ミツバチのささやきのレビュー・感想・評価
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読解力と感性が試される、美しい映画
この映画を表現する言葉は「スピリチュアルな」「内面的な」「精神的な」「詩的な」「絵画的な」「静謐な」というところだろうか。
「何が言いたかったんだ?なぜ高評価なのかわからん。」が正直な初見の感想。ただ、あとから考察やレビューを読みながら考えると、噛めば噛むほど味のするスルメのような映画であった。自分の読解力が足りていなかったことに気付く。
説明は一切ない。セリフも少ない。(あっても姉妹の小声での会話だったり。)ついウトウトしてしまったほどに静かに淡々と進む。
ただ、全編通して何か起こりそうな気配がビンビン。広い洋館や荒野の空き家等の舞台装置と相まってサイコホラーばりに何か出てきそうな怖さを常に醸し出す。が銃撃のシーン以外は特段驚くようなことはおこらない。
後半、イサベルのベッドが片付けられている点に違和感を感じる。アナを回復させるためにイザベルは別の部屋で寝るようにしてるんだろうと思ったが、その後の二人で笑いながらカップを飲むシーンもなんとなく違和感が。。。
違和感はアナを診察にきた医者が母親に言った言葉にも。「アナは子供なんだ。ひどい衝撃を受けているが、少しずつ忘れていく。」アナが行方不明になったとき、アナの身に何かあったのか?(まさか?襲われた?)ひどい衝撃とは何をさすのか??
イサベルが悲鳴とともに倒れていた時「実は死んでいた」という説をレビューで読んだが、なるほど突飛だけどそれなら辻褄が合う!アナが襲われたとかでなく、もうその説が正解でお願いしたい。(笑
実際は「ひどい衝撃=父親が脱走兵を傷つけた」ということなんだろうな。アナは銃撃されたところ知らないもの。父親と結びつけそう。これは衝撃受けそうだ。
どうやらその時分の戦争や政権に対する暗喩なども盛り込まれている模様。
解説やレビューを読み込むのが楽しみ。
※アナを演じた子役、集落の建物、着ている服(貴族のようなフリル、子供用のトレンチコート?、革靴、トランクケース、ピアス!)広大な風景、と大変美しく絵画的な画であった。
世界は豊かだと教えてくれる
昔、レンタルVHSで観たきりで何十年ぶりかの鑑賞。かなり細部を忘れていたのでほぼ初見な感動を味わえた。子ども時代の豊かな感性をこれほど純粋にフィルムに定着させた作品は本当に希少。映画『フランケンシュタイン』の上映に目を輝かせる子どもたち、その中の少女アナの空想世界と素朴な村の光景に、ミツバチの巣のような格子の窓など印象的なショットが多数。すべての光景が新鮮に見えるのは、こちらも童心に帰っているからか。子どもの頃、見るものが全てが新しかった。その感覚を呼び覚ましてくれる映像の数々は本当に貴重だ。
負傷兵にフランケンシュタインの怪物を重ねて助けようとするアナの純真を現実の大人たちは打ち砕いてしまう。世界の理不尽さが描かれる作品ではあるけど、読後感がいやなものにならない。それは全ての現実と空想には境目がなく、あの悲劇的な出来事も全ては空想だったかもしれないと思わせるからか。まだどこかで生きていて幸せになっているのではないかと空想できる余地が残っているからか。悲劇があってもこの世界は豊かと信じさせてくれる何かがこの作品にはある。
鑑賞力がより問われる作品
「午前十時の映画祭」で鑑賞。
後半まで、ちっとも面白くならないので、「どうしてこれが名作といわれているのだろう?」と疑問に思いながらスクリーンをにらんでいました。
でも、そうは思いながらも「退屈だなぁ」とは感じなかった。それぞれのシーンは、とてもしっかりと作られていたからです。
エリセ監督は、ひじょうに綿密な計画のもと、隠喩法(と言っていいのかな?)を多用して、本作を構成している。そして、この作品はとても「映画的」な映画だな――という印象を受けました(「映画的」って、どういうことかはっきりとはわからんけど)。
というわけで、物語の途中からは「なるほど、よく出来ているな。たしかに名作かもしれないな」と、そいういう感想を抱くに至ったのでした。
我々鑑賞者は、この物語の世界に深く入りこみ、その表現しようとするところを丁寧に読み解き、感じることが求められる。そうすればするほど、さらにこの映画の骨組みの強さを知ることができるのでしょう。
言うまでもなく鑑賞する側の真摯な姿勢というのはどの作品にも必要なわけですが、本作にはさらにそれが要求されるのではないかと思いました。
いずれにせよ、個々の鑑賞力がとても問われる作品にはちがいないでしょう。
スペイン内戦という、本作の背景を知れば、もっと深く鑑賞できるのかな?
