ふたりのベロニカのレビュー・感想・評価
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ポーランドの小さな村とフランスのパリに、ベロニカ/ベロニクというふ...
ポーランドの小さな村とフランスのパリに、ベロニカ/ベロニクというふたりの少女がいた。
音楽の才能に恵まれたベロニカ(イレーヌ・ジャコブ)はピアニストを目指していたが怪我がきっかけで声楽家を目指していた。
突然の雨のなかでも、ひとり歌い続けたベロニカ。
優しい恋人もいて恵まれた日々・・・ただ微かに、時折、胸の痛みが襲うのが気がかり。
民主化が進むポーランドでは、連帯と警察治安部隊がデモの場でしばしば衝突していたが、ある日の衝突の場にベロニカは居、不思議な気持ちに襲われる。
フランス人観光客を乗せたバスの中に、自分そっくりな若い女性がいたのだ。
しばらく後、奇妙な感覚は持ちつつも、声楽家として晴れの舞台にあがったベロニカは歌唱途中で息絶えてしまう。
そのとき、パリのベロニク(イレーヌ・ジャコブ、二役)は知り合ったばかりの恋人とベッドを共にしていたが、突然の喪失感を経験する・・・
といったところからはじまる内容で、映画を観ている方には「ふたりのベロニカ/ベロニク」がいることを知っているわけだが、劇中のベロニカ/ベロニクは互いの存在は知らない(ベロニカはチラリと相手を視認するが)。
ここに本作の面白さがある。
わかりやすいエンタテインメント、フェアリーテイルならば、ふたりの人生は劇的に交差し、「あなたでしたの」「あなたですね」と名乗り合うわけだが、ベロニクがベロニカを知るのは映画の最終盤。
もう名乗り合うことはできない。
しかし、映画の中盤以降で描かれるベロニクの人生は、先に死んだベロニカに導かれるごとくである。
小さな胸の痛みは放置しなかった。
歌唱半ばで途切れた歌曲は、ベロニクが教える小学生たちに引き継がれていく。
ベロニカが青年との間で成就しなかった恋は、ベロニクが奇妙な形で成就する。
ベロニクが成就する恋の相手は童話作家で人形劇の人形遣い。
ベロニクがはじめて目撃する彼の人形劇の話は、「足を痛めたバレリーナが蝶に変身する」というもの。
あぁ、ここに「ふたりのベロニカ/ベロニク」のシンクロとメタモルフォーゼが暗喩として描かれていたのね。
キエシロフスキー監督版、ポーの『ウィリアム・ウィルソン』といったところか。
キエシロフスキー監督らしい映像のマジックも観ることが出来る。
ふたりのベロニカ/ベロニクを演じたイレーヌ・ジャコブも魅力的だが、童話作家で人形遣いを演じたフィリップ・ヴォルテールも奇妙な魅力がありました。
彼女はだれ? 絆があったからこそ通じ合うものがある。
もうひとりの存在を感じる‥
主人公は不思議な体験をする。
別々の国に生まれたベロニカは
お互い、どんな人なのか知らない。
嬉しいこと、悲しいこと、生きる意味、
それを感じ、求めた、ひとりのベロニカ。
明るさの無い、落ち着いた画調に
さまよう彼女の心の動きが見える。
秀作。
※
【抒情性高き、スピリチュアルな物語。”ベロニカ”を演じたイレーヌ・ジャコブの美しさと、全編を彩る美しくも哀しきトーンの音楽が、作品の趣を高めています。】
■内容に触れながら、レビューしています。
1.映画は”ポーランド”のクラクフという町から始まる。美しき容貌を持ち、天性のソプラノの声を持つ”ベロニカ”(イレーヌ・ジャコブ)は、その声の美しさにより、楽団に誘われる。
