時自分が感じたことを思い出しました。観客の視線とゆき子の視線を重ねたカメラ、高峰秀子の演技にのめり込んで自分まで女好きのだらしない富岡に惹かれてしまったことも思い出しました。また見る時があったら何を思うだろう?