大日本人のレビュー・感想・評価
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映画じゃない。ひどすぎる
ドキュメンタリー形式で、ウルトラマンの日常を追いかけた演出。
ちょっと、関心を惹かれますし、リアルすぎるくらい等身大に描いてあるので、彼が戦いに赴くところはちょっとワクワクしてしまうくらい、ユニークな描き方だと思います。
怪獣との戦いが主眼なのではなく、もしヒーローが本当にいたら、生活はこんなもんやで。というような、想像力豊かな演出はさすがだと思います。
とにかく、オチがひどすぎる。一応成立はしていると思いますが、「お笑い」という括りから逃れられないのなら、わざわざ映画にする必要があったのかと。
松本人志の作家性、映画でコントをやるスタンスは、個人的には○
【イントロダクション】
「ダウンタウン」の松本人志、第1回監督作品。
松本扮する孤独なヒーロー“大日本人”の日々をドキュメンタリータッチで描く。松本人志は、監督の他に、企画・主演、盟友である放送作家・高須光聖との共同脚本も務めた。
【ストーリー】
大佐藤 大(松本人志)は、6代目“大日本人”として、日本を襲う“獣〈じゅう〉”の脅威から日本を守っていた。妻とは離婚しており、娘とは半年に一度会えるかという頻度。そんな彼の姿を追うべく、密着ディレクターが記録していた。
大日本人とは、大昔から雷の力を借りて巨大化し、獣を撃退する使命を負った一族。かつては人気者として様々な商品とタイアップ、ゴールデンタイムにその活躍を放送する番組が放送される程の人気を博していた。しかし、獣の数がめっきり減った現在では、街の人々から忌み嫌われ、自宅の塀に落書きをされ、石を投げ込まれる始末。番組は深夜の数分枠に追いやられ、マネージャーはスポンサー企業の獲得に悪戦苦闘していた。
ある日、町に獣が出現し、いよいよ大佐藤こと大日本人の出番となる。かつては雷の力を借りて巨大化していたが、現在では日本に数ヶ所ある特別な施設で電気によって巨大化する。大佐藤は施設で特別な儀式を行なって巨大化し、獣退治に向かった。
【感想】
私は、ダウンタウンの『ごっつええ感じ』や『ガキの使いやあらへんで!』のファンであり、松本人志さんの著書『遺書』も読了済み。松本ワールドとも言うべき『ごっつええ』のコントでのシュールな世界観や、『ガキの使い』のフリートークでのトーク力、それらの番組で発揮されていた企画力は、かつて“天才”と呼ばれたのも納得の面白さだ。
しかし、そんな松本人志さんのキャリアにおいて、大きな分岐点となったのが本作による映画監督への進出だ。そして、時期的には監督第2作『しんぼる』(2009)以降、彼はそれまで蔑視していたはずの筋肉タレントへの道を歩むかの如く筋トレに魅了され、やがて黒髪を金髪に染め上げ、現在のスタイルになった。一説では、映画の興行的不振や世間からの否定的なコメントから自らを守る為の「自分を大きく見せよう」という行動だったのではないかとも言われている。
では、まだ路線変更を図る前に監督した本作はどうなのか。私自身は、本作の主人公・大佐藤のヒーローとは思えない冴えない日常、世間から嫌われつつも、政府からの要請があれば変身して戦わざるを得ない立場をドキュメンタリータッチで描いていく作風は、素直に楽しめた。
ライムスターの宇多丸さんが、過去にラジオにて松本人志さんのコントによくある「悲しみの中にある笑い」を指摘していたが、本作はまさに、そういった悲しみの渦中にある主人公を眺めながら、どうしようもなく笑ってしまう瞬間を楽しむ物なのだと思う。