彼女は、街中で一瞬、自分と瓜二つの女性がバスに乗る光景を見る。
<ここが、後半に効いてくる。上手い作品構成である。>
”ベロニカ”は心臓に不調を抱えながらも、楽団の舞台に立ち、美しきソプラノを歌っているいる最中に、突然心臓発作で倒れる。
2.場面は”フランス“に移る。
”ベロニカ”(イレーヌ・ジャコブ:二役)は音楽教師をしているが、ある日天啓を受けたかのように、突然涙を流し、本格的な音楽活動を辞める。
そんな中、彼女は人形劇を見る。気になった彼女は人形師を探す。彼の名は”アレクサンドル・ファブリ”作家でもあった。
”ベロニカ”に誰からか送られてくる”紐”(”ポーランド”の”ベロニカ”のモノに似ている。)、空の葉巻の箱・・。
”ベロニカ”は心臓内科に通っており、自らの心臓の鼓動の波形グラフに”紐”を重ね合わせる。<このシーンも、巧い。二人の”ベロニカ”が抱えている病を象徴的に表している。>
3. ”ベロニカ”は”アレクサンドル・ファブリ”と喫茶店で出会い、彼の”女性心理の可能性”と言う言葉を聞き、一度は席を立つが、再び彼と会い、恋に落ちる。
<彼に会う前に、”ベロニカ”は父親に”誰か分からないけれど、恋をする・・”と話している。>
”ベロニカ”は”アレクサンドル・ファブリ”の求めに応じ、バッグの中身をベッドの上に広げる。その中に有った、彼女が且つて旅行に行った”ポーランド”のクラクフで映した白黒写真に写っていた自分とそっくりな女性。
”ベロニカ”は、その女性の写真の姿を見た途端、滂沱の涙を流すのである。
<クシシュトフ・キェシロフスキ監督作品は「トリコロール/青の愛」「トリコロール/白の愛」のみ、観賞していた。
が、今作の落ち着いた映像と叙情的な音楽で綴る幻想的な物語で、美しきふたりの”ベロニカ”を演じたイレーヌ・ジャコブが大変魅力的であり、トリコロール三部作のクシシュトフ・キェシロフスキ監督の遺作である「トリコロール/赤の愛」にイレーヌ・ジャコブが出演しているのは知っていたので、鑑賞予定を早めて、近々観ようと思う。
映画とは、一つの作品で出会った女優さんを追いかけるのも楽しいし、好きになった監督の作品を辿ってみるのも楽しいモノである。>
I・ジャコブ、街並み、調度、ファッション、独特の光彩。 全てが調和...
I・ジャコブ、街並み、調度、ファッション、独特の光彩。
全てが調和した美しさ。
欲や攻撃性や変態性と、常識や好奇心や痛みや官能が混濁した符号化した暗示的な世界。
緊張を強いる音の世界も。
しかし困った事に話の筋はなんのこっちゃ解らん。。。
本当に美しすぎて心地よい世界にどっぷりと浸り感心しつつも、常にカットインする緊張や不安が絶えない描写はホラー映画のよう。
何かが起こりそうで、何も起こらない。
けれど全てが一本に繋がっているように感じるのは、これが人の感情だからなんだろう。
でも、それを読み解くのは難しい。
神の手に操られた人形劇だったのかも知れない
不思議な魅力を秘めた作品
主演のイレーヌ・ジャコブの魅力は無論のこと
美しい映像、空気感、音楽
それらが一体となった雰囲気があっという間に観るものを虜にしてしまう力を持っている
理屈ではない何か
別の場所で別の人生を歩むもう一人の自分
この場所で流されるままのこの自分
満たされない心
それはもう一人の人生を感じているからのか
ならばその片方を失った時にその空虚をどのように埋めたら良いのか
選ばれないのはなぜ?
