太陽(2005) : 映画評論・批評
2006年8月1日更新
2006年8月5日より銀座シネパトスにてロードショー
ソクーロフは昭和天皇を描いたのか? それとも日本を描いたのか?
これは後から聞いた話だが、この映画、俳優たちに左右逆で演技をさせて、それを鏡に映したその鏡の映像をカメラが写しているのだそうだ。すべてがそうなのかどうかは分からない。嘘かもしれない。でも確かに、変なのだ。
日本人が描くことの困難な昭和天皇の人間宣言の前後をロシア人監督が映画にし、昭和天皇に扮するイッセー尾形をはじめそれぞれの登場人物たちが、まるでかつての日本映画のホームドラマのような演技をして、静けさとそれ故の深い悲しみと微かな希望が画面を覆うこの映画、何かが狂っている。どことは言えない。これは「昭和天皇」を描いた映画なのか? それとも「日本」という国そのものを描いた映画なのか?
タイトルの「太陽」とは何を意味するのだろう? さまざまなことが考えられる。天皇そのもの、沈みゆく太陽、その一方で終戦後の新たな日本の夜明け? しかも、この映画のほとんどが、仄暗い地下室の中。これはいつの映像なのだろう? ここに映っているのは何だろう? そこからは彼らの体温が感じられない。いや、感じられないと思うくらいの弱い体温が、そこにはある。それは希望だろうか? 絶望ではないだろう。世界中で戦闘が止まない人間世界の未来を、このロシア人監督は、この映画の昭和天皇の微かな体温の中に見ているように思う。
(樋口泰人)