劇場公開日 2001年7月20日

「下世話なオヤジ趣味から自由になれなかった日本版「不思議の国のアリス」」千と千尋の神隠し 徒然草枕さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5下世話なオヤジ趣味から自由になれなかった日本版「不思議の国のアリス」

2022年1月8日
PCから投稿
鑑賞方法:TV地上波

宮崎監督の解説によると、本作は個人の中に侵食してくる曖昧な現実を明確化して、それと戦う少女を描いたもので、あわせて言葉が力なのだと示したかったという。そう言われてみればそう見えなくもない。しかし、普通はそう見ないだろうな…w
では、お前はどう見るのか。

ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」ではウサギの穴から地下に落っこちたアリスは、さまざまな不思議な生き物たちと出会う。
姿が徐々に消えていき最後に笑った口だけが残るというチェシャキャットや3月ウサギ、眠りネズミ、マッドハッターにハンプティ・ダンプティ…彼らに向かって、アリスは好き嫌いをはっきり主張し、物事をじつにてきぱき処理していく。そのカッコいいアリスに本作の主人公はそっくりだと見る。

この映画の意味は何なのか? 「不思議の国のアリス」の意味は何だったかを思い出せばいい。それは無意味という名の意味がある世界、意味ではなく遊びがあればいいという世界だった。本作の世界もそれと同じで、現実の何らかの対応、比喩を見つけようとするとつまらないし、かなり無理がある。
湯婆婆や銭婆が現実世界の資本家や企業経営者で、客の神様はみすぼらしいが大富豪とか、いけすかない成金のカオナシとかで、その世界では人が単なる記号で扱われて本当の名前(自分の希望)を忘れるとか…対応はできるが、まさにそれに「何の意味がある?」ということだ。

この無意味な遊びの世界で、観客は現実から遊離し、理屈はわからないがそうなってしまうというお話の中に飲み込まれ楽しんで帰ってくる。それが本作なのである。別の人のレビューでも触れられていたが、宮崎は一種のディズニーランドを構築したともいえる。
ただ、いかんせん昭和のオヤジらしい教養のレンジから宮崎も自由ではなかった。だからアトラクションの内容が黒柳女史らしき湯婆婆や銭婆、ソープまがいの仕事場、エンガチョなど、下世話な趣味に終始してしまったのを、同じオヤジ族として悲しく思う。

徒然草枕