インランド・エンパイアのレビュー・感想・評価
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わからないものをそのままにしておいて、時間が経ってもう一度見ること...
わからないものをそのままにしておいて、時間が経ってもう一度見ることにしよう。それを繰り返そう。
暗い明日は昨日の今日か?ミコちゃんキュート
リンチ・ワールドにやられてしまった。何をやられたかというと、わけがわからなかったということだ・・・。『マルホランド・ドライブ』では2度観ると、“青い箱”を境にして現在と過去の繋がりがわかるようになっていました。しかし、今作でははっきりしているキーアイテムがない!ウサギ人間の舞台と“AXX・・”と書かれた境界壁のような気もするが、詳細はリンチ・マニアの方に訊いてみるしかない。
最初の近所に引っ越してきたおばちゃん(グレイス・サブリスキー)の意味深な言葉のために、劇中劇の形を取るパラレルワールドよりもローラ・ダーンがタイムスリップした設定だと思い込んでしまったのが失敗の一因。「映画と同じだわ」というローラ・ダーンの声によって、ようやく映画内映画なのだと気づいてしまったのです。しかし、何かある。ドライバーというキーアイテムと、「映画では殺人事件は起きない」という言葉に相反するように「オリジナルは主演の2人が撮影中に殺され未完の作品となった」という監督(ジェレミー・アイアンズ)の言葉。コレがなかなか有機的に結びつかなく感じてしまい、映画と同じように不倫するに至っては、観ているコチラまでが区別つかなくなってくる・・・。
有機的といえば、なぜか日本人の裕木奈江が出ていた。人が刺され、今にも死にそうだというのに、しきりに友達の話に夢中になってしまう役だ。ホームレスの特権か?笑っていいのか?というより、もう映画も終盤だぞ!理解できぬまま、その話に登場するミコちゃんを見てみたくなる。売春のやりすぎで子宮壁に穴があいているらしいし、彼女も死にそうなのか?エンドロールの映像でミコちゃんらしき女の子が登場してホッとしたけど、なんだかハッピーになれる終わり方だった・・・
理解できなくてもリンチ・ワールドは堪能できる。特にウサギ人間とロストガール。ストーリーに重要な位置を占めない登場人物でも大写しになる顔。悔しいのでもう一度観て理解してやるぞ!と思わせる演出にはなぜか惹かれてしまうのです・・・あぁ、悔しい。
AxXO N N←はて?
そんなモンじゃない!?
ローラ・パーマーのお母さんは意味深で不気味に登場し9時45分とか兎の部屋で電話が繋がるのも兎の部屋で、カットが掛かったから全て撮影している物語かと安心すればラスト約20分のセリフ無しでの映像が不可解に難解に不可思議に不穏に謎だらけに!?
コレがD・リンチの頭の中なのかッ!?と難解で意味不明で面白いか?そうでは無いか?その前に本作を好きになれるか?寧ろ嫌いか?
やはりリンチが好きか、ドウか?
唐突に指パッチンから女の子たちのダンスが始まりズゥーっと興奮状態が続いてテンション上がりマクりのエンディングロールで凄まじい!!
こんな内容の映画を三時間にしてしまうリンチはやはり恐ろし過ぎる。
リンチの癖が強いシ!観てる側がクセになる。
個人的にH・D・スタントンが好きでチョイ役だったけれど存在感抜群でみんなから同じ理由で金をカンパして貰うケチな役柄がgood!!
