フランソワ・オゾンは
カメラが良い。
屋外の景色はもちろん、室内の光もすべてが計算し尽くされている。
緑も、 家も、 道も、 水も、オゾンの狙う演出にそれら万象が従っているようだ。
映画館ではなく、自宅のモニターで映画を観ると、スクリーンに投影される拡大された、そして色味と輪郭がボヤケてしまった映画館の残念な景色ではなく、液晶の画面で画角がクッキリするのがなお良い。
モニターで鑑賞すれば、オゾンが多用する直線がよりよく判る。
そこをまたさらに斜めに走る直線が、まるで刃物の振り下ろされた跡のように画角を鋭く切り取っていることがよく判る。
直線のぶっちがいをバックにした登場人物たちの投げかける人間たちへの視線の鋭さが、より一層あれで鮮明になる。
ふしだら娘ジュリーを題材に利用して、盗作まがいの原稿書きの筆が進むイギリス女。
予想もしていなかった南欧でのジュリーとの出会いが、作家サラのスランプを助けてくれるわけで。
仕事だけでなく、サラの人生のスランプをも変えてくれるわけで。
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僕はシャルロット・ランブリングのサスペンス顔が苦手。
とにかくあの鎹(かすがい)のような口と、他人を見下げる灰色の目の半眼、三白眼が苦手なんです。
「わたしを離さないで」では、“人間を養殖する施設の番人”となったランブリング女史。人間の命をとことんまで追い詰めて、絶望の淵に突き落としてしまうあの妖女の顔には、耐えられないほどの恐ろしさを覚えるし、
「さざなみ」では、“ラスト3分の衝撃”という映画宣伝の謳い文句。高まる恐怖。迫るラスト・・
恥ずかしいけれど怖じ気付いて、ついに僕はデッキを止めて、DVDをレンタル屋に返してしまった思い出があるのです
(だから僕は結末は知らずじまいで、笑)。
ランブリングのあの口。あの目。
台詞を発していない時の、彼女の唇の動きと呪詛の表情が、僕は例えようもないほど怖い。
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【分かったこと】
作家サラと、こじらせ娘のジュリー。
【本作の大筋】は?
何のことはない、世代を超えて、彼女たち=女のことを愛さない“ある男”への報復と、そのために肌感覚で共感し合った女たち二人の結託。
サラの“人恋しい気持ち”に応えない編集者=チャールズ・ダンス。
その(遊び人の)チャールズ・ダンスを父親に持ち、父親がいつも不在だったことの寂しさと、母親を不幸な死に至らしめたその男への憎しみ。
(中年男を漁るのはその反動)。
サラとジュリーは、寂しさと心の傷で説明不要で触れ合ったのですよね。
そんな単純なストーリーなんだけれど、名優が演じて名匠が撮ると、これが大変な物になるという見本ですね。
ジュリーの泣いて暴れる錯乱をついに抱きしめ、
ジュリーの母親がクローゼットに遺した赤いワンピースをまとって、
女たちの胸の想いを引き裂くように、真一文字に乳房をかき晒して、作男に見せつけるサラの立ち姿。
サラの母親に成り代わり、プールサイドに母親の亡霊を呼び戻し、サラとジュリーは男たちを地面に葬る。
「ジュリー!本当のことを言うのよ!」。サラの叫び。
ジュリーの美しいヌードには縦一文字の手術痕。子供時代に受けた深い傷手イタデを閉じ込められた跡。
縫い合わされて、口を封じられた傷の跡が。
これは、硬派な怪談でした。
アルモドバルは、土臭く女を描き、
オゾンは、実にスタイリッシュに女を描写します。
シャルロット・ランプリングのこと、少し好きになりました。
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