ハロルドとモード 少年は虹を渡る : 映画評論・批評
2010年7月20日更新
2010年7月17日より新宿武蔵野館にてロードショー
死に魅せられた少年が老婆との出会いで得るイニシエーション
生きづらさ、絶望、閉塞感――憔悴しきった今、粗野で破壊的な作風の目立ったアメリカン・ニューシネマの時代ですら牧歌的に思えてくる。反撥や厭世を直截的な衝動や暴力で表すのはたやすく、何も解決をもたらさないからだ。しかしあの時代にあって、ハル・アシュビーのセンシティブな感性は異彩を放っていた。本作は、破壊的衝動を内側に溜め込んで鬱屈しきった今を生きる者たちにこそ、強く深く到達するはずだ。
19歳の少年ハロルドにとって、周囲を翻弄せんとする自殺遊戯だけが唯一の自己表現。同時にその行動は、コミュニケーションを断ち切ろうとする意思も窺わせる。バッド・コート扮する少年の、世の中への戸惑いを隠せない今にも折れそうな存在感が絶品だ。彼は死への淡い願望を媒介に、79歳の老婆モードに出会う。見知らぬ他人の葬儀場でよく顔を合わせる彼女は、生きている証を実感するため臨席していたという少年との鮮やかなコントラスト。社会の規範からはみ出し存分に生を謳歌する彼女は、重く辛い過去を背負っている。それを示唆するほんの一瞬のカットを見逃してはならない。死に魅せられていた少年が、生に執着する老婆に惹かれ変容していく。表面上それは「恋」に思えるが、実はやりきれない世界へ踏み出す覚悟を決する少年のイニシエーションに他ならない。キャット・スティーブンスによる数々の挿入歌が、普遍的な寓話に途轍もない生命力を与えていることも付け加えておこう。
(清水節)