「劇中に繰り返される「マイウェイ」はアゲハへの応援歌だと思う」スワロウテイル talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
劇中に繰り返される「マイウェイ」はアゲハへの応援歌だと思う
<映画のことば>
タトゥーは体に別な生き物を飼うようなものだ。
そいつが、人格を変えてしまうこともある。
そして、運命さえも。
何でも彫ればいいというものではない。
空前の円高(人々は、それを指して「スーパー円」と称しました。スーパーマンの胸に「S」の文字ではなく、「¥(円マーク)」が描かれた風刺画までが新聞に掲載されたりもし
ていました。
そういう当時の日本円の強さの、言ってみれば「引力」に引かれ、東南アジア―とりわけベトナムなどから、日本での一攫千金を夢見て、満足な航海設備も備えないボートのような粗末な小さな船で、しかし自国ではエージェントに大金を支払って、日本に密入国しようとする人々が後を絶たず、「ボート・ピープル」などと呼ばれたりしていました。
そういう身元の彼らが正業に就くことは難しく、多くは、今ふうに言えば「3K職場」で過酷な労働に、低賃金で非合法に働いていたようです。
本作の「イェンタウン」は、たぶん、そういう彼らの実態を模写するものなのでしょう。
そういう境遇での、決して恵まれていたとは言えないアゲハの生き様(ざま)を描き切ったという点で、本作は、これも少女(少年)を描かせたら右に出る者はいないとも言
える岩井俊二監督らしい一本といえるとも、評論子は思います。
佳作と評するのが適切だとも思います。
(追記)
令和の今でこそ、ファッション・タトゥーとかあって、とくに若い女性の間では、タトゥーもファッションのひとつ、アイデンティのひとつとして理解されているようですけれども。
しかし、往時は、モンモン(タトゥー)を入れているのは、「その筋」のお兄さん・お姉さんと相場は決まっていたはずなので、タトゥーを入れることにした=自分の体を彫り師に委ねることにした少女・アゲハには、「そういう境遇にある自分ではない、誰か」になろうとする並々ならない決心があったようにも、評論子は思います。
上掲の映画のことばは、アゲハの、その並々ならない決心を示唆・象徴するものとして、本作では重要な位置を占めるように、評論子は思います。
紙幣の変造にまで手を染めるほどに、荒(すさ)んだ生活の中でも、そこから巣立ちたいともがくアゲハの姿には、感動を覚えます。
(劇中に何度も繰り返し流れる楽曲「」マイ・ウェイ)は、自分の途を模索し続けるアゲハへの応援歌であったようにも、評論子には思われました
(追記)
お若いかたには、そもそもカセットテープというものにすら馴染みがないことと思いますけれども。
往時は音楽を録音することに使ったほか、当時は唯一の磁気媒体として、ワープロ(もちろん、ノートパソコンのワープロソフトではなく、ワープロ専用機)で作ったデータ
も、カセットテープに保存していたことを思い出しました。
(再生時の読み取りエラーで、データがよく文字化けしていたことは別論)
だから、メモリースティックにでもなく、データDVDにでもなく、もちろんSDカードにでもなく(極道=葛飾組の構成員だった…つまり「その筋」の人だった須藤が体内に埋め込んで隠していたカセットテープには、ニセの一万円札の磁気データが記録されていたというストーリーも、そんなに違和感なく受け入れるのとのできた評論子でもありました。
(かつて、磁気テープへの記録方式として、VHSかβかという争いがあったことも、もう「今は昔」というものです)
(追記)
「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず。」
「何それ」
「イェンタウンの守護神のお言葉」
その「守護神」が令和6年から渋沢栄一さんに替わってしまったので、イェンタウンの守護神のお言葉も、そのうち変わることでしょう。
(追記)
グリコが、イェンタウンを出てライブハウスを開業し、シンガーとして独立した当たりから、本作も違った局面を見せ始めます。
剽軽(ひょうきん)なアメリカ二世が言い出したように、いわば「何てもあり」の混沌だったイェンタウンから「サード・カルチャー」として進化・独立の境地を歩み始めたということでしょうか。
混沌の中から産まれる「サード・カルチャー」-。
考えてみれば、芸術作品のひとつである映画も、監督(製作者)の混沌の中から、あたかも一条の糸のように進化(純化)されて純化されてきた監督・プロデューサーの思念が、最終的に一本の作品として純化(あたかも、ドロドロの原油から石油製品が精製されるように純化)されて、初めて観客の眼に映るのでしょうか。
評論子には、そんなことにも思いが至った一本になりました。