それにしても、あの主演の女の子は可愛すぎますね。
正直眠かった...
見る人の状況により評価が分かれる
もう40年以上昔に作られた作品なのに、古臭くならないのは奇跡と言えるでしょう。
私は、何度もこの作品を鑑賞しようとしては途中で断念し、それでも「駄作」と決め付けずにこの機会を得ました。
子役の印象的な目の演技。シンプルで共感を感じるストーリー。押し付けがましくならないカメラワーク。必要のないモノは極力排除した美術、衣装など、この作品に凝らされた意匠の数々はその後の映画人に多大な影響を及ぼしたマイルストーンとでも言いましょうか。
それは、まるで当たり前のように壁に掛かっていて、見る時、人、条件によって感じ方の違う名画のような、ま、映画なので実際「名画」ですが。そんな作品でした。
今の私には、本当に癒しになる、それでいて考えさせられる、素敵な映画です。
美しさと残酷さ
話題のビクトル・エリゼ31年ぶりの長編
『瞳をとじて』を観に行くために
前日Amazonの配信を買ってこの名作を観た
これを観てから行って本当に良かったと思う
不勉強なあたし…観てないものがたくさんある
でも何を学ぶでも遅いということはないね
子供が主役ということで
『禁じられた遊び』がすぐに思い浮かんだ
無邪気さと残酷さが自分の幼い頃の郷愁に駆られる
夕陽を見て胸がキュンとなる
草の匂いを感じて切なくなるそんな郷愁
最近流行りの(?)ミツバチのドキュメントを数本観たからか特別に不思議に感じる生態
そしてこの父親が養蜂している巣箱の美しさ
家の窓ガラスもその六角デザインに
飴色の柔らかい外光が透ける
内乱の後にしてはそれなりに整った室内
子供達のベットルームの寝具もふかふかに整っていてナイトドレスも上等なリネンにたっぷりのフリル…
あこがれの西洋文化だわ
序盤の映画会
映画の缶詰が運ばれて
子供達や大人たちが集まる映画愛から始まる
終始静謐感に溢れ、子どもの心情に寄り添う作品!
「瞳をとじて」つながり
この映画の背景は1940年、スペイン内戦の終結直後。ヨーロッパでは、スペイン内戦は第二次大戦に直結したと考えられている。一方、この映画の公開は、1973年、スペインでは依然としてフランコによる独裁体制下。何しろ、この映画は暗喩に満ちているから、時代の背景を知っていたほうが良いかもしれないが、日本からは遠い国の話だし、ミニ・シアター・ブームを作った85年当時の観客に、それが理解されていたとは、とても思えない。
何、それでよいのだ。
この映画の良いところはどこだろう。
やはり、アンと言う可愛い(当時5歳の)幼女が少女に変わって行くところに尽きる。
サンタの実在を信じていた男の子が、それが虚構であることに気付くような。
アンの場合には、自分を始めて意識することが重要なのだろう。
「私はアン」と言って、眼を閉じることは、それにつながる。
それを教えてくれたのは、半年しか歳の違わないお姉さんのイザベル。しかし、本当の自分を知るためには、様々な経験もまた必要だった。学校、巡回移動映画、汽車と線路、父親とミツバチ。眼を閉じて最初に現れるのは、確かに巡回映画に出てきてイザベルに聖霊と教えられたフランケンシュタインだったのかも知れないが。
でも、次は列車から飛び降りて家の近くの廃墟に隠れていた兵士になったことだろう。
驚いたことに、この映画は、同じ監督(ビクトル・エリセ)と女優(アナ・トレント)による50年後の映画「瞳をとじて」につながってゆく。しかも、同じセリフ「私はアン」を通じて。今度は、目をとじると過去に出会った大事な人たち、それから自分そのものが見えてくるのだろう。寡作の監督エリセが、この映画を通じて、私たちに教えてくれたものは大きい。
アナの瞳
映画フランケンシュタインを観た後にアナは「何故殺されたのか?」と尋ねる。それ以降、この作品は死の気配とともに進行していく。
荒涼とした風景、色彩のない街並み、団欒のない家庭。明らかに歯車が噛み合っていないが、それが何なのか明確には分からない。
そんな生気のない世界の中で、主人公のアナの瞳だけはキラキラとしている。サンタクロースを信じるような無垢な心で世界を見ている。
そんな彼女がある事件をきっかけに失踪し、捜索する父親たちに見つけられる。この失踪は、蜜蜂でいえばサナギの状態に当たるのだろう。事件の前と後で決定的にアナの内面は変わっている。
フランケンシュタインという触媒による幼虫から蛹、成虫へという変化はアナだけでなく、家族、そして恐らくスペインという国の変化(将来への希望的なものも含め)も表している様に思える。
