レトリカルな米製カートゥーンに気品ある仏製アイロニーをうまく混ぜ合わせるとこういう傑作が生まれるんだな。これが『ファンタスティック・プラネット』や『ベルヴィル・ランデヴー』に繋がっていくんだろう。
独裁を敷く王と、それを憎む鳥。とはいえこれを王に表象される「支配」vs鳥に表象される「自由」という単純な階級闘争として捉えようとすると痛い目を見る。
鳥は王にヘイトを抱いてはいるものの、生活にはあまり不自由していないように見える。彼の巣は王宮のてっぺんにあるし、4羽の子供を過不足なく育てているし、喋り方にもどことなく英国紳士風の余裕が感じられる。というかそもそも自由の象徴である「翼」を有しているわけだし…
本当に自由を必要としているのは、むしろ王でも鳥でもない人々だ。たとえば煙突掃除夫の男の子と羊飼いの女の子。恋に落ちた2人は絵画の中から飛び出して『メトロポリス』のような城塞都市から逃げ出すのだが、羊飼いの美貌に目をつけた王は2人を捕らえよと国じゅうに命じる。
2人は鳥の助力を借りながら『カリオストロの城』のような決死の逃避行を繰り広げる中で、この国の地下に貧民窟があることを知る。貧民窟の人々は、自由はおろか太陽の光さえ目にしたことがないという。
するとそこへ王の乗った巨大ロボットが現れ、羊飼いの女の子は攫われてしまう。いよいよ憤激した鳥は、地下の檻に閉じ込められていた動物たちを説得して王政打倒に乗り出す。
面白いのは鳥の説得がほとんどこじつけのようなアジテーションでしかないところ。アジテートだって立派な政治活動なのだから否定はしないが、恣意の比重が大きくなればそれはいつかプロパガンダへと堕するだろう。
王は動物たちの力によって打破され、権力の象徴たる王宮もまた灰燼に帰した。そこには「考える人」のようなポーズで操縦者不在の巨大ロボットが座り込んでいるだけで、自由を勝ち取ったはずの人々の姿はどこにも見当たらなかった。
本作のセルフリメイク元である『やぶにらみの暴君』では、男の子や女の子や貧民窟の人々が新しい街で楽しく暮らすというところで物語が完結するが、それに比して本作のオチはかなりシリアスだ。
王が負け、鳥が勝った。しかしそれを支配に対する自由の勝利であると言い切ることは、あるいは王でも鳥でもない人々が本当の幸福を得ることができたと言い切ることはできないんじゃないか。
もしかしたら今度は鳥がかつての王のように振る舞いはじめる可能性だってある。王でも鳥でもない人々が再び支配の桎梏に囚われる可能性だってある。そういう一抹の不安が、なんとも歯切れの悪いこの改変シーンによって示唆されているのではないか。
手塚治虫やうつのみや理は『やぶにらみ』のほうを高く評価しているらしいが、私としてはこっちのほうが好みだった。
ちなみに作中で搭乗型の巨大ロボットが登場するアニメ作品は本作が初らしい。『ジャイアントロボ』『アイアン・ジャイアント』『ザ・ビッグオー』あたりに登場するロボットの素朴で無骨なデザインは本作が源流なのかもしれない。
作画的にも本作はすこぶる秀逸で、カートゥーンの誇張的な作画と沖浦啓之のようなリアル作画が一つの画角に奇跡的な折衷を果たしていた。
序盤の聳え立つ王宮を地面から大胆に見上げる背景画は、もちろんパースや物理的整合性という観点から言えば間違っているのだが、そうすることでしか感じることのできない迫力が備わっていた。『AKIRA』や『Ghost in the Shell』のビル群のカットあたりにも同様の手法が用いられていたと記憶している。
キッチュで迷宮じみた建築物の構造は『映画クレヨンしんちゃん ヘンダーランドの大冒険』や『映像研に手を出すな!』でお馴染みの湯浅政明のお家芸であるし、りんたろうの『メトロポリス』なんかは本作をそのまま換骨奪胎したのではないかと思うレベルだ。
アニメ作画史を総観するうえで決して欠かすことのできない古典の一つだといえる。