都内の質素な一軒家、それも塀には誹謗中傷の落書きだらけ。自炊とも呼べない簡素な料理を作っては、1人で食事する日々。飼い猫こそ居るが、ペットが生き甲斐でもない様子。
夕方のインタビューの最中にも窓ガラスが割られ、急場凌ぎで補修した場所を夜に再び割られる始末。
大佐藤側は、奥さんや娘とはあくまで「別居中」という感覚だが、奥さん側は「離婚しているつもりなのですが」と答え、既に新しい男性とも親子揃って良好な関係を築いており、暮らしにも不自由していなさそうだ。娘はインタビューで父の職業や家族関係について「分からない」と答え、父親の事にあまり関心がない様子。奥さんのインタビューの内容から察すれば、娘は奥さんの新しい彼氏の方をこそ「お父さん」と認識してすらいるかもしれない。
何とも悲惨だが、同時にどうしようもなく、クスクスと笑みが溢れてしまうのだ。
また、東京都庁に出現した、匂ウノ獣♀(板尾創路)とのやり取りなどは、完全に『ごっつええ感じ』のコントである。そう、本作は“芸人・松本人志”が映画という枠組みの中で行った壮大なコントなのだ。クライマックスでピンチに陥った大佐藤を、某光の巨人にアメリカン要素を足した“スーパージャスティス”一家が助けに入る際、演出をそれまでのCG描写からスタジオセットと着ぐるみによるアクションにスケールダウンさせて描くのは、完全にコントのノリである。
この辺りは賛否が明確に分かれそうだし、私としても「え?」となりはしたのだが、では、「本作をどう締め括るべきか?」と考えた際、インパクトを残すという意味においては、確かにこうした方法はあるにはあるので、何とも言えない。
一つ擁護するならば、松本人志という作家の「オチへの無関心さ」があるように思う。再びライムスターの宇多丸さんの言葉を借りるならば、「松本人志さんのコントは、オチは割といい加減。それまでのやり取りで十分楽しめたでしょ?といったニュアンスのものが多い」のだ。思えば、『ごっつええ』は勿論、VHSでリリースされた3作のオリジナルコントシリーズ『ヴィジュアルバム(HITOSI MATUMOTO VISUALBUM)』でも、そうした唐突な終わりを迎えるコントは多かった。つまり、松本人志さんは映画は勿論、コントにおいても「物語を畳む」という能力には乏しいのだ。なので、本作の終わり方はある意味では作家性の発露として致し方なしといったところなのかもしれない。
ところで、私が本作を評価したいポイントとして、“さり気ないリアリティ”という部分がある。ディレクターがコメントを聞き取れず、大佐藤が直前の台詞を言い直す姿は、ドキュメンタリータッチながらも台詞はハッキリと記録される他のフェイクドキュメンタリー作品にはない演出であり、リアリティと新鮮さが感じられた。
巨大化への儀式にやり直しのディレクションが飛ぶ姿など、まさにテレビ的な要素であり、テレビの力によってスターダムにのし上がった松本人志さんならではの演出だろう。
一方で、本作の製作費は10億円とされているが、果たして何処にそれだけのお金が掛かったのかは疑問ではある。恐らく、CG製作に多額の費用が掛かったのだとは思うし、当時としては本作のクオリティも十分及第点ではあったのかもしれないが。しかし、ならばせめて建物はもう少し派手に壊してほしかった。それこそ、ラストのコントへのスケールダウンというネタを際立たせる意味でも、そこに至るまでは特撮ヒーロー物として本格的なクオリティは必要不可欠だったはずだからだ。
【クセの強い“獣”達の面白さ】