スペインの独裁政権下という制約のある中で作られた映画。隠された作者の思いを漠然と感じられるも、掴み切れずもやっとするものが残る。
時代背景を調べて、また観に行こう。
…
(20240215ht渋谷にて二度目)
評価不能
ひどく陰鬱な作品だった
伝説の作品に映画館で出会える喜び。
ビクトル・エリセも自分にとっては伝説だった。
これはフランコ独裁政権末期の1973年に発表された長編監督第1作。舞台はエリセが生まれた1940年頃のスペイン🇪🇸の小さな村。
そう、内戦が終結しフランコが政権を握った頃。
メチャ可愛い少女アナのポートレートだけを40年近くイメージしてきたのだけど、実際にはひどく陰鬱な作品だった。
検閲を掻い潜るために散りばめられたであろう暗喩が今となっては観る我々にことごとく解釈を求める。
ロシア🇷🇺の影響下にあったポーランド🇵🇱時代のアンジェイ・ワイダ作品を思った。
平和ボケした自分が果たしてエリセの思いをどれだけ汲み取れるのだろう。「最悪の解釈」をもってしても足りない。
片付けられたお姉ちゃんのベッド。
焚き火🔥を跨いで遊ぶ子供たち。
そう、彼らの衣服に火が燃え移ることはない。
果たしてフランケンシュタインと出会ったアナは?
2回目の鑑賞。スペインの名匠ビクトル・エリセの長編監督第1作。スペ...
アナの瞳の中に
「瞳を閉じて」を試写で観た友人の須賀隆が、「観る前に「ミツバチのささやき」を見直しておいた方が良い」とアドバイスがあった。
ヒューマントラストシネマ渋谷で「ミツバチのささやき」を。劇場で観るのは初めてだ。
アナ・トレントのまなざしが良い。「瞳を閉じて」では50年後の彼女を見る事になるのか。
家の中や風景の構図、カメラの移動(母親が手紙を出しに来て駅舎を回り込む所等)、及び照明が素晴らしい。
映画にスペインの国政批判のメッセージが含まれていようがいまいが、映画は映画(映像)的に魅力があるもので無ければならない。
見た後でその背景を知りたい人に伝えれば良いのであって、鑑賞の前後に解説を付ける(午前10時の映画祭)と言うのは違うと思う。
「本作撮影中に撮影監督のルイス・カドラードが視力を失い、上映時間を短縮する必要があった(Wiki)」ため、カット数が足りなかったり編集で相当苦労したのではないか。
だから、必然的に説明不足、描写不足が生じて、外野ではイザベルの生死等が議論される事になっている。
アナにとってショックだったのは、父親が男を殺して時計を取り返したと思った事だろう。だから、彼女は逃げた。そして精霊(フランケンシュタインの怪物)と出会ったのだ。
「エル・スール」も後半が撮影出来ずに半分位の上映時間になったと言うし、上映時間169分の最新作「瞳を閉じて」を観て、我々は初めてビクトル・エリセの本領を知る事になるのかも知れない。
アナ・トレントのポストカードは貰えなかった。劇場のロビーには須賀隆のHiVi・1/15号の「瞳を閉じて」紹介記事が掲出してあった。
スペイン内戦 終了後 子どもたちはそんな状況下でも成長して行く
ミツバチのささやき
神戸市内にある映画館「シネ・リーブル神戸」にて鑑賞 2024年2月4日(日)
スペイン内戦により分断された夫婦と若き後妻それぞれの抱える問題、子どもたちはそんな状況下でも成長して行く
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1940年頃、スペイン中部のカスティーリャ高原の小さな村オジュエロスに一台のトラックが入っていく。
移動巡回映写のトラックで、映画「フランケンシュタイン」。
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喜ぶ子供たちの中にアナ(アナ・トレント)と姉のイザベル(イザベル・テリェリア)がいた。
その頃父のフェルナンド(フェルナンド・フェルナン・ゴメス)は、養蜂場で、ミツバチの巣箱を点検する作業をしている。
母のテレサ(テレサ・ジンペラ)は、室内にこもって、内戦で荒れはてた家や人々の様子を手紙に書き綴っている。
いったい誰に宛てている手紙なのか、毎週のように、駅に向かい、列車に投函する。
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公民館のスクリーンには、少女メアリーが怪物フランケンシュタインと水辺で出会う美しいシーンが展開している。