安らかに。
連立方程式な構造
デビュー50周年記念企画
デヴィッド・リンチ監督特集『デヴィッド・リンチの映画』
デビッド・リンチというおよそ類い希なる奇才によって描かれる非常に難解且つアート感溢れる映像。そしてやたらと心を引っかき回す音効と劇伴。出てくる女優のポルノ感がこぼれ落ち、そして、『ポケベルがならなくて』。
正直言って、何度も何度も寝落ちした。丸で作品そのものが強い催眠効果を発してるかのように・・・
しかし、だから評価が悪い訳ではない。この難解さを心地よい子守歌代わりに変化させている、いやもっと言うと化かされているようなそんな幻想、幻惑、そして幻覚と眩惑がこれでもかと襲ってくるような作品である。ハリウッドとは対極なシークエンスに好き嫌いははっきり分かれるだろうが、しかしこれだけのものを食らわされて心が落ち着かない人間はいない筈だ。
自分は、この難解さに虜になる。
難解すぎる
難解すぎる。難解すぎて訳が分からない。というか、わざと難解にしているような気がする。「マルホランドドライブ」も難解だったが、色々な解釈をする面白さがあったが、こちらはただ難解なだけである。
結局、よくわかんない映画なんですけど
事前に噂には聞いてはいたが、今回のデビッド・リンチ監督の新作がここまで難解だとは思わなかった。特に上映時間3時間の最初の1時間に映画への入口がまるで掴めず、ただ見ながら右往左往するばかりだったのには、リンチ・マニアを自認している自分自身に幻滅してしまったくらいだ。
しかし「昨日のことが明日おこる」というセリフあたりから、ようやく映画への入口を見い出すと、あとは炸裂しっぱなしのリンチ・ワールドにどっぷりと浸り、「なーんだ、そんなことか」と観客に思わせておいてからのラスト20分の凄い演出の連続を見てしまうと、難解であることすらも魅力となるリンチ演出に、私はまたしてもとり憑かれてしまった次第である。
主人公の女優が出演する映画内映画と、主人公自身の話が二重構造のようになって複雑に展開する今回のデビッド・リンチの作品に、あえて自分なりの解釈をつけるならば、「過去との決別」が大きなテーマになっていたように思う。しかしこの作品をどのように解釈し、どのように受け入れるかは、見る人それぞれの感性や人生感で変わっていいものだ。リンチの映画を偏った視点で見てはいけない、のは、これまでのリンチの作品を見ている人には理解できるだろう。その意味では、今回また新しいリンチ・ワールドを発見させてくれるこの作品は、リンチのファンのみならず、まだリンチの作品を見ていない方たちにも一見を勧めたい。
一見とは言ったものの、この作品の難解さは一度見ただけで理解できる程度のものではない。一度見た私も、入り込めなかった最初の1時間と、映画の中でときどき登場するウサギ人間の家族の存在の二つをまるでわからないままにしておけないので、もう一度か二度、この作品を見るつもりだ。そのときに出会えるであろう、この作品に潜む新しい見方や新しい発見が、今から楽しみである。
理屈を、脱ぎ捨てろ
「マルホランド・ドライブ」「ストレイト・ストーリー」などで知られる、デヴィッド・リンチ監督が、自身のキャリアの集大成と位置づける一品。
いわくつきの映画に出演が決まった、二人の女優。映画撮影の現場に、どっぷりと身を沈めていく女優達は、私生活と映画世界の境界線を引くことが出来なくなっていく。真摯に映画に向き合う誠実さと、その裏にある虚構という矛盾をあざ笑う心の暴走が、行き着く先にあるものは。
晴れ渡った平日。暇つぶしに入った美術館の一角で、思いがけず抽象画の前に立ってしまったときに感じる、強烈な戸惑いと、小さな安らぎ。この作品に向き合った瞬間、私の心には同様の感情が渦巻いている。
簡潔なストーリーを書いてみたところで、本作を十二分に描き切ることが出来ない諦めを感じてしまうのは、私だけではないのかもしれない。そもそも、本作「インランド・エンパイア」は直訳すると「内なる帝国」。他人が勝手に言葉で本作を解釈し、他の観客に提示しても決して共感を得ることが出来ない、少なくとも、リンチ監督の思惑はそこにあるように思えてならない。