私が本作で最も評価したいのは、作中に登場する怪獣達のシュールなビジュアルと個性的な習性だ。まるで、中学生が退屈な授業中にノートの隅に落書きした怪獣を、そのまま映像化したかの如き姿は、本作のような、所謂“珍品”でしか味わえない独特な魅力がある。
登場する獣は以下の通りで、
・締ルノ獣(海原はるか)…輪となった伸縮する長い手を高層ビルに絡めて倒し、地面に卵を産んで繁殖する。破壊や戦闘の最中でも、髪型を気にしている様子。
・跳ルノ獣(竹内力)…一本足に巨大な頭部が付いた妖怪のようなビジュアルで、絶えず跳ね回って行動する。まるで進まなければ死んでしまうマグロのように、ビルの間に挟まって身動きが取れなくなると、そのまま絶命した。
・匂ウノ獣♀(板尾創路)…まるでタコさんウインナーを頭から被ったような数枚の花弁に似たヒレを持つビジュアルで、その下には乳房も確認出来る。対話も可能で、自身を退治に来た大佐藤とは「♂に求愛されて迷惑している」と語っていた。
・匂ウノ獣♂(原西孝幸)…繁殖を求めて、♀を絶えず追っては求愛行動を繰り返す。その独特な動きは、演じるFUJIWARAの原西さんならでは。どうやら、無事♀との生殖行為には成功した様子。
・童ノ獣(神木隆之介)…人畜無害な子供の獣。何やら母親と競争をしていた様子で、抱きかかえた大佐藤の乳首を吸ったばかりに落とされてしまい、命を落としてしまう。世間では、無害な彼を葬った大佐藤に批判が殺到する羽目に。
・赤鬼の獣…作中では名前が明かされないので、この名称は私による仮称である。大日本人を凌駕する力を持ち、彼を退散させる。再び出現した際には、駆け付けた4代目を撃破し、助っ人であるスーパージャスティス一家にフルボッコにされる。
このように、作中に登場する怪獣の種類は多く、そのどれもが個性的で、印象に残るのだ。登場した獣を紹介する説明文の面白さ含め、本作の白眉は、こうした個性豊かな獣達だろう。
【総評】
お笑い芸人・松本人志が、規制が厳しくなっていくテレビ業界に反抗するかの如く、映画という枠組みを使って描いた壮大なコント。映画として評価出来るかはさておき、彼の作家性は十分に出ていたと思う。
それにしても、本作の当時はイケイケだった松本人志さんも、今や自身の行いによって窮地に立たされており、テレビからは実質的に姿を消してしまっている。自業自得ではあるのだが、かつてその才能を遺憾なく発揮していた人物が、自らの軽率で傲慢な行動か失脚していく姿というのは、勿体無いと言わざるを得ない。
絶対的な正義は存在しない
BJ「「正義か。この世にそんなものありはしない。」
監督と脚本は『しんぼる』『さや侍』『R100』の松本人志
先祖代々大怪獣と戦う大日本人の苦悩を描いたモキュメンタリー映画
普段は等身大のサイズだが国からの依頼を受けると国の施設で電流を流され巨大化し「獣」と呼ばれる大怪獣と戦う
大日本人も獣も街もフルCG
大佐藤大はロン毛
大日本人になると逆立つ
大日本人は青いパンツ一丁でほぼ裸
長くもなく短くもない棒を持って戦う
ビームは出ないし派手なキックもない
スポンサーがつくと体に広告をつける
「獣」は怪しくないので怪獣ではなく獣と呼ぶと大佐藤大はハイティーンのときに解釈した
獣は死んでも爆発しないし泡にもならない
ピクミンみたいに天に召される
五代目の父は電流が強すぎて早死にしている
四代目の祖父は高齢者養護施設に暮らしているが認知気味で勝手に自分で電流流して大きくなって大騒ぎに
かつて大日本人の活躍を中継した番組はゴールデンタイムに放送されていたがやがて低視聴率に喘ぎ今では深夜枠の体たらく
睨ムノ獣を倒したあとに現れた全身赤い獣が現れ完敗すると逃亡した中継番組は皮肉にも高視聴率に