そのシーンに魅入られたアナは姉からフランケンシュタインが怪物ではなく精霊で、村のはずれの一軒家に隠れていると聞いた。
学校の帰りにアナはイサベルに村のはずれの一軒家に誘われた。そこに精霊が住んでいるというのだ。
別な日に一人でそこを訪れるアナ。夕方、イサベルは黒猫と遊んでいる。アナは父母のアルバムを見る。父あての母のポートレートには、“私が愛する、人間ぎらいさんへ”とある。網の中のミツバチにささやきかけるアナ。
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夜ふけに一人起き上ったアナは外に出る。列車から兵士が飛び降り井戸のある家に入って行く。彼はアナに拳銃を向けるが、子供だと知るとやさしくなる。
足をけがした兵士は動けない様子だ。大きなリンゴを差し出すアナ。二人はアナが持って来た父のオルゴール時計で遊ぶ。
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その夜、井戸のある一軒家に銃声が響いた。
翌朝、フェルナンドが警察に呼ばれる。オルゴール時計のせいだ。
公民館に横たえられた兵士の死骸。
食事の席でオルゴール時計をならすフェルナンド。
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アナにはすべてが分かった。
井戸のある家に行き血の跡を見つめるアナ。その日、夜になってもアナは帰らなかった。心配する家族。
そのころ、森の中のアナの前に、映画で見た怪物フランケンシュタインそっくりの精霊が姿をあらわした。
発見されたアナは昏睡状態に陥っていた。家族のみんなが見守る。深夜一人起き上がったアナは夜空を見つめるのだった。
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ビクトル・エリセ監督 1940年スペイン生まれ
映画館から上映前に女の子の写真が入ったハガキ大のカードをいただきました。ここでは「アナ」
ムーチャス・グラシアス!大岸弦
眠たくならず最後まで美しい描写飽きずに楽しめた自分の中で色々想像し...
眠たくならず最後まで美しい描写飽きずに楽しめた自分の中で色々想像し連想しながら 珍しい感覚を呼び起こされた 今までの映画にないタイプ
1945年以前のスペイン 産業革命が起こってなさそう不毛な土地
近世の暗さ絵画ベラスケスピカソダリやはり住んでいる館や調度品が美しくて飽きない(西洋文化は建物が素晴らしい)
インド人的な風貌
音主題歌 オープニングクレジット 人物の思考を映す時に流れる
登場人物の立場 男自分の仕事に 男の妻不倫?興味が家庭外へ
背景 カトリック 戦争中?汽車で移動する兵士逃亡する兵士撃たれる
映画フランケンシュタインが契機となって
姉死んでしまうヒロインへの憧れ血ナルシスト的 妹フランケンシュタインへの恋妻的な味方になりたい欲望
不穏な雰囲気が徐々に 死と隣り合わせ危険 ミツバチや幼い妹が一人で遠くへ行方不明毒キノコ井戸を覗く機関車レールに耳をつける
ビクトル・エリセの奇跡の長編デビュー作 難解だが、映像美に惹かれる
午前十時の映画祭13にて。
(町山智浩解説つき)
難しい映画だ。
本作公開時の日本はミニシアターブームの真っ只中で、“シネマスクエアとうきゅう” “ユーロスペース”などと並んでブームを牽引した“シネヴィヴァン六本木”で上映された。チケット購入も、購入後の劇場入りも長蛇の列だった。(※)
公開当時は、主演の女の子(アナ・トレント)が神秘的なほど可愛いかったことと、幻の傑作『フランケンシュタイン』(’31 監督:ジェームズ・ホエール)の映像が引用されていることが注目のマトだった。
実際、アナちゃんが大きな眼で『フランケンシュタイン』に見入る表情は、パブリシティに使われていたスチールを予め見ていても、映像として強いインパクトがあった。
この映画が独裁政権下スペインの隠喩であることを知ったのはずっと後なので、それを意識して鑑賞したのは今回が初めて。
製作されたのは日本公開の10年以上前で、製作当時のスペインはまだフランコ独裁政権下だった…ということすら初鑑賞時は知らなかった。
公開当時はファンタジックでアーティスティックな映画という印象だったが、難解で一種異様な雰囲気も感じていた。そういうハリウッド映画とは異質なところをオシャレに感じる周囲の空気はあったが、自分は映画の意味することが理解できず難しい映画だと思っていた。
