アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン : インタビュー
「青いパパイヤの香り」「夏至」といったアート映画で知られ、現在は村上春樹の大ベストセラー小説の映画版「ノルウェイの森」を撮影中のトラン・アン・ユン監督が、木村拓哉、ジョシュ・ハートネット、イ・ビョンホンという日米韓のスターを起用して作り上げた話題作「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」。そのミステリアスな内容で物議を醸している本作について、トラン・アン・ユン監督とジョシュ・ハートネットに話を聞いた。(取材・文:編集部)
トラン・アン・ユン監督 インタビュー
「この映画の探偵は他者の存在と自分自身の存在を探す存在なんだ」
——本作のストーリーを描くにあたって、なぜ伝統的な探偵物語風のストーリーを使ったのでしょうか?
「手法としては、とても古典的な感じなんですけど、アメリカ映画でも何かを探すときに設定としてよくつくるのが、探偵のキャラクターで、同じような手法をこの映画でも使ったんです」
——でも、本作でユン監督が描きたかったことは、この探偵映画のフォーマットを使う必要がなかったのでは?
「探偵というものは自分以外のものを探し当てる存在なんだけど、今回ジョシュが演じたクラインは、自分以外のものを探し当てる部分と、自分自身の問題の2つを探し求める存在。このクラインは、過去に自分が関わった殺し屋との関係に取り憑かれている部分を取り除きたいという気持ちを持っていて、本当の自分というものを見失ってしまっているからこそ、自分自身を探したいとい思うんだ。そこで、シタオという絶対的な存在の人間と出会っていく中で、自分自身のこととも向き合うことになる。だから、自分としては決して探偵映画のフォーマットと本作のテーマは離れていないと思っているんだ。
いわゆる探偵というものがどういう役割をするのか、一般的な考え方があるし、探偵が出ている作品ということで、観客がどういったものを想像するのかもよく分かる。だけど自分があえて、そのよくある一般的な探偵映画に出てくる探偵像にこだわる必要はないと思う。実際にこの映画の探偵のクラインは、一般的な探偵と違って、他者を見つけることと自分を見つけることという2つの目的を抱えている。だから彼にとっては、依頼者から頼まれてシタオを探すことは一つの口実に過ぎないわけで、クラインの本当の目的は、取り憑かれているものをいかに取り除くか、というところにあるんだ。映像として、それは明確に見せないけれど、クラインがキリストのような人物と遭遇することによって、明らかに自分が持っている痛みや、自分自身が見失っているもの、取り憑かれているものを振り払うことになるんだ」
——本作には、木村拓哉扮するシタオの対極的な存在として、自称アーティストの殺人鬼ハッシュフォード(イライアス・コティーズ)が登場しますが、彼は“神になろうとして、なれなかった存在”なのでしょうか?
「そういう風にはとらえてない。ただ、自分としてはハッシュフォードは、洗練されたアーティストとしての存在が面白いと思ったんだ。というのは、本能的、衝動的に理由もなく人を殺す殺人鬼像っていうのはたくさんあるけど、この映画ではそうではなく、洗練されたアーティストの殺人者というのを描きたかったんだ。なぜかというと、アーティストである彼は、自然の中に生きている美しい花を見ると、“これはただ単に美しい花なんだ”と思うと同時に、“この花を永遠の美しさとして作り上げていきたい”と思うんだ。
だから、彼としては対象物である花を切るしかない。要するに、切って、加工して、オブジェにするということ。つまり彼にとっては人間も自然界に存在する一つの加工対象物に過ぎないんだ。だから、彼にとっての永遠の美しさというのは、生きているものの生命を断ってしまうことに繋がる。そして、それは彼にとってのアーティスティックな行為ではあるけれど、見方を変えれば人殺しということになるわけなんだ。たとえば、ウサギを殺して、はらわたを取り除いて、別の色のはらわたを入れ直して、(芸術品として)永遠の命に代えてしまうこと。何故そうするかは分からないが、彼にとってそれが美しいと思えるわけで、ただそれのためにやっているんだ」
——とても難解な映画でしたが、演じた俳優たちはこのシナリオを読んでなんと言ってましたか?
「撮影中にそんな話をしたと思うんだけど、忘れちゃったな。やっぱり撮影中は次から次へと処理しないといけないことが出てくるからね。でも2〜3年後にはまた、ひょんなことから思い出すかも知れないね」