新幹線で名古屋方面に移動中を利用したインタビューで通路のため大佐藤大の前を複数の乗客が次々と横切るがその度に視線をそちらに向けるシーンは好き
板尾が演じたメスの匂ウノ獣とのやり取りには笑った
赤い獣との最終決戦には四代目が助けに来てくれたが負けて天に召される
終盤アメリカンヒーローの一家が現れるとなぜか実写に
スーパージャスティスに父と母と思春期の妹ドンタッチミーと幼い弟のビーマイベイビーが登場
ゴレンジャーハリケーンのような技を使うなど最後はビームを放ち赤い獣は爆死
エンドロールも続きあり
ジャスティス星にあるスーパージャスティスの一家のお宅に招かれジャスティスの母が延々とジャスティスに説教する
父の「ぜひ」も
面白い
世間一般では低評価だがわりと自分は好き
新人賞候補としてカンヌに招かれるわけだ
冒頭のインタビューは退屈だったけど
96年のごっつええ感じのコントを彷彿させる部分はある
どうやら自分は多数派?となかなか共感できないサイコパスなんだろう
ヤフコメの自己紹介とかYouTubeコメント欄の語尾に草とかバカじゃねーのと本気で思うもん毎回毎回
配役
妻子と別れて一人暮らしをしている六代目大日本人の大佐藤大に松本人志
「テレパシー」「シンパシー」と名付けた黒い2匹の犬を飼っている大日本人の小堀マネージャーにUA
大日本人のドキュメンタリー番組を制作している取材ディレクターに長谷川朝二
髪を靡かせ両腕が輪っかになっている締ルノ獣に海原はるか
足が一本だけで足の上に顔があるだけの跳ルノ獣に竹内力
関西から東京にやって来た悪臭を放つメスの匂ウノ獣に板尾創路
メスと交尾するため付いて来てアピールのダンスをはじめるオスの匂ウノ獣の原西孝幸
東京ドームの天井の上で寝ていたところを大日本人に抱かれた際に乳首を噛んでしまう童ノ獣に神木隆之介
ウルトラマンのようなアメリカンヒーローのスーパージャスティスに宮川大輔
ウルトラの母のようなステイウィズミーに宮迫博之
三河施設で巨大化した際には大佐藤大がよく立ち寄る名古屋のスナック「あずさ」のママに中村敦子
夫と別れ娘と暮らす大佐藤の元妻に街田しおん
あなたの投稿
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太平洋に島が突然宝島が現れた。しかしそれは未来人の潜水艦だった。
23世紀に地球は滅びており、それを見た艦長はノアの方舟計画を立てた。
地球内部のエネルギーは未来ではかなり厳しく管理されてるが、
現代ではそうでないためそこから盗みそれで宇宙へ移住する計画。
艦長の子供たちはそれに反対し、昔の優しい父に戻って欲しかった。
そしてドラらと出会い、阻止の方向で共闘する。
結局少年のプログラム技術が父に勝り、ドラらの活躍もあって阻止。
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感動的なシーンも多く、映画ならではののび太の純粋さ、
ジャイアンの勇敢さ、スネ夫の賢さなども健在だった。
その点では心動かされるし、またとても見やすい。
ただ昔ほどの大感動がないのはおれが大人になったからなのか?
少年時代に見た初期映画作品を今見たらどう感じるのだろう?
あとふと気になったのが、宝島の話になった原因は出木杉だった。
出木杉が本を紹介し、またそれをベースに自分で小説を書いてるんだとか。
なのにその冒頭以降は全く出ず。何だか可哀想になって来た・・・。
一縷の望みを賭けた結果…
北野武という例もあるんだし、もしかしたら…と一縷の望みに賭けて鑑賞。結果は清々しいくらいの大スカだった。
