「なぜ詩(うた)なのか」ベルリン・天使の詩 猿田猿太郎さんの映画レビュー(感想・評価)
なぜ詩(うた)なのか
私がもっとも好きな映画です。私のようなものでも、具体的な説明抜きで理解したような気分になれるから。もっとも、正しく理解出来ているか、正直怪しいところでは、あるけれど。
それほどに、好きではあるけど、実に難解な映画だと思います。説明がなく、難解だからこそ、思索、考察が止まらない。見るたびに発見がある。何度も見たにもかかわらず、4K版劇場公開と聞いて、新作映画をほったらかして選んでしまった。
手書きで詩が歌われる。ドイツ語だろうか、でも、その節回しで童歌のような詩であるとわかる。まず、子供に帰れということか。
続いて、恐れ気もなくビルの屋上に立つ男。恐れ気もない。つまり、死ぬ恐れはない。見え隠れする翼。映画のタイトルも助けて、天使であると理解する。SFXとして、実に地味な演出だけど、超常的な存在であることは理解出来る。派手な演出は要らない。見るものがそうと理解出来れば、それで良いということか。それ以後も、派手な特撮など行わずに、人混みのなかで誰が天使かを悟らせるのも面白い。
加えて、それを見上げる子供たち。見上げるのは子供だけ。誰もが何処かで聞いたことのある噂。子供だけが見える超常的な存在。その理由は私には判らないけど、子供の頃にしか判らないこと、子供だからこそ感じたこと、子供だから恐れない、苦しみをしらない。
そして大人達の思惑が飛び交う。実質的で、現実的で、物理的な苦しみに苛まれる。大人になればなるほど、その苦しみが積み重なる。生きづらさ。生きるのは実に辛いことだ。
天使達はその合間を巡りながらも、喜びを見出していく。メモに取り、何気ない発見を語り合う。そして、主人公の天使は「見せたいものがある」と誘う。同僚を導いたのは寂れたサーカス。
寂れたサーカスで繰り広げられるささやかな見世物。誘われた同僚がどう感じたのか知らないけれど、誘われた本当の理由が見出される。主人公の天使は、人間の女性に魅せられていた。恋をしたのだ――という理解で正しいでしょうか。サーカスの締めくくりで、子供たちだけが風船を追って舞台に降りるのも印象的。大人はその有様を見守るだけ。
本筋とは外れているかもしれないけれど、特に空中ブランコのシーンが素晴らしい。華麗に宙を舞う彼女を、落ち着かなく見上げる天使。加えて、サーカスの団長でしょうか。タキシードに蝶ネクタイで、ジッと緊張した面持ちで見上げる姿。地面にネットを張らずに行われる曲芸、万一があれば飛びついて受け止める覚悟なのだろう。客にそれを悟らせない。でもブランコの彼女と同様、一瞬でも気を抜けない状況で微動だに出来ない。しかし気持ちは落ち着かなく歩きまわる天使と同じ気持ちだろう。その三人の様。
他にも素晴らしいシーンは多々あります。鏡越しに見つめ合う二人のシーンは、ハリウッド版でもあったんだったか。まるで彼女が天使の存在に気付いているかのような。そんな筈があるはずもないのに。
やがて天使は現実に生きることを選ぶ。多くの大人達が生きづらさを感じつつ生きている人生を選ぶ。「一つずつ学んでいこう」と意気揚々と歩き出す。私たちに、生きる喜びを改めて見出そうよと誘い掛けるかのように。壁の落書き、一杯のコーヒー、空気の冷たさ、傷の痛みですら、生きている実感として喜びとなる。見知らぬ人と交わす言葉、不思議な出遭い、やがては恋をし、愛し合えたなら最高じゃないか――なんて、私たちもそんなに上手くいけば良いのですが。
そして、映画は詩で閉じられる。なぜ、詩で始まり、詩で閉じられるのだろう。判らないけど、様々な言葉で綴られる詩を感じ取るように、様々な出来事で綴られる映画を詩のように感じ取りなさいということなのだろうか。
一番好きな映画だけど、理解出来ているようで、やっぱり難解ですね。童歌で始まり、最後は老人の言葉で締めくくるのも象徴的です。歳をとると子供に還るようなところもありますから。スタッフロールで囁かれる囁くような様々な歌声も印象的だった。うーん・・・難しい。面白い。素晴らしい。