アナと父・母・姉がスペインのどういう人達のメタファーであるかは、町山氏の解説のとおり監督や関係者が公表しているのだから、余談を挟めない。
しかし、よほどスペイン内戦前後の社会的背景や映画製作時のスペイン情勢を知っていないと、この的確だと評される隠喩を理解できないのではないだろうか。
少なくとも私には難しい。
スペインに全く詳しくない自分は、寒々しい村の風景と和やかさのない両親、意地悪な姉に囲まれた少女アナが可哀想で、映画で見たフランケンシュタインの怪物と空き家で出合った脱走兵を重ねてしまうのは、彼女の現実逃避なのだと解釈していた。
勿論、ラスト近くでアナの前に現れる怪物は幻だ。それは、彼女が現実(父)から逃げて幻想(脱走兵=精霊)を追い、遂に幻想世界に堕ちていったのだ…という理解だった。
今回30余年ぶりに鑑賞して(ほぼストーリーを忘れていたので初観と変わらないのだが)、時間軸を操作しているのではないかと感じた。
姉のイサベル(イサベル・テリェリア)に誘導されて野原の空き家に始めて行ったとき、アナは井戸の周りに靴跡を見つけている。
が、脱走兵が列車を飛び降りる場面はこの後に描かれていて、時系列だと脱走兵はまだそこにはいない。
また、姉妹で寝ている寝室をアナがこっそり抜け出すシーンがあるが、これもアナが空き家で脱走兵に出会う場面より前なのだ。
もしあの空き家に行ったのだとすると、そこにいる脱走兵=精霊がいるからではないかと思うのだ。
この映画全体の構成から、これらの部分だけ時間軸を前後させるのは違和感があるから、靴跡は脱走兵とは無関係で、それを精霊の足跡だとアナが確信し、夜なら出会えるかもしれないと寝室を抜け出していた…ともとれなくはない。
父のミツバチ生態観察、母の文通については、解説があったお陰で理解したとして、理解し難いのがイサベルの死んだふりのイタズラだ。
あれはイタズラではなくイサベルは本当に死んでいた説もある。
家族の食事のシーンで父親の言葉に母親がいっさい反応しないことから、母親はすでに死んでいたという説もあった。
最後に怪物が現れたりするので、そもそもアナが見ている幻影が挿入された映画なのだと解釈したこれらの説は、それなりに説得力がある。
だが、監督たちが後に明かした隠喩のロジックとは合致しないのだ。
いずれにせよ、神秘的で寂し気で、しかしサスペンスフルで、そして美しい映画である。
ピカソの「ゲルニカ」で知られる都市無差別攻撃は、フランコ軍と結託したドイツ軍によって行われた。子供の頃、「絨毯爆撃」という恐ろしい攻撃方法の代表例としてよく聞いたものだ。
このような非人道的な恐ろしい所業が、軍事クーデーターを起こした反乱軍によるもので、その反乱軍が勝利して実効支配する国に暮らす国民たちの気持は想像もできない。
今なお、侵略戦争や民族紛争、領土紛争の戦争が止まないのは、恐ろしくも悲しい。
※私の記憶が確かなら……
ミニシアターが都内各所に出現し始めた80年代、一般の映画館はまだ“入替え制”ではなかった。席は全席自由で、映画の途中でも構わず入ることができ、最終回の終映まで何時まででもいられた。一回の料金で何回も同じ映画を見ることが可能だったのだ。(大型劇場は中央の2〜3列が指定席で、上映回毎に別料金で指定券を買う方式だった)
ところがミニシアターは、一本の作品の上映開始までに入り、終了とともに出なければならない”入替え“方式を採っていた。と言っても、全席指定ではないので良い席に座りたい人は早くから並ばなければならなかった。入場整理券が配られ、その番号順に(10番刻みとかで)入場して好きな席を選ぶ方式が多かったと思う。
“シネヴィヴァン六本木”の入替え制は、終映後に部屋から出されるが、劇場の外に出ないで次の回に並び直して入ることができた(初期だけだったかも知れないが)。
今の六本木ヒルズ辺りにあった「WAVE」という施設の中にあり、「シネWAVE」と呼んでいたはずだ。その記憶が間違いなのか、私が誤った呼び方をしていたのか、定かではないが…。
“シネヴィヴァン六本木”は、特にヨーロッパ系のアート作品を上映していて、本当のシネフリークと、彼らに影響された流行に敏感な若者たちで溢れていた。
日比谷の“シャンテ シネ”はマイナースタジオの邦画も多く上映するなど、各劇場が特色を出していた。
そういえば、「ミニシアター」という呼び名はいつ使われるようになったのだろうか。当時は「単館系」という言い方をしていた気がする。
アナの瞳
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