彼が自分を選んだのはなぜ
理屈はない
感じるまま情熱が心を駆動させるのだ
サンラザール駅のカフェを突き止める情熱
そこで48時間を待つ情熱
選ばれた喜びと求められる不安で衝動的に逃げだす
しかし結局は追い付かれ見つけられるように期待をしてホテルの部屋をとる
熱い青春を甦らせる素晴らしいクライマックスであった
何故かはわからない求め求められる情熱が切り取られている
それは神の手に操られた人形劇だったのかも知れない
恋を忘れかけた時にこそ観るべき映画だ
恋の衝動と情熱の熱さを思い出させてくれるだろう
女優賞総なめ
普通の作家だと、何とか二人を引き合わせて互いの運命を見つめるような設定にするのかもしれない。この映画ではストーリーには重点を置かず、叙情的な映像だけで攻めてくる。
最初は混乱してしまうが、ポーランドではポーランド語。フランスではフランス語を使い分けていて、切り替えしを多用するわけでもない。ましてやポーランドのベロニカは突然死の家系なので、コンサートのソプラノ独唱中に死んでしまうのだ。葬式で土中に土をかぶせられるシーンでポーランド編が終わるが、突如として始まるフランスシーンではまるで生まれ変わりのようにベロニカが輝くのです。
そのフランスのベロニカが人形劇を観て以来、人形師とのロマンスへ向かうストーリーも独創的。最初からクリスタルなどの小物のクローズアップにより幻想的には描いていたけど、このロマンスからはその事実自体が幻想的なのです。
人形劇から数日後、差出人不明で送られてきたテープを聞くと、駅のアナウンスや爆発音が入っていて、それを独自に調べるシークエンス。これが特に印象的。自分と同じ人間がいると信じるところは霊能力を絡めているようで、それほどでもないけど、イレーヌ・ジャコブから発散される神秘的な魔法には変わりない。エロチックなだけじゃないんだ・・・すごいぞこの女優。といった感じ。
息を飲むような美しさ
なぜ、ドッペルゲンガーって会うと死ぬのだろうか。この伝承を初めて知った時、まったく意味不明でした。
改めて考えて見ると、今までの自分が死に新しい自分になる、鏡の中の自分(影とか理想の自分とか)がひとつにまとまっていくといった、死と再生、統合のイメージがあるのかな、なんて考えています。
ふたりのベロニカはドッペルゲンガーの奇譚です。ポーランドのベロニカは音楽をやって恋人もいるリア充で生き生きしてましたが、フランスのベロニカというドッペルゲンガーを見て死にました。
その後、やや主体的に生きていなかったように見えたフランスのベロニカは、ふたりのベロニカをつなぐような人形劇を見て、もうひとりの自分の死を直観し、人形使いに恋をして、積極的に生き始めたように見えました。
そう考えると、ベロニカというひとりの人間の死と再生を表現した幻想物語だった、とも考えられるかもしれません。
しかし、そのような考察はヤボだと思っていまして、
(本作を考察するには、映画の教養含めて多くの知識が必要な印象を受け、自分のレベルではキャッチしきれていないと判断)
この映画からは美しさや儚さ、えも言われぬ悲しみが感じられるので、それを味わえば良いのでは、なんて考えてます。
セピアがかった映像、荘厳な音楽、人形使いの動きなどの極めて繊細な演出、多くを語らぬ脚本、そして主演のイレーヌ・ジャコブの絶世の美女ぶり。それらがブレンドされて、息を飲むような美しい映画となっています。
観る者の変化
クラクフとパリ、生き写しの二人の女性がそれぞれの人生を歩む。
20年前にVHSで観たときの記憶を辿ると、クラクフのベロニカは優しくて大人しい娘なのに対して、パリのベロニカは要領よく男をものにする賢い娘であまり好感のもてるキャラクターではなかったように思う。
記憶など曖昧なもので、20年も経つと自分の意識の中でひどく作り替えられていくものだ。観たという事実そのものを忘れてしまう忘却よりもたちが悪い。
今回再鑑賞し、パリのベロニカだっていい子であることを認識。確かに、最後に好きな男の子と結ばれるのはパリのほうだけれども、別にズルいことをしているわけではない。何をどう解釈した残滓が、記憶の中のベロニカをズルい女に仕立て上げてしまったのだろうか。
20代半ばの私にとって、パリのベロニカはよほど器用な少女に見えたのだろう。今回見惚れてしまったイレーヌ・ジャコブの小さくて可愛いおっぱいのことなどほとんど記憶にないのだから、中年になった自分の視点の変化をつくづくと思い知らされる。
若い頃の自分は、短い一生を終えたクラクフのベロニカに同情し、生と性を謳歌するパリのベロニカには嫉妬のようなものを感じた。その自分も年月を経て中年のじじいとなり、女優の若く瑞々しい身体こそが最も印象に残るという物悲しさ。
ある作品を、ある年代の視点で鑑賞するのと同じようには、年月が経ってしまったときに再鑑賞することは出来ないものである。今自分が観ている映画は、今この瞬間にしか生成しない現象なのだということを、ほろ苦い気付きとともに考えさせられた。
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