人間が複雑な内面に秘めた欲望、恐怖、怒り、喜び。そして、過去への惜別と、感傷。あらゆる要素を乱暴にぶち込み、物語を理解することを徹底的に拒絶する。必死に物語を追いかけ、そういうことだったのねと理解できたと思えば、観客を馬鹿にするが如く、新しいシーンを、新しい要素をねじ込み、観客を置いていく。そこで、私達はまた必死にリンチ監督の挑戦に立ち向かい、穴だらけの世界に潜り込んでいく。
ここで、ふと立ち止まって欲しい。必死に潜り込んでいく難解な世界に待っているのは、苦しみだろうか、怒りだろうか。いや、あるいは安らぎではなかったか。答えのない問題に立ち向かうことが、ここまで楽しいのか。数学の問題に嬉々として向き合う学者の気持ち。理屈や常識にがんじがらめの毎日をちょっと抜け出して、曖昧の海を泳ぐ。これで、いい。これが、いい。
答えが、メッセージが理解できないのは当然である。そもそも、ないのだ。
本作を完全に理解できたと言いふらす方が身近にいたならば、その方は立派な詐欺師に変身する可能性を多く秘めている。静かに、離れることを勧める。
たまには、理屈を思い切り、脱ぎ捨てよう。
前半は◎、後半は…
リンチの映画の雰囲気は好きです。
でもこの映画はわからなかったです…
ファンの皆さんごめんなさい。
前半のミステリアスな展開は、いろいろな伏線を感じさせ、ワクワクして観れました。
でも後半は…
主人公を演じたローラ・ダーンの顔のアップばかりが印象に残りました。
リンチ・ワールドへようこそ
ますますディープな世界に行っちゃいました。リンチ。最近、彼の短編集を見たんですが、それからすると彼の本当にやりたい映画はこっちの方向なんでしょうね。
ストーリーは、共同プロデューサーでもあるおなじみのローラ・ダーンが演じるハリウッド女優が新作映画の役を演じるうちに、現実との境界がわからなくなって、というのが流れです。が、あってないようなストーリーです。マルホランド・ドライブ以上にシュールで不条理なアーティスティックな作品に仕上がっています。
前評判で、大体知っていたので、私としては非常に満足度の高い映画でした。ただ、初めてリンチの作品を見た人は、驚くと思います。途中、ラスト近くで裕木奈江が登場。もっともショッキングでシュールな台詞を、童顔の彼女が延々数分しゃべり続けます。彼女、Wikiで見たらもう37歳なんですね。20歳くらいにしか見えません。日本人にとってはその辺も見どころか?
思考不能、理解不能、でも感動
リンチ監督も昔に比べれば(これでも)品がよくなりましたね。昔は徹底的に観客を突き放してましたが、「ツインピークス」でテレビドラマをやったのが良かったのか、最近じゃある程度丸くなってます。
といっても彼の作風であるどこか臨床心理的な描写は、これが一番すごいかも。眠気を誘うのですが、それは退屈だからじゃなくて、催眠的だからなのです。もう、これでもかていうくらいシュールな映像、展開のオンパレード。ウサギ人間なんてほんと意味不明で、でも、その意味をわかりたい気持ちにもなりません。この人の映画に意味を求めることほど不毛なことはないと思います。ようはイメージの問題なのだとわたくしは思ってます。
エンディング、涙しました。それは3時間という長い映画からの解放の安堵感もあったのでしょう。でも、あのラストはほんとに美しかったですね。あれがあったから、これからもリンチファンでいようと思いました。
リアルとリアリティの間に横たわる生理的な心地よさ
リンチの作品でいちばん好きなのは「マルホランド・ドライブ」だ。あらかじめ失われて「しまった」、その喪失感が画面の中に満ちている感じがして。今回もまたその「すでに終わってしまった出来事への郷愁」が強く感じられる作品となっていた。夏休み終わり間近の夕方、ゆっくりと日差しが弱まっていく瞬間をビルの上から眺めていた幼い日の記憶といったものに似た、過去それを手にしていたかどうか曖昧ながらも、ひどく懐かしくそしてもう永遠に手に入らないことだけをしみじみと実感している、そういう感覚に対しておそらくリンチは執着・固着しているのであろうということがよくわかる映画だった。