モキュメンタリーという手法も社会との折り合いに葛藤するヒーローという題材も、調理次第でいかようにもうまく仕上げられそうなものだが、本作には特段の目新しさはない。「次第に傲慢になるドキュメンタリー作家」とか「ヒーローを冷笑する大衆」とかいったよくあるステレオタイプを水平方向に押し広げるためだけにそれらの手法や題材を借りてきただけなんじゃないかと思う。
松本人志の醍醐味ともいえる気まずい間と、そこからくるシュールなコメディは、確かに瞬間的には笑える部分もあるのだけれど、その場限りのコントとして一瞬で蒸発してしまうものがほとんどだ。しかも後半になるとそうしたシュールさを場面転換の契機に用いようという意図があまりにも明け透けに前景化してくる。2時間のコントというよりは、それぞれが連関しない無数のコントが2時間ぶん、といった趣。コント一つ一つの面白い面白くない論争は差し控えるとして、映画としてはまったく面白くない。いっそ開き直って何編かの断章からなるオムニバス映画にでもしてくれればまだマシだったと思う。
あとはイメージの運用が絶望的に下手だった。たとえば冒頭、大佐藤の自宅でのインタビューシーン。大佐藤がふえちゃうワカメを食べながら「これいいんですよね、好きなときだけ大きくなって」的なことを言うのだが、「大日本人」という責務を背負う大佐藤の悲哀を表す暗喩としてはあまりにも軽率だし、感傷的すぎる。都庁前で二匹の獣が公然猥褻に及ぶ際に、ティッシュの画像が映し出され工場のピストン音が鳴り響くというのもかなり酷い。だったら二匹の公然猥褻を大佐藤が横から見ながら「アカンな〜」みたいな渋い顔を浮かべているさまをロングショットで捉えたほうがまだ面白い。
最後くらい突拍子もないオチをつけてくれるかと思いきや、これまた安易な『旧劇エヴァ』的メタ演出。アメリカからやってきたとみられるウルトラマンらしきニューヒーローが『ウルトラ6兄弟vs怪獣軍団』のごとき多勢に無勢の集団リンチで獣を圧倒する。大日本人では手も足も出なかった強敵が、彼らにかかってはまるで犬畜生のごとくいたぶられている。
もはや「大日本人」なる旧弊な自衛システムでは国家を守りきれない(&自衛隊も役に立たない)となれば、その空隙にアメリカが鉤括弧付きの「正義」を掲げて侵入してくることは当然の成り行きなのかもしれない…などと無理やり国政にこじつけてみたところで、そんなのは半世紀前に江藤淳が『成熟と喪失』で散々書き散らした戦後日本論の焼き増しに過ぎない、と言われてしまえば返す言葉もない。ただ下手に政治に走りすぎず、最後までシュールコメディ的な調子を貫徹したことは偉い。
エンドロールの茶番劇は松本人志という芸能人の性質を如実に表しているといっていい。円卓を囲むアメリカ・ウルトラマンの家族。まるで本編の中じゃ俺は映画的制約に抑制されてたんだと言わんばかりのキレと活発さで会話劇が展開される。そしてそこでは誰もが関西弁を喋っている。映画を作ってみようと思い立ち、あの手この手で変なことをやろうとしてみても、結局最後にはお笑い=吉本興行=関西弁に回帰してしまう、という松本の根本的な「関西お笑い芸人」性がここには色濃く滲出している。
彼が映画監督を廃業してしまったのは、もちろん興行的な理由もあるのだろうけど、それ以上に彼自身の根本的な性質が絶望的に映画監督に向いていなかったからなんじゃないかと邪推する。
期待値が大きすぎた
松本人志の作品は全て観ました。
これでわかったんです、世の中はあらゆる運によって成功するか否かが変わるんだと。
松本人志はお笑いで成功しました。
私はそのことを「松本人志ただ一人の才能のおかげだ」と思ってた時期もありました。
本人もそう思ってたんじゃないかしら?
