劇場公開日 2006年12月9日

硫黄島からの手紙 : 特集

2006年12月15日更新

太平洋戦争で最も多くの血が流された硫黄島の戦いを、クリント・イーストウッド監督が日米双方の視点から描くことによって、06年映画界を代表する画期的なイベントとなった史上初の2部作「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」。この2部作について、映画評論家・翻訳家の芝山幹郎氏に総評を寄せてもらった。(文:芝山幹郎)

生き残る力と黙祷する礼節

「こんなに大勢の若者が犬死にするなんて」――かつて、映画のなかでクリント・イーストウッドはつぶやいた。映画とは「続・夕陽のガンマン」だ。イーストウッドが演じていたのは賞金稼ぎのブロンディだ。豪快で痛快で愉快な作品だったのに、あの場面には色濃い哀切が漂っていた。

ブロンディは、やはり悪党のトゥーコ(イーライ・ウォラック)と南北戦争の激戦地を通りかかる。彼がそこで眼にしたのは、つぎつぎと斃れていく若い兵士たちの姿だった。ブロンディが、着ていたポンチョを脱ぎ、瀕死の兵士にかけてやるシーンを思い出す人もいるのではないか。

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「父親たちの星条旗」を見ていたときも、「硫黄島からの手紙」を見ていたときも、私はこの場面を思い出した。ブロンディは、多くの死を目撃する。自らの手で死をもたらしもする。そして、彼は生き残る。ただ、生き残ったからといって勝ったわけではない。彼が、銃の腕前を自負したり、強運に鼻をうごめかせたりするとも考えにくい。苦い思いを胸の底に沈めて静かに去っていく、などといえば、ロマンティックにすぎるだろう。

「生き残る」とは、どういうことか。生き残る確率の非常に低い場所にいながら、なおかつ生き残った人間は、なにを思うのか。

もしだれも生き残らなかったら、すべての出来事は闇から闇に葬られてしまう。よしんば生き残ったとしても、体験した地獄は、終生その人についてまわる。自明のことだが、楽ではない。もしかすると、戦時平時を問わず、人生とはなべて勝者のない負け戦、それも、延々と続く負け戦なのではないだろうかと、私はときおり思う。

「星条旗」の兵士は、どのように死に、どのように生き残ったのだろうか。

「手紙」の兵士は、どのように死に、どのように生き残ったのだろうか。

硫黄島には、背筋の凍る戦闘があった。不条理なまでに電撃的な死が大量にあった。イーストウッドは、まず死を問うた。広大な荒地からも、人間の感情からも色彩を奪い、いつどこからやってくるかわからない死を「物質」のように示してみせた。

同時に彼は、戦場の背後の戦争を描いた。政治の介入を述べ、感情の荒廃を語り、銃弾以外の要素に破壊される人間の姿を見つめた。

「生き残り」の意味はそこでも問われる。「延々と続く負け戦」という言葉は、そこから浮上する。ただし、負け戦には2種類がある。降伏する負け戦と、降伏しない負け戦だ。

人生はむごい。戦場はもっとむごい。人はあっけなく死ぬ。にもかかわらず、生き残る者はいる。なぜかといえば、彼らは、この残酷な事実に白旗を掲げなかったからだ。銃を撃ち、穴を掘り、弾をよけ、偶然や幸運の力に助けられ、ときには死者を装って、彼らは生き延びる。だが、なりふりかまわず、ではない。冷静と沈着はもとより、勇気も繊細もユーモアも、そこでは求められる。

こう書きながら、私は思う。イーストウッドは、映画の戦場と生活の荒野で生き残った人だ。「荒野の用心棒」から「硫黄島からの手紙」までの道のりは、想像を絶するほど長い。そして、悪路だ。その長い悪路を、イーストウッドは乗り切った。なおかつ彼は、慢心も油断も慨嘆もしていない。だからこそ、彼には悪路が見える。地滑りや崖崩れや亀裂や陥没も見落とさない。怪我をしても病を得ても、それを命取りにしない知恵を、彼は持っている。だから、降伏はしない。一方でイーストウッドは、自分がアイラ・ヘイズや栗林忠道中将になる可能性を否定していない。折り取られた命に黙祷するハートと礼節は、2本の映画を貫く太い柱ではないか。

「硫黄島からの手紙」撮影中のイーストウッド
「硫黄島からの手紙」撮影中のイーストウッド

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