「インランド・エンパイア」は「マルホランド・ドライブ」と同じようにハリウッドを舞台にし、同じように多重構成なストーリーでなおかつ両者のテーマも通底していることを考え合わせればリンチの一貫性こだわりに恐れ入るばかりだ。たまらんです。リンチは同じ話を繰り返し違った角度から描くのが本当に好きだ。同素材を用いて何度も何度も箱庭を作り続けているかのように。その偏執狂ともいえる情熱を支えている大きな要因のひとつに「女優という職業に対するリンチの偏愛」があげられるだろう。「マルホランド・ドライブ」でもそこの部分は描かれていたが、女優という「狂った職業」を、リンチは愛してやまない。蝶マニアの少年が虫眼鏡で展翅板に貼り付けられた毒々しい蝶々をじっくりと愛でるように、彼は「壊れていく」女優を見守っている。
ストーリーは、ローラ・ダーン演じる女優が劇中主演する映画の撮影風景を縦軸に(どちらかというとローラ・ダーンそのものが縦軸ともいえる)それをテレビで見守る女、ウサギ人間の公開録画番組、ハリウッドにたむろする娼婦、ポーランドで男たちがもめたりしている映像が絡む。羅列しただけではなんのことやらさっぱりだろうが、本編をみてもさっぱりだから安心したまえ。リンチが思い描くイメージが次々と画面を横切り、横溢する。
180分という時間はかなり長く、鑑賞中は眠くなったりだれたりするけれど、そうしたこちら側の感情を見抜くように突然派手な50年代アメリカンポップスの大音量とともに娼婦のダンス映像が始まったり、絶叫するローラ・ダーンのモノクルオシイ顔がこれでもかと画面いっぱいに映し出されたり、下手なホラー映画が裸足で逃げ出すくらいキョーレツなピエロの顔が大写しになったりする。そういったトラウマ必須30年保障つきみたいな映像を見るにつけ、つくづくリンチは「生理的」な感覚を知り抜いていると実感。だからこそそれ以外のシーンは実に生理的心地よさに満ちているのだが。それらはたとえば雨粒が目に入ってぼやけて見える街灯の感じとか、ふと振り向いたとき目に飛び込んできた他人の顔、ぼんやりとした室内灯によって浮かびあがる「見知らぬ自分の部屋」といった具合の「いつかどこかで目にした風景」を「こちら側」に喚起させる。どぎつい化粧をした娼婦たちのたむろする寒々しい路上、オレンジ色のライトの中の交歓、彩度と明度のはっきりしない画面に映し出されるこれらの映像の、なんと「リアル」なことか。(デジタル映像ゆえの画の粗さみたいな部分も関係してきているとは思うが)
彼の作品を見るたび、リアルとリアリティの差異について考えてしまう。
およそ多くの映画にとって必要なのはリアリティであって、リアルではない。リアルな喧嘩では人は啖呵なんかきらないし、そんな暇があればさらに二三発続けざまにぶん殴ったほうがよい。待ち合わせ相手がどんなに遅れていようとも駅で腕時計見ながら「あいつ遅いな」などとは言わないし、息子夫婦の不和を語りながらご飯を作り食器を洗いながら自らの置かれている微妙な立場について説明をしたりはしない。だが映画にとってそれがリアルではなくてもそういう場面は必要である。そこをいかに自然にもっともらしく織り込んでいくか、それが「リアリティ」である。そういう意味で言えばリンチの映像は「リアリティ」はないが生理的感覚に根ざしているが故の「リアル」さがある。退屈だが見るのをやめようとは思わない。「リアリティ」という「小賢しさ」から遠く離れたリンチのみがもつ惹きつけてやまない磁力なのだ。
話の内容はフロイト的解釈でも古典映画からの引用でもさまざまに読み取れるようになっている。いつまでも残るシーンとともにあれこれ解釈を考える楽しみもリンチ映画の魅力のひとつだ。見終わってウサギ人間の意味を考えてしまったなら、既にリンチ的箱庭迷宮にとらわれた証左なのだ。私は今もその迷宮に囚われている。
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