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マナキス兄弟の現像されていない3巻の映像フィルムを求め、映画監督のAが地理の横軸と歴史の縦軸を股にかけながら壮大な旅をする一大叙事詩的物語。
なぜAは紛争真っ只中のバルカンに足を踏み入れてまでマナキス兄弟のフィルムを探し求めるのか。それはフィルムの探究=自己存在の探究に他ならないからだ。旅の目的と自己存在の目的のシンクロこそロードムービーの真骨頂だ。
自分とは何なのか、と深く深く考えていったとき、地理という横軸によって規定される現今的アイデンティティだけでは自分を捉え切ることができない。そこで歴史という縦軸が必要になる。過去を振り返ることで自分を形成した要因を探り出し、より立体的に自己を確立していく。
本作では現在と過去がシームレスに混じり合うが、それはAが地理と歴史の往還によって自己存在を探究する過程をダイナミックに表したものだといえる。
中でもとりわけ印象的だったのは屋敷での舞踏シーンだ。Aは母親に手を引かれ列車を降りる。軍人や戦車が物々しく行き交う間を縫って祖父母のいる屋敷へと辿り着く。Aとその家族たちは広間でピアノの旋律に合わせて踊り出す。するといつの間にか時代が1947年まで進んでおり、部屋の奥から現れた2人の男にAの叔父が連行されていく。人々はしばしの沈黙ののちに再び踊り始めるも、またもや時代が跳躍し1950年。人民委員の男たちが現れ一家の財産を没収していく。最後はカメラの前に家族が集まり、その中心にAが立つ。
舞踏の開始〜家族写真までは息継ぎなしのワンショットで撮影されている。畳み掛けるような失意や焦燥や絶望の波濤は、ぶつ切りの映像編集では決して表現し得ないものだ。
さまざまな人や土地との交感を経たのち、遂にAはサラエボへと辿り着く。当時のサラエボはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の激戦地の一つであり、道も建物も大きく損壊していた。どこにいても絶えず銃砲音が耳を劈き、炎と煙が視界をくぐもらせている。
Aはサラエボでレヴィという老人に出会う。彼こそが失われた3巻をフィルムの所持者だった。レヴィは度重なる戦火に疲弊しており、フィルムの現像作業を中途放棄していた。しかしAの必死の説得が功を奏し、レヴィは今度こそ現像作業を完了させる。
現像まで2.3時間を要するということで、Aとレヴィとその家族たちはサラエボを散策することにした。町は民族混成交響楽団の演奏や、野外楽団による「ロミオとジュリエット」の公演で盛り上がっていた。どれも民族紛争への強烈なアイロニーだ。
Aとレヴィは霧の中を歩いていく。前方からはレヴィの孫娘たちの声が聞こえる。すると突然銃声が鳴り響く。レヴィは「絶対にここから動くな」とAに忠言し、霧の中に消えていく。やがて霧が画面全てを覆い尽くす。霧以外には何も見えない。
ようやくカメラが霧を抜けたとき、そこに映し出されていたのはレヴィとその家族たちの死体だった。
Aは屋内に戻り、現像の完了したフィルムを映写機にかける。しかしスクリーンに映し出されていたのは空白だった。無機質で平板で音も動きも存在しない、全くの空白だった。長い長い旅の果て、Aは自己存在の虚無に辿り着いてしまった。
Aは自分の中にある空虚感を解消すべく旅に出たはずなのに、結局それは解消されるどころか不可逆的に強化されてしまった。それでもAは画面を凝視し続ける。
私はここにウディ・アレン『カイロの紫のバラ』のラストシーンを重ね合わせずにはいられない。映画に疎外され、映画に裏切られ、身も心もボロボロになった主人公の女。しかし彼女はそれでも映画館のシートに腰を下ろし、じっとスクリーンを見つめる。そこには微笑さえ浮かんでいる。
映像技法というメタ位相からこの映画を見ていくと、物語が進むにつれカメラの権能が少しずつ後退していくことがわかる。序盤〜中盤は技巧豊かで芸術的なショットが続いていたが、サラエボ以降はそういったシーンがほとんどみられない。そればかりか、カメラは霧の中に迷い込み、対象を完全に見失ってしまう。レヴィとその家族の銃殺という最もフェータルな瞬間を見逃してしまう。
だからたぶん、Aがラストシーンで抱いた無力感は、そのまま映画という媒体の無力感でもある。映画なんかに何ができるんだ?何もできないだろ。戦争や狂気や死の進軍を、映画ごときに止められるはずがないだろ、という。
でも、だからといって、そういう無力感に蹲り続けることもまた何にもならない。というかそんなことは不可能だ。Aは虚無に辿り着いてしまったはずであるのに、虚無であるはずの場所からはなおも暖かな鼓動が聞こえてくる。ラストシーンで彼はこう独白する。
「今度私が戻るときは、他人の衣服を着て、他人の名を名乗り、唐突に戻るだろう。君が私を見て、自分の夫でないと言ったら、印を見せよう。君に信じられるように、庭の隅のレモンのこと、月光の入る窓のことを話し、身体の印をみせよう。愛の印を。二人して昔の部屋へ戻って行き、何度も抱き合い、愛の声をあげ、その合間に旅の話をしよう。世が明けるまで。その次の夜も、次の夜も。抱き合う合間に、愛の声の合間に、人間の旅の全てを、終わりなき物語を語り続けよう」
自己存在の一切合切を吹き飛ばされ、虚無を強烈に自覚させられてもなお消えることのない微熱。語ることへのささやかなる希望。それはAを先へと進ませる。自分の存在に意味なんかない、映画に力なんかない、というニヒリズムの向こう側へとAを向かわせる。
そうするしかないし、どうあってもそうなってしまうのだ。それは映画にどうしようもなく魅了され、人間にどうしようもなく魅入されてしまった者の辿る宿命なのだ。『カイロの紫のバラ』の主人公がそうだったように。
半壊した映画館の地下室で、Aがフィルムの現像をしたがらないレヴィに向かって放った言葉はとても印象的だ。
「あなたに権利はない。闇の中に閉じ込めておく権利はない。戦争と、狂気と、死の、そんな時代だからこそ、それを現像しない権利はあなたにない」