でも違うんだなって年を重ねるごとに気づいたんです。
あらゆる運が重なって松本人志が大きなビジネスに繋がるように周りの協力もあったんだなって思います。
それはお笑いに関してはです。
松本人志のワードセンスは素晴らしいです。
でもそれはお笑いに関してはです。
それを面白がって出会った相方、放送作家、TV製作者などによって大きくなったんです。
金メダルを取ることができる競技者もしかりです。
本人が凄いのではなく、周りの環境のおかげが大きく占めてるんですよ。
本人もそらある程度は凄いんでしょうけど、もっと凄くてポテンシャルの高い人は世の中にゴロゴロいると思います。
ただ、それが世間に出てないだけ、ビジネスになってないだけだと思います。
閑話休題、つまり何が言いたいかって言うと、松本人志はたまたま運良くお笑いで成功した。
でもたまたま運悪く映画のセンスはなかったって話ですよ。
カルト映画として売っておけば・・・(この作品も竜とそばかすの姫の元ネタの一つかな)
既に言い尽くされているとは思うがマニア向けの作品として作って宣伝しておけば正当に評価されたと思う。
よくあるテンプレ映画より一般の評価が低い、それは難しいからだ。
ヒーロー、ヒロイン、爽快アクション、おいしいご飯、キレイなセックス全部なしwそれらを小ばかにした作品でそこをお笑いで埋めて見せているのは新しいし凄い挑戦だと思う。
しかしそれが分からず映画じゃないと文句を言うエセマニアだらけ。
マニアならもっとマニアックな笑いを入れろ足りない、と言うべき映画。
お笑いが分かっているマニアが沢山いると思ってしまった時代なんだろうな。
結局のところテンプレ映画をお笑いマニアも望んでいた・・・
映画の主題と真逆の結果が出て開いた口が塞がらないとはこのことだというべきなのか、主題がストレートに届いてしまったというべきなのか分からないが
場外ホームラン級のオチが付いてるなと思った。
(エセマニアが一般人の評価にひよって最後のまっちゃんそっくりになっているところが面白い。)
(個人的にお笑いマニアでもないので表紙の顔のドアップはやめてほしい。(マニア向けの映画なんだな・・・それを酷評するってどんだけ残酷ショーなんだwラストシーンそっくり。(星は映画だけではなくてその後の展開も込みの評価)))
(あとな検索したら北とかアメリカとか言ってる奴いるけど、赤鬼は左翼とエセ左翼全部でスーパージャスティスは資本主義やで、着ぐるみの中身はどこの国の人間かわからんって意味や!)
(竜とそばかすの姫のアズ(アバター)も同じでどこの国の誰か分からないという意味、ジャスティス特定したとか言ってる奴いるが特定の人物ではないと思うよ。ただモデルはいる。スーパージャスティスとは違う人。)
笑いが分かると言う文化
レビューする価値もない。
松本人志の映画作品は、なぜか起承転結という基本を過度に意識した脚本作りをしており、それが過度であるためにわざとらしいストーリーテリングになってしまっているという点が全てに共通しています。ひとことで言えば素人臭くて下手だという事になるでしょう。
この監督第1作にしても、赤い怪獣が現れた所が「転」となっていますが、その後の展開はどんどん客を冷めさせる結果をまねいています。
その原因はどこにあるかというと、「転」というものは、つまり観客にインパクトを与える展開部を意味するわけですが、本作の場合、「起」、つまり冒頭部が、実はすでに「転」になっているのです。
冒頭部で主人公の男が電気ショックによって巨人になるという描写そのものがインパクトの役割を果たしているため、「起承転結」というよりは「起(=転)承転結」といった方が正しいわけです。
つまりひとつの作品において「転」が2回起こる。すると180度+180度で、展開が一周してしまうので、最後まで見た観客は冷めるという結果になってしまいます。松本人志はこの事に気づいていません。
その対案としては「起(=転)承結」という物語展開にして「転」を意図的に省くという事が考えられますが、そんなところまで頭が回らなかったんでしょう。
好きなのだが。物足りないのは二点。
DVD108円ゲットシリーズ。兼、シリーズ駄作を見よう。 駄作の名...
緊張→緩和の笑い構造が二重三重に見られる
どうしてこうなった…
一言で言うとつまらないです。
ギャグ映画としてもメッセージ映画としても…
松ちゃんは好きです。ごっつのコントは面白かったです。最近NHKでやってたMHKとかいうコントはつまらなかったです。
一周まわっちゃったんだろうな松ちゃん…
松ちゃんはインタビューでこの映画の酷評に対してわからん奴が多いとか言ってましたが
エンターテイメント性(ただ派手とか設定が奇抜とかじゃない)がないと客はわかろうとしてくれません。見てくれません。
最後の方にアメリカのヒーローみたいのがでてきた時、主人公の反応がザ日本人なんですが、これはいくら体が大きくても日本人は小日本人という痛烈な皮肉ですね。
しかし面白くなきゃどんなメッセージがあろうが自己満足です。
映像作品でも撮ればいいんです。
わからん奴が多いなんていうのはクリエイターとして最低ですよ。
クソ映画10選の一角
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